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第3章

二人を繋ぐもの

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目は覚めているのに、頭がぼうっとして働かない。
体も上手く動かせないので、ゲイルは視線だけをユーフェミアに向けた。

「かなりの量の鎮静剤を使われていましたから。ぼーっとしてるのはそのせいです」
「……」
「随分えげつないことをされましたね。恨みを買うようなことでもしたんですか?」

吸い飲みから水を含まされたので、大人しく喉を鳴らして飲み込んだ。

「まず謝らせてください。あなたに埋め込まれた魔法陣が先輩に関するものだとは思いませんでした。失礼なことを言ってすみません」
「……」
「先輩に会わせてあげたいんですけど、私もここしばらく会えていないんです。ずっと休職ってことになっていて。風の噂では結婚したなんて話も聞いていたんですけど…違いました。よく考えれば結婚を理由に何年も休職するなんておかしな話でしたしね…」
「……」
「あなたを治療してから先輩の消息を調べました。本当は私もすごく気になっていたんですけど、あんまり詮索しちゃいけないと思って我慢していたんです。先輩はいま、北の辺境にいます」

彼女はきっぱりと、確信を持つように告げた。

「数年前からカッタルタと戦争が続いていることは知っていますよね。先輩はマギウスの特殊部隊に選ばれて、戦地に派遣されたようなんです。なぜか極秘扱いになっていて…探り当てるのに苦労しました。私達が戦争中とは思えないほど普通に生活できているのも、きっと先輩が頑張ってくれているからですよ。やっぱり先輩は神です」
「……ぁ…」
「だけど戦争は戦争ですから。いつどうなるかなんて誰にもわかりません。私もそのうち駆り出されるかも。それはまぁ、公的機関に就職した時点で覚悟はしているんですけど。だから後悔しないように生きようと思います。しなきゃよかったって後悔よりも、すればよかったって後悔し続ける方がずっと苦しいですから…」

夜空を見つめていたユーフェミアは、ゲイルに向き直って微笑んだ。
それ以上は何も言わずに、彼女は病室を出て行った。
ゲイルは静かに頬を濡らしていた。


ユーフェミアが見舞いに来た数日後の夜、セルゲイが病室を訪ねてきた。
彼には事情を話していなかったが、入院が予定より長引いていると人づてに聞いて心配して来てくれたらしい。
ゲイルの身体拘束はまだ継続されているものの、鎮静剤を使用される頻度も減り、ベッドの上で体を起こせるようになっていた。

「ちょっと見ない間に随分やつれたな…。そんなに状態が良くないのか?起き上がってて大丈夫か?」
「ああ。悪いな、心配かけて」
「気にするなよ。飯はちゃんと食えてるのか?アイスクリーム買ってきたんだけど、食えるか?」
「ありがとう…食べるよ」

手が自由に使えないため、セルゲイに頼んで看護師を呼んでもらった。
事情を話すと、連絡を受けたサルヴァトルがやってきた。

「今は落ち着いていますがいつまた発作が起きるか分かりませんので、解除中はここに待機させていただきますね。カーテンに組み込んである遮音の魔法陣を起動しておきますから、お二人の会話は私には聞こえませんので安心してください。身体に異常が見られたらお話の途中でも立ち入らせていただきます」

サルヴァトルの言葉を聞いて、セルゲイは瞠目していた。
十数日ぶりに魔法陣を解いてもらったゲイルは、手を握ったり開いたりして感覚を確かめた。
両手首は拘束具の痕が内出血を起こしていた。

「ごめん、待たせちゃったな」
「気にするな。凍結の魔法陣が切れかかってるから、先に食べよう。チョコレートとバニラとどっちがいい?」
「これ…ドルチェッタのか…?」

見覚えのあるパッケージに、ゲイルの気持ちが僅かに華やいだ。
このメーカーのアイスクリームはメイリスの好物の一つだった。
少々値は張るが美味しいので、見かけたらつい手が伸びてしまう。
彼女の喜ぶ顔が見たくて、夏に家に遊びに行く時は大抵お土産にしていた。
ドルチェッタに限らず、メイリスはチョコレートのフレーバーを好んでよく食べていた。

『お前ほんとチョコ好きだよな。同じ味ばっかり食べてたら飽きてこないか?』
『いいえ、全く。あなたは節操なしよね』
『冒険心があるって言え。色んな味のやつ食べてみたいんだよ』
『ふうん…』
『興味ありませんって顔だな。お前もたまには違うの食べてみろって。食べ比べしよう、食べ比べ』
『あなたが食べたいだけでしょ?』
『ははッ、バレた?』

友達だった時も付き合ってからも、ゲイルがメイリスの食べているアイスをねだるのはお決まりの展開だった。
メイリスは毎回慣れたように『はい』と素っ気なく差し出して、その一口がどんなに大きくても平然としていた。
大人になってからならともかく、子どもの頃もよく嫌がらずにくれていたなと今更になって思い返されて、懐かしさに思わず頬が緩む。
その時ゲイルはもうメイリスのことをちゃんと受け止められると思えた。

「いつ退院できるんだ?」
「さあ…まだ未定だな。回復次第ではあるけど…」
「検査入院だって聞いてたけど、違うみたいだな。発作って何だ?何かの病気なのか?」

心配そうな顔をする友達に、ゲイルは自分の身に起きたことを打ち明けた。
ブレインにメイリスへの感情を憎しみに書き換える魔法陣を埋め込まれていたのだと話す。
話をする内にまた情緒不安定になるかと思ったが、意外と冷静に話せたことに自分でも驚いた。
目の前にいるセルゲイが物凄い形相で怒りを噴出していたからかも知れない。

「とんでもねえ野郎だな…しかもトンズラして消息不明だ?見つけ出して嬲りころしてやりたいな」

今にも実行しそうな勢いのセルゲイに、ゲイルは弱々しく笑みを浮かべた。

「同感だ。だけどそんなことよりも気がかりなのはメイスだ。今は北の辺境にいるらしい」
「誰かに聞いたのか?」
「ああ。魔法陣を解除してくれたのがメイスの後輩だったんだ。メイスが戦地に派遣されてるってことは極秘みたいだし、会えるかどうかもわからないけど…退院したら仕事辞めて行こうと思ってる」
「そうか…」

セルゲイはずっとメイリスの居所を知っていたが、彼女との約束通り知らないふりをしていた。
聞かれても絶対に言わないでくれと彼女は言っていたが、ゲイルは自力で突き止めた。
約束は果たされたと彼は判断した。

「なあゲイル。俺、お前に今まで黙っていたことがあるんだ。まだ戦争が始まる前、俺は一度だけメイリスの警護を任されたことがある。その時に…」
「警護って?」
「あー…そうか、そこからだよな。あのな、驚くとは思うけど…メイリスは王族だったんだ」

目玉が飛び出しそうなほど目を大きく見開いたゲイルに、セルゲイは無言で頷く。

「王族って…どこの?カッタルタ…のわけないよな」
「この国のだよ」
「は…?うそだろ?」
「それがマジなんだよ…まさかと思うよな。俺も信じられなかったけど、ゼルキオン殿下と対等に話しているのを見たら信じざるを得なかった。彼女自身は相変わらずだったけど」
「ちょっと待ってくれ。どうしてそんなことになってるんだ…?」
「それは俺にもわからない。ただメイリスが王族だってことは機密事項らしい。もし彼女のことを外部に漏らせば極刑だと言われた。お前に話したのがバレたら俺は消される」
「そんなにか…わかった、今の話は聞かなかったことにする」
「詳しいことは本人に直接聞けばいい。話を戻すけど、その時お前に物を預かったんだ。ずっと渡す機会を伺ってたんだけど…」
「物?メイスが俺に?」
「ああ。もし万が一お前に所在を聞かれたら『形見だと言って渡してくれ』って言われてな。聞かれなければ捨てていいとも言われてたけど、渡せてよかった」

セルゲイは上着の胸ポケットから布のハンカチを取り出した。
綺麗に畳まれたそれを開き、中に包まれていた小さなものをゲイルに見せた。

「…!」

それは間違いなくゲイルがメイリスに贈った、深紅の石がついたペアリングの片方だった。
恐る恐る手に取って、手のひらの上で眺める。
両目に涙が滲み、零れたような気もしたが、拭う気にはなれなかった。

「彼女はお前がやった指輪を形見だって言ったんだ。お前の次はないとも言ってた」
「……」
「きっと今もお前のことを変わらず愛してくれてるはずだ」

セルゲイの言葉を聞きながら、ゲイルは悲しみしかなかった世界に小さな光が灯されたのを感じた。
メイリスが今もその言葉を守ってくれているとしたら、もう一度やり直せる希望が出てきた。

「…俺達は前のようには戻れないかも知れない。だけどこのまま何もしないで諦めたくない。メイスが好きすぎて苦しいんだ…。あいつとこのまま離れて暮らすなんて、俺には耐えられない…」
「わかるよ。辛いよな…お前本当に彼女のこと大好きだったもんな。別れたって聞いて、おかしいと思ってはいたんだ。お前から別れるって言うはずないって…ずっと疑ってた。魔法陣のこと、気が付いてやれなくてごめん。俺は二人を応援してるから。なんでも協力するから言ってくれ…」

指輪を握り締めて泣くゲイルを、セルゲイが労わるように抱きしめる。
彼の目尻にも涙が光っていた。



それから数週間後、サルヴァトルから退院の許可が出たゲイルは約1ヶ月ぶりに自宅に戻っていた。
引っ越した家にはメイリスとの思い出になるものはどこにも見当たらない。
なぜならゲイルが全て捨てたからだ。
学生の頃からずっと大切に使っていた目覚まし時計も、彼女から貰ったマグカップも小物も、何もかも捨ててしまった。
昨日今日の話ではなく、あれからもう4年以上が経っている。
取り戻そうとしても取り戻せない現実を突きつけられたようで、彼は胸の痛みから逃れるように家の中をふらふらした。
何か一つでもメイリスがいた痕跡を残していなかったかとあちこち部屋を探して、洗面所にたどり着いた。
そこでメイリスではない、他の女性――ミーアが使っていた化粧品などの日用品が目に入って、ゲイルは憤りを露にそれらを床に叩きつけた。
他にもミーアの痕跡はどこかしこにあり、ゲイルは怒りに任せてそれを以前のように捨てて回った。
物に当たってもどうにもならないとわかっているのに、当たらずにはいられなかった。
ミーアに陥れられていたとも知らず、恋人と呼び、この家で何度も同じ時間を過ごした。
求められるがままに愛を囁き、年齢的になんとなくで結婚しようかとまで考えていた。
感情を操作をされていたとはいえメイリスを裏切り続けてきたことは紛れもない事実で、そのことが彼をひどく打ちのめした。
もし体に何の異常も起きなければあのまま一生を終えることになっていたかも知れないと思うとゾッとする。
ゲイルは暴れ出したくなる衝動を抑えて、処方された薬を口に放り込んだ。
キッチンに移動して水道水を蛇口から直接流し込み、その後バシャバシャと顔を洗った。
何度洗っても、この家でメイリスを憎みながら過ごした月日は洗い流せない。
絶望に嗚咽をもらし、そのままずるずると床に座り込む。
しばらくぼーっとして空を見つめ、いつの間にか寝てしまった。

眠っていたのは僅かな時間だったようで、瞼を開けると陽はまだ高いところにあった。
家の中にいても気が滅入るばかりなので、外を散歩しようと思い立つ。
玄関を出ると、一瞬外の廊下に座り込むメイリスの幻影が見えた気がした。
ここではない前の家に彼女が最後に訪ねて来た日は、秋口で風が冷たかった。
寒空の下に何時間も座り込んでいたせいで、彼女の鼻の頭は赤くなっていた。
そんな健気な恋人に、憎しみを抱かされていたとはいえ首を絞めて暴言を吐き、存在を無視しようとした。
自分でも知らなかった非情な一面を浮き彫りにされたような気がして、情けなさに項垂れる。
メイリスの自宅だったアパートを訪れてみると、当然のように彼女はおらず、既に他の人が住んでいるようだった。
玄関先まで行ってみると人が出てくる気配がしたため、離れた場所に移動して様子を伺った。
間もなくして、家の中から仲睦まじく笑い合う若い男女が出てきた。
いないとわかってはいてもメイリスに会えるかも知れないと少し期待をしていたゲイルは肩を落とした。
彼女は今頃どう過ごしているのだろうか。
結婚はしていないと聞いたが、何年も前のことだから今がどうなのかわからない。
先程のカップルのように彼女の隣にはもう素顔をさらけ出せるような他の相手がいるかも知れない。
あのメイリスが自分以外の男を選ぶはずがないと心のどこかで信じてはいても、時が経つにつれて人の気持ちは変わる。
彼女に今でも好きでいてもらえているかどうか、また好きになってもらえるかどうか、以前のような自信はもう持てなかった。
嫌なことばかりを想像してしまい、気晴らしに来たはずなのに余計に気が滅入った。

(来なければよかったな…)

自嘲する笑みを浮かべて、ゲイルは踵を返した。
ゆっくりとした足取りで今度はかつての自宅までの道を進んだ。
いつの間にか散歩の目的がメイリスとの思い出の場所や品探しに変わっていた。
とにかくなんでもいいから彼女との繫がりを見つけたいと必死になっていた。
しかし何も見つかるはずはなかった。
ゲイルの住んでいたアパートにも既に住人がいて、仮に部屋の中を見せてもらえたところで何の意味もないことは初めからわかっていた。
とぼとぼと来た道を戻っていると、道端の小石がゲイルの靴で蹴り上げられ、目の前を弾んで転がり、排水路に落ちた。
それが自らの手で捨てた指輪のような錯覚を覚えて、思わず格子の下を覗き込む。
しかしそこからは水の流れが聞こえてくるだけで、暗くて深い底には何の輝きも見当たらなかった。
ゲイルは息苦しさに耐えきれず、その場に蹲った。

(あれだけ一緒にいたのになんにも残ってないなんて!俺はなんて馬鹿なんだ…!メイスが俺の傍にいたって証明してくれるものが思い出だけなんて虚しすぎる…。何か、何かないのか…?何でもいいから…)

頭を抱えて考え込み、はたと思い当たるものに気付いたゲイルは駆け足で家に戻った。
靴を放ってリビングに置いたままにしていた鞄を漁り、目的のものを見つけてほっと愁眉を開く。
それを――メイリスの指輪を手のひらに握り込み、拳にキスをした。

(メイス…メイスっ…!捨てないでいてくれて…ありがとう……)

二人の過去を証明してくれるものは、皮肉にもメイリスが残したこの形見の指輪だけになった。
どんな思いで彼女がこれをセルゲイに託したのかはわからないが、それがたとえ自分への復讐だったとしても、感謝せずにはいられなかった。

「メイス…愛してる…っ、メイス…」

ゲイルは涙を流しながら、うわ言のようにメイリスへの愛を囁いた。
たとえ関係を修復できなくても、この想いを伝えに行こうと心に誓った。

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