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花のお姫様

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 ――ガサガサッ
 ビクッと肩が震えた。
 音のした方に目を向ける。
 部屋の中に誰かいる? 
 注意深く視線を動かして、ゆっくりと部屋全体を見渡す。

 ここは自分の部屋。そして2階。
 ――カリカリカリカリッ
 窓の……外から?
 ベランダに物は置いていない。もちろん人がいるはずもない。

 ゆっくりと腰を上げ、そぅっと窓に近づいて、恐る恐るカーテンに手をかけた。

 ――ガリガリガリッ
 音は足元から聞こえてくる。
 そーっとカーテンの裾をめくると、もふもふとした毛に包まれた大きな猫が一匹、窓ガラスを必死にひっかいていた。

「なぁんだ、ハナコかぁ」
 ハナコはお隣のお屋敷の猫だ。隣家から伸びた木をつたって、うちに入り込んだのはこれで三度目だった。
 窓を開け、足元にいるハナコをしゃがんで抱き上げる。
 無防備に身体を預けてくる重みが心地いい。
 ハナコを優しく撫でながら、目を瞑って、そのぬくもりを感じた。

 今日、みんな嬉しそうだったな……。

 幼稚園から附属のあるお嬢様大学のせいか、卒業式には親が同席する人がほとんどだった。
 嬉しそうに笑って家族で写真を撮って。
 同じ学部の友達に誘われ並んで写真をとった時には、親御さんたちが嬉しそうにパシャパシャとカメラを向けた。

 写真……かぁ、カメラを持っていくことさえ思いつかなかった。
 周りを見ると、スマホで自撮りを楽しんでいる人たちもたくさんいる。
 携帯電話は安全のために小さなころから持たされていたけれど、大学3年の時に壊れてしまって今は持っていない。

 写真、撮りたかったなぁ……。
 鼻の奥が、ツンとなった。なんだか涙が出そうになる。
 ぬくもりを確かめるように、目を瞑ったまま、もう一度ハナコの背中を撫でた。
 柔らかくて、温かい……。

「ハナッ」
 不意に名を呼ばれて、ハッとした。声のした方を見上げる。
 ……一瞬、映画のワンシーンかと思った。
 ふわぁーっと吹きわたる風にのって、桜の花びらたちが一斉に舞い上がる。

 陽の光に照らされ、キラキラと輝く桜吹雪で彩られた景色に目が眩む。幻想的な桜の舞台の中心に、明るい背景とは裏腹な黒いスーツを纏った人物がいた。
 花びらを舞い上がらせた風は、そのまま男性の眉にかかっていた黒髪をサラリと揺らす。
 非の打ちどころがない美しさ、とはこの事を言うのだろうか。切れ長の目をした秀麗な顔立ちの男性が、桜の木の枝に立っている。
 彼の黒い瞳は深遠で、その神秘的なまなざしに吸い込まれそうな錯覚に襲われた。

 思わず胸元のハナコをぎゅうっと抱き締める。
 お隣のお爺様は一人暮らしのはず。
 この男性はスーツを着ているし、木の手入れをするような職人さんではない。
 それなのになぜ、お隣の庭の木に登っているのか。しかも、私の名前を呼んだ。

「すみません、ハナコがお邪魔してしまって」
 男性から再び発せられた言葉から……数秒の沈黙。
 ん? 花、じゃなくて……ハナ、コ……? あ!
 先ほど呼ばれたのは、私の腕の中で丸くなっている猫のことだと気が付いた。
 ハナコはヒョイと顔を上げ男性をチラリと見て「ふにゃー」と鳴いたかと思うと、再びもぞもぞと私の胸元に顔をうずめる。

「ど、どなたですか……?」
 私の質問に、木の上の男性は意外そうにちょっと目を見開いたが、すぐに口角を少し上げて穏やかな笑みを浮かべた。
 人を安心させようとするような、笑みだ。
 ふと、営業のお仕事の方かな? と思った。

「祖父の事はご存知ですね?」
 祖父の事? 彼の言葉を反芻する。
「相澤のお爺様の事ですか?」
 彼は、嬉しそうに目を細めた。
「僕は相澤慶一郎の孫です。相澤創一郎と申します」
 あ……、確かに目尻を下げて笑う感じがお爺様と似てる。
 この人、笑うとこんなに優しい顔するんだ……。

「お名前を、伺ってもいいですか」
「……宮ノ内、花です」
 周りの枝に掴まりながら、平均台を歩くように太い木の枝の上をゆっくりと歩き、彼が近づいてくる。
「受け取れるか確かめたいから」
 彼がこちらに右手を差し伸べた。

「まずはハナコを下に置いて、試しに花さんの手を伸ばしてみてくれる?」
 『花さん』と私を呼ぶ落ち着いた柔らかい声も、お爺様とよく似ている。

 母が亡くなった時も、父が亡くなった時も、本当の家族のように気遣ってくれた相澤のお爺様。
 お爺様がいなかったら、どうなっていたか分からない。両親がいなくなった私を守ってくれる、唯一の人だ。
 そのお爺様のように優しい目元と声の人が目の前に現れるなんて。それだけの事なのに、なぜか胸の奥が温かくなった。

 そぉっとハナコをベランダにおろして、引き寄せられるように彼がいる方へ歩く。ベランダの手すりに少し寄りかかりながら、右手を桜の木に向かって差し出した。もう少しで彼の手に届きそう。
 彼は、おいでおいでをするように手首を軽く振る。
 彼に届くように、さらに手を伸ばした。

 もう少し――。
 あ、届く……と思った瞬間、ぐっと伸ばされた彼の指先が、私の薬指と小指の間にスッと触れた。
「ひぁ……」
 普段意識することのない部分をかすめられ、くすぐったいような、何とも言えない感触に、思わず手を引っ込めてしまった。
 その拍子にバランスを崩した彼の身体が、ぐらりと傾く。

「あ、危ない!」
 タイミングの悪いことに、再び強い風が吹いた。
 花嵐に思わず目を瞑る。
 今の景色は幻だったのか、そんな想いが頭に浮かんだ。
 
 ――恐る恐るゆっくりと目を開ける。
 消えることなく彼はそこにいた。伸ばせば手の届きそうな距離に。
 良かった……。安心して顔がほころぶのが自分でも分かった。

「驚いたな」
 彼はまた嬉しそうに目を細めた。その顔はまっすぐに私の方に向けられている。
 
「桜吹雪から現れるなんて、花のお姫様かと思った」
 歯が浮くようなセリフなのに、不思議と流れるように胸に響く。
 ……なんだか、胸のあたりがソワソワして、頬が熱くなった。
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