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お前を愛することはないと夫に言われたので、とても感謝しています
04.何が悪かった
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「マルク!」
ところが、オデットも不審者に向かって走っていった。
それもジルベールが見たことがないような、輝かしい笑みを浮かべている。
何が起こっているのかと、ジルベールは唖然と立ち尽くす。
そうしている間に、互いに駆け寄った二人の距離は縮まり、向かい合って立つこととなった。
「やっと……やっと戻ってくることができました。魔物討伐で功績を上げて、騎士爵を授かったのです。……これのおかげで、いつもオデットさまと共にあれました」
そう言って、マルクと呼ばれた男はハンカチを取り出す。
オデットの名が刺繍されたハンカチだ。以前、ジルベールがもらったハンカチに比べると、単純といえる図柄でしかない。
しかし、刺繍のことなど何も知らないジルベールでさえ、その一針一針に気持ちがこもっていることがわかるようだ。
「しかし……オデットさまはすでに侯爵夫人で……俺など……」
「まあ、何を言うの、マルク。あなたは自分自身の力で、騎士爵を授かったのでしょう。誰にでもできることではないわ。しょせんは貴族の家に生まれ、それなりに役割を果たしているだけの私より、ずっと立派だわ」
オデットの言葉に、ジルベールは顔がやや引きつる。自分に対する揶揄のように思えたのだ。
不本意ながら、ジルベールは受け継いだものを食い潰しつつあるだけで、改善の兆しが見えない。
「それに、もう侯爵夫人ではなくなるわ。今日が離縁の日ですもの」
清々しい笑みを浮かべながら、オデットがジルベールに向き直る。
「今日まで、本当にありがとうございました。旦那さまには心より感謝しております。私を愛することはないと最初に言い切ってくださって、何とお優しい方なのかと感動いたしました。このご恩は、一生忘れません」
「侯爵さま……あなたのように慈悲深く、素晴らしいお方がこの世にいるなど……信じられない思いでいっぱいです。一生、侯爵さまに感謝を捧げ続けます」
オデットとマルクは、そろって深々と頭を下げる。
どういうことだとジルベールが固まっていると、もう一つの影が近付いてきた。
「お初にお目にかかります、ランメルト侯爵。私は新しくギャストン子爵となった、ヒューゴと申します。オデットの兄です」
オデットによく似た、まだ二十歳にも満たなそうな若い青年が現れる。
確か留学していたはずだが、帰ってきたのか。しかも子爵位を継いだのかと、呆然としながら思い浮かぶ。
「あ……ああ……」
「この度は妹をお預かりくださいまして、誠にありがとうございました。このご恩に報いるべく、離縁後も資金援助は継続させていただければと思います。さて、こちらに署名をお願いいたします」
ヒューゴが差し出してきたのは、離婚のための書類だった。
思わず、ジルベールは書類とオデットとを見比べてしまう。
「……オデット。ランメルト侯爵に未練はないのか?」
「まあ、お兄さま。ご冗談を。旦那さまにも私にも、男女としての愛など、ひとかけらもありませんわ。もちろん人として尊敬はしておりますが、それとは別ですもの」
やや意地悪そうに問いかけたヒューゴに対し、オデットはあっけらかんと答える。
そのやり取りを聞き、ジルベールは愕然とする。
オデットは自分のことを好きで、本当の夫婦になりたいと望んでいるのだと、かけらも疑っていなかったのだ。
ところが、どうやら違ったらしい。
「そうだな。手紙を見る限り、ランメルト侯爵は優しく振舞うこともなかったようだ。愛などかけらもない態度を取ることにより、お前を惑わせなかったのだろう。何とも誠実なことだ」
「はい、冷たく突き放すような態度が、旦那さまの優しさなのだと思いましたわ。いくら政略結婚でも、普通なら妻に対してはもっとまともに振る舞うでしょう。そうしないことで、私の思いを尊重してくださっているのだと、常に感謝しておりました。そのようなことをされて、愛が芽生えるはずなどありませんもの」
二人の会話が、ジルベールの心を抉っていく。
褒め称えているのだが、実際にはジルベールの行動を批判し、けなすものだ。
これまでのジルベールの行為は、オデットの愛を深めるどころか、遠ざけていたらしい。
いや、そもそも、もとからオデットの愛など、なかったのではないだろうか。
「もともとオデットは、騎士マルクと恋仲だったのですが、父によって引き離されてしまったのです。私も留学中で何もしてやることができず……その間、侯爵が妹を守ってくださったこと、これからの資金援助で報いるつもりです。それでは、後日改めてご挨拶にまいります。今日は、二人の門出を祝ってくだされば幸いです」
にこやかなヒューゴの声が、どこか遠くから聞こえるようだ。
ぼんやりしているうちに、いつの間にか署名してしまったらしい。ヒューゴが満足そうに受け取る。
幸福なオデットとマルク、それを微笑ましそうに見守るヒューゴは、ジルベールに礼を言いながら去っていく。
一人取り残されたジルベールは、やがて現実が身に染み込んでいくと、その場に崩れ落ちた。
いつの間にか、ジルベールの中でオデットの存在が大きくなっていたのだ。
それが突然奪い去られ、今もこれは大掛かりな冗談ではないかという思いを捨てきれない。
何が悪かったのだろう。
最初に、愛することはないなどと言わなければよかったのだろうか。
それとも、せめて己の思いを自覚した後、少しでも優しく接していればよかったのだろうか。
しかし、何を後悔しようとも、もう遅いのだ。
オデットは本当に愛しい相手と、去っていってしまった。
資金援助を継続してもらうためには、追いかけることもできない。
情けなさと悔しさで、ジルベールは吐き気すら覚える。
「うっ……ううっ……」
ジルベールは歯を食いしばり、地面を拳で叩きつける。
ぽとり、と雫が零れ落ち、大地に染み込んでいった。
ところが、オデットも不審者に向かって走っていった。
それもジルベールが見たことがないような、輝かしい笑みを浮かべている。
何が起こっているのかと、ジルベールは唖然と立ち尽くす。
そうしている間に、互いに駆け寄った二人の距離は縮まり、向かい合って立つこととなった。
「やっと……やっと戻ってくることができました。魔物討伐で功績を上げて、騎士爵を授かったのです。……これのおかげで、いつもオデットさまと共にあれました」
そう言って、マルクと呼ばれた男はハンカチを取り出す。
オデットの名が刺繍されたハンカチだ。以前、ジルベールがもらったハンカチに比べると、単純といえる図柄でしかない。
しかし、刺繍のことなど何も知らないジルベールでさえ、その一針一針に気持ちがこもっていることがわかるようだ。
「しかし……オデットさまはすでに侯爵夫人で……俺など……」
「まあ、何を言うの、マルク。あなたは自分自身の力で、騎士爵を授かったのでしょう。誰にでもできることではないわ。しょせんは貴族の家に生まれ、それなりに役割を果たしているだけの私より、ずっと立派だわ」
オデットの言葉に、ジルベールは顔がやや引きつる。自分に対する揶揄のように思えたのだ。
不本意ながら、ジルベールは受け継いだものを食い潰しつつあるだけで、改善の兆しが見えない。
「それに、もう侯爵夫人ではなくなるわ。今日が離縁の日ですもの」
清々しい笑みを浮かべながら、オデットがジルベールに向き直る。
「今日まで、本当にありがとうございました。旦那さまには心より感謝しております。私を愛することはないと最初に言い切ってくださって、何とお優しい方なのかと感動いたしました。このご恩は、一生忘れません」
「侯爵さま……あなたのように慈悲深く、素晴らしいお方がこの世にいるなど……信じられない思いでいっぱいです。一生、侯爵さまに感謝を捧げ続けます」
オデットとマルクは、そろって深々と頭を下げる。
どういうことだとジルベールが固まっていると、もう一つの影が近付いてきた。
「お初にお目にかかります、ランメルト侯爵。私は新しくギャストン子爵となった、ヒューゴと申します。オデットの兄です」
オデットによく似た、まだ二十歳にも満たなそうな若い青年が現れる。
確か留学していたはずだが、帰ってきたのか。しかも子爵位を継いだのかと、呆然としながら思い浮かぶ。
「あ……ああ……」
「この度は妹をお預かりくださいまして、誠にありがとうございました。このご恩に報いるべく、離縁後も資金援助は継続させていただければと思います。さて、こちらに署名をお願いいたします」
ヒューゴが差し出してきたのは、離婚のための書類だった。
思わず、ジルベールは書類とオデットとを見比べてしまう。
「……オデット。ランメルト侯爵に未練はないのか?」
「まあ、お兄さま。ご冗談を。旦那さまにも私にも、男女としての愛など、ひとかけらもありませんわ。もちろん人として尊敬はしておりますが、それとは別ですもの」
やや意地悪そうに問いかけたヒューゴに対し、オデットはあっけらかんと答える。
そのやり取りを聞き、ジルベールは愕然とする。
オデットは自分のことを好きで、本当の夫婦になりたいと望んでいるのだと、かけらも疑っていなかったのだ。
ところが、どうやら違ったらしい。
「そうだな。手紙を見る限り、ランメルト侯爵は優しく振舞うこともなかったようだ。愛などかけらもない態度を取ることにより、お前を惑わせなかったのだろう。何とも誠実なことだ」
「はい、冷たく突き放すような態度が、旦那さまの優しさなのだと思いましたわ。いくら政略結婚でも、普通なら妻に対してはもっとまともに振る舞うでしょう。そうしないことで、私の思いを尊重してくださっているのだと、常に感謝しておりました。そのようなことをされて、愛が芽生えるはずなどありませんもの」
二人の会話が、ジルベールの心を抉っていく。
褒め称えているのだが、実際にはジルベールの行動を批判し、けなすものだ。
これまでのジルベールの行為は、オデットの愛を深めるどころか、遠ざけていたらしい。
いや、そもそも、もとからオデットの愛など、なかったのではないだろうか。
「もともとオデットは、騎士マルクと恋仲だったのですが、父によって引き離されてしまったのです。私も留学中で何もしてやることができず……その間、侯爵が妹を守ってくださったこと、これからの資金援助で報いるつもりです。それでは、後日改めてご挨拶にまいります。今日は、二人の門出を祝ってくだされば幸いです」
にこやかなヒューゴの声が、どこか遠くから聞こえるようだ。
ぼんやりしているうちに、いつの間にか署名してしまったらしい。ヒューゴが満足そうに受け取る。
幸福なオデットとマルク、それを微笑ましそうに見守るヒューゴは、ジルベールに礼を言いながら去っていく。
一人取り残されたジルベールは、やがて現実が身に染み込んでいくと、その場に崩れ落ちた。
いつの間にか、ジルベールの中でオデットの存在が大きくなっていたのだ。
それが突然奪い去られ、今もこれは大掛かりな冗談ではないかという思いを捨てきれない。
何が悪かったのだろう。
最初に、愛することはないなどと言わなければよかったのだろうか。
それとも、せめて己の思いを自覚した後、少しでも優しく接していればよかったのだろうか。
しかし、何を後悔しようとも、もう遅いのだ。
オデットは本当に愛しい相手と、去っていってしまった。
資金援助を継続してもらうためには、追いかけることもできない。
情けなさと悔しさで、ジルベールは吐き気すら覚える。
「うっ……ううっ……」
ジルベールは歯を食いしばり、地面を拳で叩きつける。
ぽとり、と雫が零れ落ち、大地に染み込んでいった。
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