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悩んだ時には話合い

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 ふらつく足取りで迎賓館の部屋を訪れた異母妹を見て、レオカディアは目を丸くした。

「こんな早朝にどうしたの? それに、その格好は?」

 簡素なワンピースの上から外套を羽織り、髪は結わずに下ろしたまま。およそ人前に出られるような格好でないことは、クレア自身にも分かっている。
 それでも今は身支度のひと手間さえ惜しかった。

「姉様、バルトールへの出発を早めることはできる?」
「ええ。可能だけれど……?」
「それなら今すぐ出ましょう! 早くしないと捕まっちゃう!」
「誰に?」
「フレッドに!」

 本当にひどい目に遭わされたのだ。
 何度達しても情交は終わらず、腰もくだけて動けなくなったクレアを見て初めてフレッドは身を離してくれた。その時に『逃げる体力が無くなればバルトールに行かせずに済むよね』と恐ろしい言葉が聞こえた気がするが、気のせいだったと信じたい。
 あまりの恐ろしさに聞き返すこともできず、クレアは即座に寝台から滑り降りて生まれたての子鹿のような脚で逃げ出してきた。
 もし次に捕まろうものなら――いくら好きな男が相手でも、期待よりも恐怖が勝つ。

「ああ、それと。私、女王にはなれません」
「……え?」
「さっき非処女になったので」

 具体的な内容は想像とかけ離れたものになったが、クレアは予定通りに初体験を終えた。姉にそれを告げると、虚をつかれた様子のレオカディアはクレアの全身をまじまじと見つめ、目を見開いた。

「別れを渋ったあの男に襲われたの!? 早く身を清めなさい! 辛くてそれどころではないでしょうけれど、望まぬ子を孕む可能性を少しでも減らさないと……!」
「フレッドの赤ちゃんはきっと可愛いでしょうね。欲しいけれど、一夜で授かるのは望み薄かしら」
「クラウディア!?」

 真剣に怒り心配している姉を見て、クレアは微笑んだ。
 よかった、このひとは最初に『辛い目に遭った妹』を気遣えるひとだ。もしも王となる資格を失ったことを責められたり惜しまれたりするようなら、話はここで終わらせようと思っていた。

「安心して、姉様。私が彼を襲ったし、最終的には合意だったわ」
「……なぜ、そんなことをしたの? あなたは自分の口で『バルトールに行く』と言ったでしょう」
「ええ、バルトールには行く。でも、王にはならない」

 あなたに協力するつもりはあるけれど、言いなりにはならない。戸惑った表情のレオカディアに、クレアは先日抱いた『違和感』を突きつけた。

「責任感の強いレオカディア姉様が、肝心の王位を私に放り投げることにどうしても違和感があったの。だって、国内の大公家に嫁いだ姉様は今も王位継承権を持っているでしょう? あなた自身が王になればいいのに」

 外国に嫁ぐ王女が王位継承権を放棄する慣習は、他国の内政干渉を防ぐためのものだ。バルトール国内に嫁いだレオカディアにはその定めは適用されない。

「……理由は、ハウトシュミット卿も言っていたじゃない」
「ローゼンハイム公爵については分かるの。彼は権力は握りたいけど孫娘の身は可愛いから、私を捨て駒に使うことにした。打算まみれで、逆に好感が持てるわ。でも、あなたはとっても中途半端」

『責任感が強いから国民を放っておけない』割には、王位いやなものはクレアに押しつけるつもりだと言う。だが『無責任』と言うには、レオカディアは。自らスヘンデルまで乗り込んでくるなんて、何かに追い立てられているような必死ささえ感じる。

「まだ言ってないことがある」

 命懸けの危険な作戦に協力するのだ、知らないまま死ぬようなことになれば絶対に後悔する。心の底まで見透かそうとするクレアの目に、レオカディアが怯んだのが分かった。

「姉様、自分の腹を痛めて産んだ息子って可愛い?」
「……どうして分かったの」
「ただの勘よ。私がバルトールにいた頃の姉様なら、国を憂いはしても深入りしないようにしたんじゃないかなって思ったの。姉様を変えたのはこの数年のうちに出会った人かなって」
「そう。賢くなったわね、クラウディア」

 決め打ちで投げかけた言葉に、姉は諦めたように笑った。

「ええ、息子はとても可愛いわ。アンドラーシュは三歳になったところなのだけれど、年齢を聞かれるといつも二本指を立てるの。くりくりの黒い巻き毛も、焼きたてのパンの色の肌も、天使みたいよ」

 張りつめていた声がわずかに優しくなったのは、遠くオルドグ大公領に残してきた我が子に思いを馳せているからだろう。『アンドラーシュ』という異国風の名前、癖の強い黒髪、浅黒い色の肌――異民族オルドグの特徴を色濃く受け継いだ息子に。

「あんなに可愛いのに、誰からも愛されて然るべきなのに……お兄様の作ろうとしているバルトールはあの子に優しくない。バルトールの民さえ切り捨てるのだもの、異民族なんてなおさらよ。ごめんなさい、クラウディア。クーデターが失敗したときにオルドグ人を迫害する大義名分を与えてはいけないと思ったの」

 今は『オルドグ大公領』と呼ばれているバルトールの辺境部は、百年ほど前まではどこの国にも属さない草原だった。そこに住む遊牧騎馬民族の一部が対立部族に対抗するためにバルトール王家と密約を交わし、大公位と定住する土地の所有権を認められたのが、オルドグ大公家の成り立ちである。
 名目だけは『バルトールの臣下』になったとはいえ、住む土地も民族も言語も文化も異なる民を『仲間』と思う方が難しい。バルトールの民は騎馬民族を『悪魔オルドグ』と恐れ、蛮族だと嘲り、迫害してきた。バルトール王家とオルドグ大公家との関係も年々悪化する一方だ。この状況で『オルドグ大公妃』が王家へのクーデターを起こせば、全面戦争になりかねない。

「そのことはオルドグ大公に言ったの?」
「『あなたたちに迷惑をかけたくないから別れて』と言ったわ。でも、あのひとは聞いてくれなかった。常備軍も傭兵を頼む金も無いバルトールなんてオルドグの騎兵で滅ぼしてやる、わたくしのことだけは大公妃として守ってやるから安心しろ、って」

 オルドグ大公の言うことは正しい。徴兵された農民を中心とするバルトール軍と、よく訓練された馬と高い騎馬技術を持つオルドグ人部隊が正面から戦えば、数の差があっても最終的にはオルドグが勝つだろう。決着がつくまでに両軍ともに多くの犠牲が出るだろうが。
『たとえバルトール人に同族を殺されても、バルトール王女を娶るメリットが無くなっても別れない』というのは、大公なりのレオカディアへの愛の告白だったのだろう。
 だが、バルトール王女として生まれ育ったレオカディアは、骨の髄までオルドグの人間になりきることはできなかった。

「わたくしは故郷のことも捨てられない。彼や彼の仲間に怪我をしてほしくはないけれど、簡単に『オルドグが圧勝すればいい』なんて言えないのに」

 互いに譲らず喧嘩別れして大公家を飛び出してきたのだと、レオカディアは悲しい目をした。愛する夫や息子に二度と会えなくなるとしても己の為すべきを為すと心を決めた目だ。実に美しい覚悟だ、これが戯曲なら拍手喝采を送ってもいい、とクレアは思った。――もちろん皮肉を込めて。

「姉様、あなたは賢いけど大馬鹿者だわ」
「クラウディア?」
「たいていのことを自分一人でできるから、一人でできる『最善策』を探そうとする。それを見てる周りがどれだけ冷や冷やしてるかも知らないで。そういうところ、フレッドとそっくりね」

 クレアの言葉を聞いた途端に、レオカディアは心底嫌そうな顔をした。姉と夫には仲良くしてほしいのにと少し悲しい気持ちになる。だって二人ともクレアにとっては大切な人だから。――そう、大切だから、放っておけない。

「私は嫌よ。姉様が不幸になるのも嫌だし『私は自分を不幸にしてまで国のため、民のために尽くしてるんだからお前もそうしろ』って求められるのも嫌」
「そんなこと、」
「これは某名君の言葉なのだけど、『他人を不幸に陥れたくならないためにも自分は幸せになっておいた方がいい』そうよ」

 図書室の詩集の中に、スヘンデル王国の誇る名君レオポルト一世は斯くの如く書き残していた。

『だから僕は、こう言った。『僕に向かってエルネスティーヌと別れるように言った者は全員、自分の愛する者と別れてもらう』と』

 国を守るために愛する女性を殺すか、彼女を守るために国と民を捨てるか。そんなろくでもない選択肢はどちらも選びたくないに決まっているし、選択を迫る者には噛みついてやる、と。
 当時の宮廷記録によれば、それまで従順だった国王の豹変に臣下は慌てふためき、政略結婚を受け入れさせるために宥めすかしたのだという。ある者は『あまりにも無慈悲で横暴だ』と国王を責め、ある者は『お辛くても意義のあることですから』と説得を試みた。
 だが、後に『賢王』と呼ばれることになる青年は『お前たちのように『殺せ』と言うわけでもなし、慈悲はかけた。自らのふるまいで愚王を改心させるのも有意義なことだろう。お前たちが同じことをやってみせろ』と言って、こればかりは頑として譲らなかった。

『僕は弱い人間だから、自分が不幸になった時に幸せそうな人間を見たらきっと妬んでしまう。妬みのあまり酷いこともしてしまうかもしれない。それが嫌なら『みんなが幸せになる方法』を考え続けなければならない』

 それはきっと楽な道ではない。誰かに嫌なものを押しつけて見ないふりをすれば済むものを、何倍もの手間をかけて答えを探すことになる。でも、その先にハッピーエンドが待ち受けていると信じて前に進むしかないのだと。

「姉様、私のためにも幸せになって」

 クレアが言うと、レオカディアは泣きそうに顔を歪めて言った。

「無理よ。なれないわ」
「もしもバルトールもオルドグも諦めなくていいとしたら、私の話に乗ってくれる?」
「そんな都合のいい話は無いわ。価値観は簡単に変わらないもの、相容れない者同士の争いは片方を滅ぼすまで止まらない」
「もしも、よ」
「……そうね。その夢物語が叶うなら、喜んで協力する」
「約束よ。姉様、私たちにはきっとできるわ。離れた対岸を繋ぐ架け橋となるために、私たちは嫁いだのだから」

 それはきっと『私たちにしかできないこと』でしょう。クレアは姉の手をとって握りしめた。

 ☆

「……ちっ、逃がしたか」

 妻の私室の扉を蹴破ったフレデリック・ハウトシュミットは、苛立ちを隠さず舌打ちした。手元のピン一本での枷の解錠に手間取っているうちに、妻には首尾よく逃げられてしまったらしい。
 疲れきったクレアが意識を朦朧とさせ始めた頃に、何度も『左手の枷も外して』と囁きかけたが、彼女はふるふると首を振って拒否し続けた。何か嫌な予感を感じ取っていたのかもしれない。

「せっかく『立派な人間じゃなくていい』って言ってもらったことだし、バルトールのクーデターが終わるまでベッドに縛りつけておこうと思ったんだけどな。それは今度会った時にするとして――」

 クレアの行き先は十中八九バルトールだろうが他の可能性の見落としが無いように、と室内に目をやっていたフレッドは、机の上の枷の鍵と手紙と包み紙に気づいた。

『前にもらったペリドットのピンのお返しです』

 手紙の文字はクレアの筆跡だ。別れの挨拶にしては簡潔なのは、出かける時に急いで書いたものだからだろうか。

『これを身につけたあなたが、周りに筋金入りの年下好きの絶倫の変態だと思われればいいと思って選びました。気に入らなければつけなくていいけど、私がいない間も浮気はしないでくださいね。あなたが絶倫なのは分かってますけど』

 文面の端々に昨夜の恨みがこもっているのは分かったが、そんなことはもはや気にならない。
 紙に包まれていたのは瑪瑙を使った浮き彫り細工カメオのタイピンだった。多彩な層が重なって縞模様を成した瑪瑙の、赤みを帯びた層を土台にして、その上の白い層を薄く削ることで見惚れるほど繊細な浮き彫りが施されている。
 手の込んだ彫刻は完成までに年単位の時間がかかる。発色の美しい瑪瑙を探し、これほどの彫刻技術を持った職人を見つけるだけでもどれほどかかるか、と、つい商人の目線で査定してしまった。
 いったいクレアはいつから用意していたのだろう。このピンの美しさもさることながら、彼女から長く向けられていた恋心の証のように思えて、胸のあたりが温かくなった。
 それにしても――。

「そういう時は『これを見るたびに私を思い出して』って書けばいいんだよ、クレア」

 カメオのモチーフは少女の横顔。装飾品らしく図像化されてはいるものの、クレアを象かたどっていることは明らかだ。
 妻の顔が刻まれたアクセサリーを身につけることで周囲に伝わるメッセージは『年下好き』ではなく『愛妻家』だろう。

「留守中の浮気相手を牽制するくらいなら、君がずっと傍にいてくれればいいのに。……まあ、そういうところも可愛いけど」

 さあ、早くクレアを迎えに行く準備をしないと。
 護国卿は愛しの妻を二度と離さなくて済むように、近隣諸国に密使を走らせた。
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