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40 七番棟のお客さま

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「それでねえ、あたしが掃除を終えると『いつもありがとう』って優しく微笑んでくださって」
「わー、いいなあー」

 昼休憩のためデイラが食堂に入っていくと、女性従業員を中心に華やいだ空気が漂っていた。

「あの方、お食事はいつもお部屋でとられるんでしょう?」
「そうなのよ。毎回、誰がお届けするか争奪戦になっちゃうの」

 白にんじんのスープと香ばしく焼いた薄切り肉が挟まったパンを運んできたデイラは、空いていたエニアの隣に腰掛ける。

「お疲れさま。アイオンはお坊っちゃんたちのところ?」

 エニアに訊かれると、デイラはどこか申し訳なさそうに頷いた。
 会長一行が旅荘フレイに滞在して五日。最初は食事のたびに従業員の区域に戻ってきていたアイオンだったが、「ぜひ、お昼ご飯だけでも一緒に」と誘われ、勉強の後の昼食はダン・エド商会の子供たちと食べるようになった。

「甘えてしまってばかりで……」
「いいじゃない、あちらから申し出てくださったんでしょ? お坊っちゃんたちだって、できるだけアイオンと過ごしたいのよ」

 微笑んだエニアの向こう側から、客室係の中年女性がニコニコと顔を覗かせる。

「ねえ、デイラさんは七番棟のエーレさまと会った?」

 噂の男性客のことでまた盛り上がっていたのかとデイラは思った。
 何日か前から宿泊しているその人物は、どうやらかなり目を引く美青年らしい。

「いえ……。まだお見かけしたことなくて」
「あらそうー、残念」
「ときどきお散歩されてるようだけど、デイラさんの巡回とは微妙にずれてるのかしらねえ」
「もし会ったら、冷静なデイラさんでもきっとドキッとしちゃうわよお」

 古参の女性従業員たちから口々に声を掛けられ、デイラは「そうですか」と曖昧な笑みを返した。

 傍らで見ていたエニアは、全然興味なさそう……と苦笑する。

 出入りの業者から口説かれたり、宿泊客から熱い視線を送られたりしても、決して浮つくことなく静かに受け流すこの同僚の胸の中には、きっと忘れられない人がいるのだとエニアは思っていた。

 それはおそらく、アイオンの父親だ。

 独りで子供をもうけることになった経緯についてデイラが何かを語ったことはないが、長く一緒にいれば過去を憎んだり悲観したりしていないことは伝わってくる。

 謙虚で真面目なデイラが心の奥にずっと大切にしまっているらしい男性を、エニアは想像してみた。
 たぶん、アイオンのように素直で、人懐っこくて、瞳はきれいな翠玉色で――。

「ん……?」

 何かが引っかかったように、エニアは眉根を寄せる。
 はっきりとは思い出せないが、ごく最近、どこかでそんな目をした男性を見かけたような気がした。

   ◇  ◇  ◇

「面白くなさそうな顔ね」

 夫婦が寝泊まりしている部屋から中庭に出てきた妻に声を掛けられ、長椅子に腰掛けていたダンステン・マナカールはハッと顔を上げた。

「え……俺、そんな顔してた?」
「してた」

 保養地らしい薄手のドレスを身に着けたミリーア・マナカールは、薄く微笑みながら夫の隣に座る。
 子供たちは宿泊客のために設けられた広場に遊びに行き、弟夫婦は町に買い物に出かけたので、この家族向けの大きな棟に残っているのは兄夫婦だけだった。

「面白くない理由を当ててみましょうか?」
「い……いや、いいよ」

 図星を突かれそうな予感がしたダンステンは断ったが、無視して妻は続ける。

「自分以外の男性が、女性たちからキャーキャー言われてるのが気に入らないんでしょう?」
「うっ」

 言い当てられたらしい夫が苦しそうに呻くと、ミリーアは「困った人ねえ……」と呆れ顔になった。

「独身時代にさんざんモテたのに、まだモテたいの?」
「な、なんのことやら」

 とぼけようとするダンステンに、ミリーアは軽く眉をひそめる。

「七番棟のお客さまって、かなりの美青年らしいわね」
「あ……ああ、そのようだね。俺も噂を小耳に挟んだだけで、まだ見かけたことはないんだけど」

 動揺をごまかしきれない夫を横目で見ながら、ミリーアは溜め息をついた。

「いつも余裕たっぷりにいい男かぜを吹かせてる会長さんが、容姿端麗な男性客に嫉妬の炎をめらめら燃やしてるなんて、従業員の皆さんが知ったらさぞかし幻滅するでしょうねえ」
「ミ、ミリー、誤解だよ」

 ダンステンは妻の華奢な肩を抱き寄せる。

「おかしな勘繰りはやめて欲しいな。俺は君からモテれば幸せなんだから」

 疑わしげに「ふうん」と尖らせたミリーアの唇に、ダンステンは甘く口づけた。

「――それで」

 妻の耳許の髪を指先で優しくかき上げ、ダンステンは囁く。

「その七番棟のお客さまってのは、どれほどの美青年なんだろう」
「……やっぱり気になってるんじゃない!」

   ◇  ◇  ◇

 居たたまれなくなったダンステンは、「散歩してくる」と、ひとりで棟の外に出た。

「可愛い上に機転も利く最高の妻だけど、ちょっと俺のことを分かり過ぎてるんだよなあ……」

 小声でぼやきながら、やはり足は七番棟のほうに向かっていく。

「ディアン・エーレ……」

 宿泊客の名前に聞き覚えはなかった。

「どんな男なんだ」

 自分を差し置いて従業員たちをあんなにうきうきさせるなんて――などと器の小さいことを考えながら、歩みを進める。
 七番棟が見えてくると、ダンステンは樫の木陰に身を隠すようにしてそっと佇んだ。

「姿をちらっと見てみるだけだ」

『困った人ねえ……』
 妻の呆れ顔がダンステンの脳裏をよぎる。

「ま、まあ、少し待って現れなかったら諦めるさ」

 遠巻きに扉を睨み、出てこい出てこいと念じていると、背後から男性の声がした。

「あの、七番棟に何かご用ですか?」

 ダンステンの心臓が跳ね上がる。この爽やかな声音は、おそらく彼が待ちわびていた人物のものだ。

「い、いえ――」

 取り繕うように微笑みながら振り向いたダンステンは、小さく息を呑む。
 そこに立っていたのは、すらりとした長身に端正な顔立ち、翠玉色の瞳が印象的な、噂にたがわぬ美男だった。
 
 ダンステンは慌てて言い訳を探す。

「じ……実は私、この宿を経営しておりまして。何か不備があってはいけないと、あちこち見回っていたところで――」

 そのとき、なぜかその男性客のほうも困ったように視線を泳がせていることにダンステンは気がついた。

「え……?」

 不思議そうに彼を眺めていたダンステンの口から、「あっ」と驚きの声が漏れる。

「キアルズ……? キアルズ・サーヴじゃないか?」
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