高嶺の花が堕ちるまで

美海

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 高価な白粉、口紅、眉墨、色粉。夫から贈られた化粧品の瓶で鏡台の上が埋め尽くされた頃、ルゼはロルフに連れられて護国卿を訪れることになった。
 護国卿からの呼出状に書かれた用件は『引き合わせた者として責任を感じているから近況を教えてほしい』とのことだったが、ロルフ曰く『進捗状況の確認』――つまり『子どもはまだか』とせっつくための呼び出しなのだろう。

「わざわざ大儀だったね、フーベルマン大尉。奥方もようこそ、僕らの職場へ」

 政務を執る宮殿の正門で夫妻を出迎えた護国卿ハウトシュミットは、相も変わらずうさんくさいほど友好的な笑みを浮かべて、二人を応接間へと案内した。

「元気そうで何よりだ。さっそくなんだけど、二人の夫婦生活はどんな感じ……って、まず自己紹介から始めるべきかな?」
「落ち着け、フレッド。それに個人的な事情を明け透けに聞くのはやめろと言ったはずだ」
「この口うるさいお目付役の彼はヴィルベルト・レネ・リーフェフット卿。僕の腹心で、大尉の上官で、君たちの結婚を提案したやつだ。要は君たちの仲人だね」
「久しいな、ルゼ嬢。いや、今はフーベルマン夫人と呼ぶべきか」
「ご無沙汰しております、ヴィルベルトさま!」

 部屋では男がもうひとり待っていた。
 その男の持つ、黒髪に金の瞳という色彩と見覚えのある面影に、ルゼの声は思わず弾む。

「あれ? なんだ、君たち元から知り合いだったの?」
「知り合いでなければ仲人はしない。昔、親に引き合わされた仲だ」
「わたくしが六歳の時ですわね。懐かしい!」

 ヴィルベルトはリーフェフット侯爵家の出身だ。家格が釣り合うからと結婚の可能性を考えた親に連れられて、幼いルゼは顔を合わせたことがあった。結局彼との婚約の話は出ないまま付き合いは無くなったが、古い知り合いであることに間違いはない。
 再会を無邪気に喜ぶルゼを見て、ハウトシュミットは面白そうに片眉を上げた。

「ふうん? ねえ、その顔合わせの後もよく会ってたの?」
「二度ほど舞踏会でお会いしただけですわ」
「ヴィルには『お姫さま』がいるもんね。……だってよ? よかったね、大尉」
「何の話ですの?」
「ごめんね、大尉と話すことがあるから、夫人は庭でも見ていてくれるかな」
「え?」
「これから男同士の下世話な内緒話をするから」

 だからごめんね?

 護国卿の笑みには妙な圧を感じた。その笑顔を向けられて部屋から追い出されたルゼは、混乱のまま宮殿の中庭で首を傾げていた。

「……なんなのよ。自分が呼びつけたくせに」

 各国の貴賓が訪れることも考えてか、中庭は美しく整備されていたが、ルゼはそもそも草木を見て面白いと思ったことがないのだ。
 花の香は芳しく好ましいと思うし、教養として花の名前や花言葉の知識は身につけたけれど、どうせ鑑賞するなら華やかなドレスや宝飾品の工夫を凝らした精緻な美の方が好きだ。
 早々に中庭見物に飽きたルゼは、建物の方を観察することにした。ここは元々王家の小離宮として建てられたものだ。中庭に面した窓の数からして部屋数は多くないのだろう。

「……ん?」

 観察を続けていたルゼは、煉瓦造りの壁に取りつけられた窓が一つ開いていることに気づいた。しかも、位置的に先程通された応接間の窓である。

(換気のために開けて閉め忘れたのかしら? いいえ、理由はどうでもいいわ!)

 ルゼは窓の下ににじり寄って耳を澄ませた。
 盗み聞きを後ろめたく思わないでもないが、呼び出しておいて感じ悪くルゼを外して内緒話をする彼らの方が悪いのだ、と内心で言い訳しつつ。
 風が耳に運んできたのは、笑みを含んだ男の声だった。

『ルゼ嬢はわがままだという評判だったけど、実際のところはどうなの?』

(……なんですって!?)

 ルゼを部屋から追い出して何を話すのかと思っていたら、彼らはルゼの悪口で盛り上がるつもりだったらしい。
 怒りで身を震わせたルゼは、煉瓦の壁にべったりと貼りつき窓に向かって背伸びをして、夫の返答を待った。
 ロルフはたちの悪い野次馬が期待する答えを返さないだろう。
 だって、彼はルゼの言うことを何でも聞いてくれるくらい、ルゼのことを愛しているのだから――。

『理想的な妻ですよ』

 部屋の外で耳を澄ましている妻の存在に気づくはずもなく、ロルフは率直な本音を紡いだ。
 言葉だけを取れば手放しに褒めたように聞こえるが、吐き捨てるような声の調子が気にかかる。
 ルゼの不安を裏づけるように、ロルフは続けた。

『愚かで、俺のすることに興味も疑いも持たず、金さえ与えて適当にへつらっておけば文句の一つも言わない。……そうなるように育てられたんですから仕方がない』

 それが『理想的なご令嬢』というものなんでしょう、下賤な私めには分かりかねますが。――彼は憎々しげに言った。

『もうよろしいでしょうか。こんな胸糞悪い話を続けていると、あんた相手にも暴言を吐いちまいそうなので』
『うん、君の率直な考えが聞けてよかったよ』
『失礼いたします』

 カツカツと遠ざかる足音と扉が開く音が聞こえても、ルゼはまだその場から動けなかった。
 ロルフの声にこもった苛立ちと軽蔑が自分に向いているとは思いたくなかった。だって、彼はいつもルゼを尊重して敬ってくれたのだから。
 でも、ルゼを前にして言う言葉と、本人がいないところで言う言葉のどちらが彼の本心なのかは、火を見るよりも明らかだ。

(わたくしのことを話すだけで胸糞悪いとまで言ったわ。ロルフは、わたくしがそんなに嫌いなの……?)

 夫婦の営みが『嫌なこと』だったのは、ルゼにとってではない。
 心底嫌いな女を抱かされる自分ロルフにとって、という意味だったのだ。
 その考えにようやく思い至ったルゼは、自らの行いを反省して、失意の淵に沈む――ことは無かった。

「よく考えたけれどやっぱり腹が立つわ! あなた、どうしてわたくしのことを嫌いなの!? 痛いのも我慢して、我ながら健気に頑張ってあげたのに!」

 並外れて美しいルゼは人生で出会った者のほとんどからちやほやと賛美され、愛を捧げられてきた。その美貌は衰えるどころか冴え冴えと輝きを増している。ならば、それを間近で見ているロルフもルゼをちやほやしなければならない、そうでなくては理屈が通らないではないか!
 怒れる雄牛のように夫の部屋に突撃したルゼを迎えたロルフは、驚きに目を丸くした。それからすっと眇めて言う。

「……ああ、いきなり何かと思えば、話を盗み聞きしてたのか。おまけに盗み聞いた内容で私のことを責めようと? ルゼ様はもう少しお淑やかな方かと思っていました」
「礼を尽くす相手は選ぶことにしているの」
「出自の卑しい俺相手には礼儀は必要ないと」
「違うわ。あなたが『わたくしの陰口を言うような人』だからよ!」

 皮肉っぽく『よくも盗み聞きなんて行儀の悪いことができるな』と煽られて、頭に血がのぼったルゼは勢いのまま言い返した。

「文句があるのは仕方ないわ。でも、わたくしに言いもしないまま他の人に悪評を広めるなんて酷いじゃない! 言われれば直したかもしれないのに!」

 ルゼのことが嫌いで気に食わないなら『ここを直してほしい』と直接言えばよかったのだ。表向きは褒め讃えながら、裏では嘲って鬱憤を晴らすなんてひどい!
 喚くルゼのことを、ロルフはひどく冷ややかな目で見つめていた。

「『言われれば直した』ねぇ……なら、あんたは、俺に言われれば黒パンと野菜屑のスープだけの食事ができるのか?」
「へ?」

 ルゼの文句を聞き終えた後で、彼はその一言のみを返してきた。
 とても『黒パンって何のこと?』と聞ける雰囲気ではない。

「舞踏会の度にドレスを新調するどころか、他人のお下がりしか着たことが無い人生を想像できるか? 病を得ても医者にはかかれない、せめて暖を取ろうにも人の命より薪が惜しいと言われる暮らしが分かるのか? ?」
「それは……」
「できないだろう。別にあんたにそうしてほしいわけじゃないし、無意味なことをわざわざする必要も無い。ただ、『悪いところを直す』とかそういう次元の話じゃないんだ、俺たちは育ちからして違いすぎる」

 悪いところは直せても、人を犬に変えることはできない。これはそういう類の問題だと、ロルフは切って捨てた。
 どれほど言葉を尽くしても変わらないものはある。ロルフが嫌いなのは、ルゼの中の『変わらないもの』だから、言うだけ無駄だと思ったのだと。

「それに俺があなたを嫌ったとして、何が不満なんですか」
「なに、って……」
「あなたの可愛いわがままを叶えるくらいの金は渡します。チヤホヤされたいなら言葉を尽くして賛美しましょう。愛人を囲ってもいい。離婚できるように協力しましょう。物分かりのいい夫でいるように努めます。……それ以上、俺に何を望むんです?」

 あなただって俺を愛していないくせに。
 その詰るような言葉を聞いて、常人ならば俯いて自らの行いを省みたかもしれない。

「うるさい! なんであなたが被害者みたいな顔をするのよ!」

 ――しかし、ルゼは常人ではなかった。

「わたっ、わたくしだって! 初めてはせめて、わたくしのことを好きなひととしたかった! 脂ぎった気持ち悪い公爵さまの後妻になるのは嫌だったけれど、少なくとも彼はわたくしのことを好いてはいたもの!」

 自分が『自分の好きなひと』と結婚できないことは分かっていた。それならせめて自分を愛してくれるひとと結ばれたいと思ったことの、何が悪いというのか。

「要らないならっ、わたくしから奪わないで……っ! 奪ったのなら大事にしてよ!」

 愛しても愛されてもいない相手にくれてやるほど、自分は安くないと思っていた。自分には高値がついて然るべきだと見積もっていた。
 でも、それは違うのだと、ルゼは何度も突きつけられたのだ。
 革命後に限った話ではなく、寄ってくる者たちはみんな、ルゼの美貌かアルテナ家の血にしか用が無いのだから。

「わたくしは愛人を囲いたいとも離婚したいとも言ってないのにっ、なんで、それを許すから愛さなくてもいいだろうって言われなきゃならないのっ!」
「確かにそうですね。あなたにとっては得が無い。申し訳ありません、配慮が足りませんでした」
「ぐす……っ、嘘でいいから、『好き』って言って。わたくしのことを『愚かだ』って馬鹿にするなら、こんなことでボロを出さずに、最後までちゃんと騙しきってよ!」

『せめて愛しているふりをしてほしい』というルゼの悲痛な願望わがままを、ロルフは黙って聞いていた。
 それから彼は、ぽつりと言葉を漏らした。

「……あんたのことは前から知ってた。一方的に、顔だけだけど」

 砕けた、粗野なのにどこか親しみを感じさせる口調だった。

「前にどこかで会ったことがあったかしら?」
「見かけただけだ。ホーヘンダイク公爵家の園遊会で……もう四年くらいは前になるか。付き合いのある家の御者が体調を崩して、俺が代わりに駆り出されたんだ」

 四年前ならルゼの両親は存命だった。彼らは娘が悪い人間に目をつけられないようにと、きちんとした家の昼の催ししか参加を許してくれなかったから、もしも『夜会で見かけた』と言われたなら、すぐに嘘だと分かったのに。
 中立派で人望篤いホーヘンダイク公爵主催の園遊会にはルゼも参加したことがある。この場で思いついた嘘にしては、妙に現実味があった。

「綺麗な子だって見惚れたのが悔しかった。いくら見た目が綺麗でも貴族なんだ、中身は泥水みたいに汚く濁っているに決まっている。俺みたいな召使いのことを見下して人とも思わないような高慢な女に決まっている。……だから、『手に入らなくても惜しくない』って自分に言い聞かせた」
「何よそれ。告白して恋人になれればそれでよし、振られても素敵な恋をしたんだって良い思い出にすればいいじゃない」
「あんたはそうするんだろうな。それが健全だ。でも、俺にはできなかった」

 恋心をあえて告白するのは、受け入れられる勝算があるか、はっきりと断られて気持ちに区切りをつけたいからだ。それは想いに真剣に向き合ってもらえる身分だからできる選択だと、ロルフは言った。

「惨めだった。貴族なんかに叶わない恋をして、苦労して俺を育ててくれた家族のことまで『どうして俺は召使いの家に生まれてしまったんだろう』と恨んだ自分を認めたくなかった」

 絶対に手の届かない女。我が身を劣等感で灼く眩い女。――その少女のことが『貴族』の象徴みたいに見えたのだと、ロルフは自嘲の笑みを浮かべた。

「彼女は目立つから、わざわざ知ろうとしなくても俺の耳まで噂は届いた。高慢でわがままで数々の男と浮名を流して、淑女としての評判を損なって、堕ちていく。それでもまだ俺の手は届かない。……なあ、あんたにその時の俺の気持ちが分かるか?」

 とうてい手の届かない天の星であってくれれば『そういうものだ』と受け入れて諦めもついただろうに。
 他人に摘まれて萎れた花にすら自分の手は届かないのだと思い知らされる惨めさが、萎れてもなお手を伸ばさせる花の小癪な美しさが、どれほど心を乱したか。

「分かるわけないよな、あの時の俺自身にも分からなかった。ただ、むしゃくしゃしてじっとしていられなくて全部ぶっ壊れればいいと思った。だから、俺は、身分も何もかも無くなるように、国をひっくり返すのに協力することにしたんです」
「……国をひっくり返して、手の届かない女の子を手に入れるため?」
「いいえ。彼女は小癪なことに見た目だけは美しいので、仮に革命が成功しても新政府の高官の妾にされるだろうと思いました。俺のものになることはどう転んでもあり得ない。それならいっそ未練を消してしまおうかと。ちょうど彼女の養父はそこそこの不正を働いていましたし、少し盛ってやればいいかなって」

 ロルフはルゼの首に人差し指を滑らせた。
 彼が思い描いていたのは、細首を荒縄が締めあげる光景か、そこに鋭利な鋼鉄の刃が落とされる光景か、どちらだったのだろう。
 息を呑んだルゼを宥めるように、ロルフは困ったように笑った。

「怖がらせてしまいましたね。こんな話、嘘に決まっているでしょう、信じないでください。……結局、彼女は生きのびて、高官に引き取られることもなく、俺までお鉢が回ってきた。俺は、今さら彼女にどうやって接すればいいものか迷っている」
「……本当の話?」
「嘘だと言ったでしょう。ほら、こんな作り話にもすぐに騙されるから、あなたは愚かだと言うんです」
「またわたくしを馬鹿にして!」
「今後もあなたを抱きたいから、ロマンチックな嘘で必死に丸め込もうとしているだけですよ」

 あなたが俺に愛されたいと言うから、それらしくふるまってみただけです。
 微笑むロルフは、綺麗に感情の揺らぎを隠してしまっている。それでもルゼは先ほどの揺らいだ彼の告白を忘れることができなかった。

「あのねっ、さっきの話が本当なら……」
「だから、嘘だと」
「もしもの話よ。もしも本当なら、わたくしではなくてその女の子が相手なら、今さらとか気にせずに『ずっと前から好きでした』って言えばいいと思うの。伝えようとすれば伝わるし、本気の恋はきっと叶うわ」
「……言ったな?」
「えっ?」

 いま何と呟いたのかと聞き返す間もなく、ルゼの体はぽいと寝台に向かって放られた。

「なあ、ルゼ。お貴族さまの考え方を知りたいんだが、他人事だと思っていいかげんに煽っておいて、自分のことになった途端に『やっぱり駄目』はおかしいと思うよな?」
「そう、ね? わたくしはそう思うわ……?」
「よかった。ルゼは自分の言葉に責任をとってくれるんだな」
「待っ、待って! 今日は子作りの日じゃないのに、なんでっ!? どこ触ってるの! 愛していないならこういうことはしないで、って!」

 据わった目をしたロルフにのしかかられて、慌てるルゼの腕は早々に片手でまとめて捻りあげられた。
 このまま流されて行為はしたくないと睨めば、頬に彼の右手がそっと添えられる。

「俺はずっと前からあんたのことが好きだった。どうか今日だけは恋人みたいに、俺を受け入れてほしい」

 触れた手に温かさを感じて、彼の瞳が真摯で切ない光を湛えているように見えてしまった時から、きっと勝負はついていたのだ。

「う……」
「ルゼ、返事をくれないか。できれば良い返事が欲しい」
「……わ、わかったわ」

 それならしていいから、と蚊の鳴くような声で答えるや否や、ルゼが纏っていたドレスには手がかけられた。
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