ツンデレの弓月先輩はモテ期の後輩ワンコにお悩み中

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第2章 心の魔物

4. 傷

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(……まぁた泣かしてもうたな……)

弓月はベッドの上で死んだように横たわったまま、心の中でつぶやいた。
もろに顔面に浴びた精液のせいでまぶたが重かったが、薄く目を開くと、床にひざまずいた神矢の背中が、嗚咽を殺すように震えているのがわかった。

(……せやけど、おかしいやろ。被害者こっちやんか……)
(暴力はあかんよな……)
(高野連に報告でもされたらどうするんや。出場停止なるで……)
(……誰もせんやろけどな)

そんな風に胸の内で自虐的に笑ってみたが、泣いている神矢を見てしまうと、最前の自分の幼稚なふるまいに対する後ろめたさがじわじわとしみだしてきて、弓月の心を重くした。

(……別になにも悪いことしてへんこいつに、ケンカ吹っかけた俺もあかんな……)
(しかも、恥ずかしげもなく、あんなマネまでしてもうて……)

力づくだったにもかかわらず、あの瞬間弓月は、神矢の欲情が自分だけに向けられていることを実感し、ゾクゾクするような興奮を感じていた。

(無理やりヤられて悦んでるんやから、ただの変態やな……)
(……しゃーないやん。ほんまに頭おかしなるぐらい、しんどいくらい、こいつのこと、好きなんやもん……)
(終わっとるわ……)

弓月はまぶたを閉じ、ため息をひとつついた。

(……もう俺に、幻滅したやろな)

そう思うと、なにかぽっかり胸に大きな穴が開いたような、虚しい気持ちになった。
目尻からひとすじ、涙がこぼれおちた。
なにもかもがどうでもよくなってきて、弓月はベットの上にぐったりと四肢を投げ出した。

やがて神矢が立ちあがる気配がし、それから、洗面所のドアを静かに開ける音がした。
しばらくすると、まぶたを閉じていた弓月は、濡れたタオルが自分の顔にふれる感覚に気づいた。
どうやら、精液にまみれた弓月の顔を、神矢が拭いてくれているようだった。
弓月はどうしていいかわからず、目を開けて神矢の顔を見る勇気もなく、ただベッドの上で身じろぎもせずに、なすがままになっていた。
お互い交わす言葉もない、苦く静かな時間が過ぎた。

やがて、拭き終えた神矢がもう一度洗面所に行き、それから重い足取りでドアの方へと歩いて行く気配がした。
去り際に、思いつめたような神矢の声が聞こえてきた。

「……ひどいことして、ほんま、すんません」
「こんなんしといて、弓月先輩のそばにおれるって、思ってないす……」

「……この大会終わったら、俺、野球部、辞めるす」

神矢の声がぼんやりと遠のくと、静かにドアが閉まる、乾いた音がした。

(……イテッ……)

唇の端に指をやると、指先に小さく血がついていた。
ベッドの上にあおむけになり、その指先をぼんやりと目の前にかざすと、弓月はしばらくの間、動くことができなかった。


夕食前、ホテルの会議室での全体ミーティングに遅刻ギリギリであらわれた弓月に、監督の深町や他の部員たちは、いぶかしげな表情を見せた。
緊張感のあるミーティングの場に、ふだんなら誰よりも早く姿を見せているはずの男だった。

「……すんません。ちょっと支度に手間取りました」

大事な試合を明日に控え、キャプテンとしての自覚を欠いたふるまいだったと、みんなの前で詫びた。
弓月の表情にどこか影があることに気づいた深町が、気がかりな様子で声をかけてきた。

「……大丈夫か?体調が悪いんじゃないだろうな」
「……なんともないっす。心配かけて、すんません」

(……つッ……)

無理やり笑顔を作ろうとして口角を上げると、切れた唇の端がヒリヒリと痛んだ。
視界の端、一番奥のテーブルに、神矢の姿が見えた。
その視線がどんなふうに自分を見ているのか、弓月はおそろしくて、見ることが出来なかった。

翌日の準決勝に向けた全体ミーティングが終わると、部員たちは夕食会場に向かうため、がやがやしながら会議室を後にした。
まだどこかぼんやりとしたまま資料を片付け、ほぼ最後尾に部屋を出ようとした弓月は、後ろから早瀬に肩を叩かれ、呼び止められた。
珍しく真面目な顔つきで早瀬は弓月を廊下に連れ出すと、部員たちの流れとは反対の方向に引っぱっていき、他聞をはばかるように、弓月に小声で告げた。

「北川から話を聞いた」

その名が出て、弓月はぐっと息を飲んだ。

「ちょっとお前ら……お前と神矢のことだけど、今日は同じ部屋には出来ない」
「勝手に決めた話で悪いが、神矢と北川を入れ替えることにしたから」

立場を忘れた自分の愚かな言動を危ぶまれたも同然で、恥じ入るしかない弓月には、返す言葉がなかった。


翌朝は、予報よりも天候が思わしくなかった。
空は重く垂れこめた雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうに見えた。
そして、午後の準決勝の試合開始とともに、少しずつ風が吹きはじめ。時折ぽつりぽつりと雨粒も見えはじめた。
グラウンドのコンディションが万全ではない中、先発の早瀬は、全国でも名のある強豪校を相手に、5回まで2失点と粘り強く好投した。
しかし、暁星国際の打線は、大会屈指の好投手である相手ピッチャーからなかなか点を取ることができず、中盤まで無得点という展開になっていた。
特に、この大会ずっと好調を維持してきた弓月にもここまで当たりがなく、チャンスでも打つことが出来なかったのが大きく響いていた。
さらに7回裏、ファーストの神矢に痛いエラーが出て、さらに点差が開くこととなった。
そこまで全打席凡退だった神矢は、終始プレーにも精彩を欠き、とうとうベンチスタートだった北川に交代させられることになった。

(なんとかせな……)

焦った弓月は、8回表の3打席目にやっとヒットを放って塁に出たものの、せっかくの場面に、普段からはありえないような走塁のミスを犯し、結局また自らチャンスをつぶすことになった。

(あかん……)

弓月は今まで試合中に、ここまで精神的に追い込まれたことはなかった。
そして0対3のビハインドで迎えた9回の表、最後の攻撃。
打順の回ってこない弓月は、ベンチで祈るように両手を組みながら、味方の攻撃を応援するしかなかった。
そうして、打席に立つ仲間の姿を必死に目で追っていた弓月は、ふと心の暗がりの奥から、その声がよみがえってくるのがわかった。

――この大会終わったら、俺、野球部、辞めるす――

突然襲ってきた想像を超えた喪失感に、腹の底が冷たく、重くなってきて、吐き気がした。
絶望というのはこういう感じを言うのだろうかと、弓月は思った。

(……もう、これで、終わりか……)

ツーアウト一二塁。
周囲の部員たちが声を振りしぼって最後の声援を送る中、奇跡を祈るしかない弓月は、両手を組んだまま、呼吸も忘れ、ぎゅっとまぶたを閉じた。


それから数十分後、奇跡的な逆転劇を演じた暁星国際は、決勝へと駒を進めていた。
そして、チームをその逆転勝利に導いたのは、ふだんあまり目立つことのない、下位打線をまかされた野手たちや、リリーフ投手たちの活躍だった。
結果的にこの試合では、大会屈指のスター選手である弓月も、成長著しいと評価されていた神矢も、その輝きを見せる場面はひとつとしてなかった。


かろうじてチームは試合に勝利できたものの、自分のプレーにはひとつも満足のいくところがなかった弓月は、劇的な勝利に沸く仲間たちとは少し離れた場所で、表情も硬く、荷物をまとめていた。
ちらりと視線を向けると、神矢もベンチの反対側で、自分のふがいなさを責めるような沈痛な面持ちで、帰り支度をしていた。
キャプテンでありながら、自分にはそんな神矢にかける言葉も、言葉をかける権利もないように思えて、弓月は無力感をおぼえていた。

勝利の余韻に水を差すような、自分の沈んだ顔を見られたくなかった弓月は、仲間たちが笑顔でバスへと向かうのを見届けると、ようやく荷物を抱え、重い足取りでベンチ裏のコンコースへと歩き出した。
コンクリートの通路をうつむき加減に歩いて行くと、前方に腕を組んだ早瀬が待ち受けているのが見えた。
弓月は小さくため息をつくと、あきらめたようにゆっくりとそこに近づいて行った。
早瀬の言いたいことは、大体予想がついていた。
弓月が目の前までやってくると、早瀬はいつになく厳しい表情で、強い言葉を投げかけて来た。

「お前ら、いい加減にしろよ」
「お前も、神矢もだ」
「お前らは確かに、才能に恵まれてるかもしれない。だけど、甲子園はお前らだけの夢じゃない。俺たち一人ひとりの、全員の夢なんだ」
「それを、お前らの身勝手で未熟なメンタルのせいで、ダメにする気なのか」

言い返す言葉がなかった。

「今日の神矢のプレー見たか?あんな気の抜けたプレー見せられたら、あいつにレギュラーの座を奪われた連中があまりにみじめだろ」

キャプテンという立場もあり、自分のことを言われるのも当然きつかったが、それ以上に神矢のことを言われるのは、もっときつかった。
神矢の才能を見出し、野球部に推薦したのも、そんな神矢を追い詰めて、ダメにしたのも自分だという自覚があったからである。

「俺は、明日の決勝では神矢を使わないでくれと、監督に意見するつもりだ」

今大会で野球部を辞めるという神矢の決意が揺るがないなら、明日の試合は神矢にとって、最後の試合になるかもしれない。
それを思うと、弓月には早瀬の宣告に抗いたい気持ちもあったが、それは自分の私情に過ぎず、自分の立場で口にするべきことではないという思いもあった。
弓月は力なくこぶしを握りしめた。

「ちょっと待ってください!」

するとその時、通路の向こう側から、一人の女子マネージャーの悲痛な声がした。

「神矢くんが調子をくずしたのは、元はといえば私のせいなんです!だから、この一試合だけで神矢くんを見切るのは、やめてあげてください!」




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