この関係に名前をつけるなら~王女の醜聞~

湊川美海(みなとがわ・みみ)

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「本当にいらしたの」

 別荘に隠棲して早数ヶ月、庭先に現れたユリウスの姿に、イルヴァは目をぱちくりと瞬かせた。
 ここが『偶然』で通りかかるような場所でないことは知っている。
 亡き友を偲ぶためだけに、わざわざ休暇を取ったのだろうか。

「『必ず行く』と言ったでしょう。なかなかお誘いが無いので押しかけてしまいました」
「ごめんなさい、社交辞令かと思って……」

 顰めっ面の彼を見ると申し訳ない気持ちにはなったけれど、不思議と怖くはなかった。
 イルヴァの不義理を責める言葉に、拗ねた少年めいた響きがあったからかもしれない。

「すぐに席を用意しますから、応接室でお待ちになって」
「……貴女が、用意するのですか?」

 イルヴァが土いじりの手を休めて立ち上がると、彼は確かめるように言った。その声にマティアスの葬儀の日の驚きや憤りは無い。
 きっと、この別荘の人手が管理人夫婦の他に無いことも――貴婦人にふさわしい世話がされる環境ではないことも、知られているのだろう。

「ええ。わたくしは、騒がしい方々が大嫌いですの」

 だが、それが何だと言うのだ。
 貴婦人らしく、ラインフェルト侯爵家の息のかかった使用人を山ほど用意されたところで、チクチクとした針の筵で過ごすことになるだけだ。それより、放っておかれる方がいい。
 ユリウスは紳士的にイルヴァを気遣っているつもりかもしれないが、過ぎた同情は侮辱と変わらない。
 これ以上触れてくれるなとイルヴァがつっけんどんな口を利くと、彼は目を瞠って――口元を綻ばせた。

「私もです。気が合いますね」
「えっ?」

 笑った。あの、氷の彫像のような貴公子が?
 一瞬の微笑みは、見間違いを疑うほど儚く消えてしまった。次の瞬間には彼はやはり、眉間に深い皺を寄せていた。

「ただ、男手の無い住まいとなると物騒ですから、気をつけた方がよろしい」
「お気遣いありがとうございます」

 もっともな忠告を最後に、答えづらい話題が締め括られたことに気づき、イルヴァは心からの感謝を述べることができた。

「粗茶ですが」
「ありがとうございます。それより、キッチンにあった菓子が見当たりませんが」

 応接室で待つようにと言ったのに、結局ユリウスは茶を淹れるイルヴァの後ろをちょこまかと付いてきた。
 見上げるような背の大男のくせに、雛鳥のような動きだった。挙句に食い意地が張っているとしか思えない催促までする始末だ。
 困った押しかけ客だと、イルヴァは溜息を吐いた。

「あれは、お客様に出すような代物ではございません」
「では、何故作ったのですか」
「自分用です。そもそもユリウス様が今日いらっしゃるなんて知らなくて……何かおかしいですか?」

 くつくつと喉を鳴らした彼に尋ねると、彼は微笑ましいものを見る目でイルヴァを見た。

「いいえ。やはり、貴女がご自分の手で作った物なのですね」
「……手遊びに」
「良いことです。イルヴァ様は器用だな」
「お世辞は結構です。下手の横好きですから」
「『下手』かどうかは、食べてみなければ分からないでしょう。取ってきてもいいですか?」
「待って! 本当に、裏面が焦げているものもあるんです! 綺麗な物を選んでお出ししますから、ここで待っていて!」

 放っておいたら、失敗作まで食べ尽くされてしまうかもしれない。客に腹痛を起こさせでもしたら大変だと慌てて飛び出すイルヴァの背中を、ユリウスはじっと見つめていた。

 ――寄越せと乞われたから、綺麗な物を選んで渡したのに。

「思ったより味が薄くて、もそもそしていて、粉っぽい。硬いのは焼きすぎかもしれないな」
「だからっ、下手の横好きだと申しました!」

 遠慮の無い酷評を浴びて、イルヴァの瞳は潤んだ。
 自分でも分かっていた。なんのかんの言ってもこの別荘に来るまで厨房に立ったことすら無かった姫育ちだ、まともな料理など作れるわけがない。それでも最近はぎりぎり食べられないこともないと思っていたのに、公爵令息のお眼鏡には到底適わなかったらしい。

「ずっと焼き色がつかなかったから、長く焼いたの。不味いでしょう、残してください……」
「いや、全部いただきます。それに、貴女の腕ではなく材料の問題だと思いますよ。今度、砂糖も持ってきましょう」
「持って来ていただいても、お代をお支払いできません。菓子作りなんて、我慢すれば済みますから。どうせ、下手の横好きですもの」
「我慢は身体に毒だといいます。砂糖くらい、いくらでも差し上げますよ」
「ユリウス様にそこまでお世話になる理由なんて無い、」
「私は、マティアスから貴女のことを頼まれていますから」
「っ、」
「思ったよりも、貴女が元気そうで安心しました。ここでは、マティアスのことを考えずに過ごせていますか?」

 久しぶりに聞く夫の名前に、心臓がきゅっと引き絞られるような心地がした。
 ばくばくと暴れる鼓動が息苦しくて、胸の下から嘔吐に似た感覚がこみ上げる。
 揺らいだ身体をユリウスが支えてくれた。

「申し訳ない。俺が不用意だった。まさか、それほどとは」
「ごめんなさい……っ」
「謝らなくていい。落ち着いて、息をしてくれ」
「わたくしのことを、さぞ、薄情な女だとお思いでしょうね。わたくしも、そう思います。夫が亡くなったのに、楽しく菓子なんて作ったりして。少しは悲しみに打ちひしがれるべきで」

 それが『普通』なのに。多少の不和は、時間が経てば懐かしさと共に思い出すものだと言うじゃないか。それなのに、あの日々を思い出すだけで、イルヴァは息もできなくなる。

『黄金の髪に翠玉の瞳の子なら欲しいな』
『陛下を誑かした下賎な女の娘ですもの、子を産むことは得意かと思ったのに。それなのに、一向に孕まないなんて』
『お前のせいだ。お前が、死んで妻の座を空ければよかった。そうすれば、マティアスは悩まずに済んだのにっ!』

 思い出したくない。懐かしくもない。戻りたくなんてない。
 早く忘れてしまいたい。だが、亡くして間もない夫のことをころりと忘れるなんて、他人から非難されるに決まっている。
 ユリウスだって、マティアスを偲ぶためにわざわざ僻地まで足を運んでくれたのに。
 それほど人から愛されている夫はやはり正しくて、夫の死は悲しみ惜しむべき出来事で、悲しめないイルヴァが間違っているのだろう。

「ユリウス様の、だいじなお友達なのにっ、悲しめない、だめな妻で、ごめんっ、なさい……」
「あのクズのために謝るなと言っただろう!」

 近くに雷が落ちたかのような大声に驚いて、息を詰めたイルヴァの背中を、ユリウスはゆっくりと優しく撫でた。

「俺は、貴女が何を言っても責めない。我慢しなくていい」
「……でも、ご友人だったのでしょう? ユリウス様は、あの人の死が悲しくないのですか?」
「そう見えますか?」

 問い返してきたユリウスは、酷くくらい目をしていた。
 イルヴァは自身の浅慮を悔いた。
 悲しくないはずがないではないか。彼らは、生まれた時から一緒に過ごしてきた親友同士だったのだから。

「ごめ、」
「マティアスは俺にとっては良い友人だった。陽気で、愉快で、ずっと一緒にいたから居心地が良くて。あいつが死んだ時には惜しいと思ったし、二度と話せないことは今でも寂しい」

 友を惜しむ言葉を発した後で、ユリウスは『だが』と言葉を繋いだ。

「あいつは、貴女にとって、良い夫ではなかったんだろう。だったら、貴女に恨まれても、忘れられても、あいつに文句を言う資格は無い。……まあ、死んでいるから文句の言いようも無いわけだが」
「っ、不謹慎ですよ……」
「その文句も聞こえないな。俺は『マティアスがどうしようもない夫だった』と聞いて『そうだろうな』と思うくらいには、あいつのことを知っている。『そんなわけがない、聖人君子だった!』と食ってかかるばかりが友情じゃないだろう」

 ユリウスは、涙でぐしゃぐしゃに歪んだイルヴァの顔を覗き込むと、安心させるように背中で手を弾ませた。

「泣かなくていい。イルヴァ様、貴女が楽しく過ごせているのなら、それが何よりだと思います」
「そう、でしょうか……」
「もちろんですとも。貴女がもっと楽しく過ごせるように、今度は砂糖を持って来ましょう。ああ、お代のことはお気になさらず。良いことを思いつきました」
「良いこと?」

 お互い譲らないところを解決する名案など思いつかなくて、イルヴァが小首を傾げると、ユリウスは微笑んで言った。

「俺が訪ねてきたときは、この別荘に泊めてください。部屋を整える手間賃と思えば、十分でしょう」
「そんなこと、大した手間ではないのに」
「じゃあ、イルヴァ様の手作りのお菓子もつけてください」
「それこそ価値が無い……」
「ありますよ」

 不味い菓子に何の価値があるのかと否定しかけると、その時ばかりユリウスは強引で、ぴしゃりと遮ってしまった。

「俺にとっては、十分すぎるほどの価値があります。ね、約束ですよ」

 自分が信じるものの価値を否定することなど、イルヴァ自身にも許さないと言わんばかりの力強い言葉の勢いに釣られて、イルヴァはこくりと頷いてしまった。
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