その優しい人は、特別なお客様でした。

紬 祥子(まつやちかこ)

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第一章

【第5話】その言葉に、心が揺れた


 その日の、シフトが終わる直前。

 妙に表情を硬くした三好から「桜田さん、これ」と、折りたたんだメモを渡された。
 亜矢香が広げてみると、そこには【仕事の後、店の正面まで来てください】と書かれている。

「三好さん、これって」
「副社長から。ねえ、何かあったの」

 心配半分、好奇心半分の表情で尋ねられ、亜矢香は返答に窮する。

 自分でも、何が何だかわからないのだ。
 親会社の副社長が亜矢香個人に「伝えたいこと」など、見当がつくはずもない。

 軽い混乱を覚えながら、亜矢香はその日の仕事を終える。帰り支度をし、表通りに出ると、件の人物がメモ通りに待っていた。

「今日もお疲れ様です、桜田さん」
「……お疲れ様です」
「少し離れた所に行きますが、いいですか?」

 わずかな逡巡ののちに亜矢香が頷くと、彼――吉羽副社長は、最寄り駅に向かって歩いていく。

 副社長に連れられて入ったのは、駅近くの落ち着いたビル、ラウンジカフェ。来たことのない類の店に対する緊張と、何の話をされるのだろうという気がかりで、亜矢香の心拍は退店時からずっと乱れていた。

 オーダーを済ませ、二人きりのテーブルで向かい合う。注文した飲み物が来るまで、互いに無言だった。亜矢香は当然としても、話があると言った当人も、何か迷うように視線をテーブルにさまよわせている。

「お待たせいたしました。エスプレッソとレモネードです」

 店員が運んできたカップを、彼はいささか慌てたように持ち上げた。エスプレッソを一口すするが、やはり熱かったようで、軽く顔をしかめる。
 端正な顔がそんなふうになるのが少しおかしくて、亜矢香は知らず、くすりと笑いを漏らしていた。途端、彼がこちらをまじまじと見つめるが、亜矢香が気づいた時には目はそらされていた。

 しばしカップに視線を落としてから、意を決したように、吉羽副社長は顔を上げた。

「その、すみません突然──こんな形で呼び出したりして」
「い、いえ」

 店にいた時にはあれほど余裕ありげに見えたのに、今の彼は、急に若返ってしまったかのようだ──まるで、世間慣れしていない学生のように。

「さぞかし驚いたでしょう。でも……どうしてもあなたに、伝えたいことがあって」
「……何でしょうか」
「先に言っておくと、これは副社長としての話ではなく、個人的なことです」

(個人的?)

 無意識に背筋を正しながら、亜矢香は首を傾げた。この直後にとんでもない発言を聞かされるとは全く想像せず。
 彼は亜矢香を真っ直ぐに見据え、いつもより少し硬い声音で、こう告げたのだ。

「僕は、あなたに出会って、心から惹かれました」
「……え?」

「初めてあなたを見た日、丁寧にお客様に挨拶して、緊張しながらも一生懸命な笑顔がすごく素敵でした。何度も通ううちに、その表情が自然になっていくのを見るのが、とても嬉しくて……気づいたら、あなたを特別に想ってる自分に気づいた。立場は関係なく、一人の男として、あなたが好きなんです」

 言葉のひとつひとつが、ごまかしのない真っすぐさとともに耳に、そして胸に届く。

「優しく品の良い常連さん」だった人に、今こうして、真剣な想いを伝えられている。けれど彼は、実際は親会社の副社長であり、年齢だって自分よりかなり上のはず。
 そんな相手に告白されているという状況がどうにも信じられなくて、亜矢香はかすれた声で返した。

「で、でも……私は何も、特別じゃありません。まだ社員として入ったばかりで未熟ですし、自慢できるような取り柄もなくて……自分と家族のことで毎日、手一杯で」
「たとえそうだとしても、僕は惹かれたんです。心をこめて毎日働いてるあなたが輝いていて、この上なく愛おしいと思ったんですよ」

 そう言い切る声音に、亜矢香は胸が詰まって、反論できなくなった。

「……ありがとうございます。お気持ちは有難いです。でも、すぐには答えが出せそうになくて」

 迷いつつ言葉を選びながら返すと、彼はふっと笑う。それは、店でずっと見ていた、大人の彼の笑みだった。

「そうですね、それはわかります。だから提案なんですが──お試しでいいから、付き合ってみてくれませんか? とりあえず三ヶ月間」

「……えっ?」
「僕はもちろん真剣ですが、いきなり『恋人』という立場を押しつけるのは、あなたには負担かもしれない。だからまずは少しずつ、お互いを知っていけたらと思って」

 亜矢香は何と答えていいのかわからなかった。
 まさかそんな「付き合い方」があるなんて、思いもしなかった。

「無理に恋人らしいことをするつもりはありません。そうですね、親しい友達みたいに、食事をしたりショッピングをしたり。ただ隣にいてくれるだけでもいいんです。三ヶ月試してみて、それで『何か違う』と思ったら、終わりにしてくれてかまいません」

 真摯で誠実な、だけどどこか寂しげな笑み。
 彼のそんな表情に、亜矢香は唐突に胸を衝かれる。

『お試しでいいから、三ヶ月間』
『終わりにしてくれてかまいません』

 そんなふうに言われてしまったら、逆に申し訳なくて、断ることができない。
 けれど、そんな提案を出してまで亜矢香とつながりを持ちたいと、彼は思ってくれている。亜矢香がなるべく重く感じないように、きっと最大限に配慮して。

 そんな彼の優しさ、想いの一端に、触れてみたいと思った。

「──わかりました」

 自分なりに熟考した末、亜矢香は答えた。

「お試しのお付き合い、させてください」

 亜矢香の言葉に、彼──俊輔の表情がやわらかくほどける。

「ありがとう。すごく嬉しいです」

 初めて目にする、本当に嬉しそうな笑顔。
 その瞬間、亜矢香の心の一部が、静かに動いた気がした。

 ラウンジカフェを出て、駅までの道を並んで歩く。
 まだまだぎこちないけれど、今の空気は、昨日までとほんの少し何か違っている。そんな気がした。

「じゃあ、まずは一回目のデートからお願いします。連絡先聞いてもいいですか」
「……あの」
「はい?」
「デートって言われると恥ずかしいので、できれば違う言い方で……」
「ああ──じゃ、会合、とか?」

 大真面目にそう言った俊輔に、亜矢香は思わず吹き出した。

「会社の予定じゃないんですよ」
「そうか、すみません。普段仕事漬けなもので」

 やり取りに、自然と互いの笑いがこぼれる。

 ──「特別じゃない」亜矢香を、好きだと言ってくれた「特別な」人。

 お客様と店員でも、副社長と契約社員でもない二人として、どんなふうに変わっていくのか、あるいは変わらないのか。
 先のことは何もわからないけれど、こうやって笑い合うことができる人なら、悪い未来ではないような気がする。亜矢香は漠然とだが、そう感じた。


 これが二人の、「お試し交際」の第一日目だった。

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