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第1話 コーヒーとミルクティー
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会社の夜は、昼より正直だと思う。
照明が落ちて、足音が減って、空気が冷えると、人の心も隠せなくなる。
新見美由は今日、無駄に残っていた。
いや、“無駄”なんて言葉で片づけるのは簡単だ。
やるべきことは終わっていたのに、帰る理由が作れなかっただけ。
パソコンの画面には、さっきまで開いていた資料が閉じられないまま。
青白い光が、美由の顔色を悪く見せる。
「……はぁ」
ため息をついて、椅子の背もたれに体を預ける。
自分の気持ちを、仕事で上書きできるなら簡単なのに。
――できない。
今日は、彼がいた。
彼、というか……美由の上司。
新田由樹…
昼間の会議で、新田はいつも通り淡々としていた。
言葉は丁寧、判断は速い。
みんなが少し背筋を伸ばすくらいには、“上司らしい上司”だ。
なのに、会議が終わった直後の廊下で、ほんの一瞬だけ見えた表情が――
美由の胸を、妙にざわつかせた。
疲れているのか、気を張っているのか。
それとも、何かに怯えているのか。
どれでもいいはずなのに、美由はその一瞬を見逃せなかった。
そんな事を思い出しキーボードの上に置いた指先が、微かに震える。
美由は深く息を吸って、立ち上がった。
「……コーヒー…飲もう…」
そう呟いて、誰に言うでもなく席を離れる。
給湯室まで行く気力がなくて、自販機のあるフロアの端へ向かった。
夜のオフィスは、音が少ない。
それが逆に、心臓の鼓動を大きくする。
自販機の前まで来た瞬間。
人影があって、美由は足を止めた。
――いた。
ネクタイを少し緩めて、スーツのジャケットを腕にかけている。
背中だけで“誰か”が分かるなんて、そんなの、よくない。
美由は一歩遅れて、わざと咳払いをした。
「あ……お疲れさまです」
新田が振り向く。
いつもの顔。いつもの温度。
「お疲れ。新見もまだ残ってたのか」
声が落ち着いていて、少し低い。
それだけで、胸の奥が熱くなるのは、美由が馬鹿だからだ。
「はい。ちょっと……締めが気になって」
「真面目だな」
さらっと言われて、美由は言い返せなかった。
褒められたのか、からかわれたのか。
どっちでも、美由の中に残るのは同じ“甘さ”だ。
新田は自販機のボタンを押して、缶コーヒーを取り出した。
その動作が、妙に丁寧で、上品で。
……ずるい。
美由は視線を逸らして、ミルクティーを選ぶ。
甘いものが欲しかった。
苦いものは、、、今夜は飲めない。
コインを入れる指先が、少しもたつく。
いつもなら一発で入るのに。
「焦るな」
新田が小さく笑った。
その笑い方が、昼間より柔らかい。
「焦ってません!」
「焦ってる顔してる」
「……してません」
美由は缶を取って、強引に会話を終わらせようとした。
でも、新田がすぐ隣に立っている事実が、美由の逃げ道を塞ぐ。
距離が近い。
近いのに、触れてはいない距離。
「……今日は、遅いですね」
自分でも、どうでもいい話題だと思った。
でも沈黙が怖かった。
「新見もな」
「私は……」
“残っていたかったんです”
そんなこと言えるわけがない。
「……たまたまです」
新田は缶のプルタブを開けて、一口飲んだ。
喉仏が動く。
その動きだけで、美由は妙な想像をしてしまいそうになって、慌てて目を逸らす。
ほんとに馬鹿。
「なに?」
「え?」
「今、変な顔した」
「してません」
さっきからそればかりだ。
否定して、誤魔化して、隠して。
美由はミルクティーを一口飲む。
甘さが舌に広がって、少しだけ落ち着く。
「……新田さんって、いつ休んでるんですか?」
言った瞬間、美由の心臓が跳ねた。
なんでそんなことを聞いたのか、自分でも分からない。
新田は一瞬だけ目を細めた。
笑うでもなく、怒るでもなく。
「休んでるよ。普通に、ちゃんと」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「じゃあ、今日の会議終わった後……疲れてませんでした?」
言ってしまった。
喉の奥が熱くなる。
これは踏み込みすぎだ。上司に向ける言葉じゃない。
新田は少しだけ黙った。
自販機のライトが、新田の横顔の影を濃くする。
「……見てたのか」
その声が、ほんの少しだけ、弱かった。
美由は手の中の缶を握りしめる。
指先が冷えて、力が入る。
「見てました。というか……分かりますよ」
「何が」
「……無理してるときの顔」
言った瞬間、自分の言葉が恥ずかしくなった。
何様なんだろう。美由は。
でも、新田は笑わなかった。
「……鋭いな」
「……そういうんじゃなくて」
“心配しただけ”
それも、本当は言えない。
新田は缶を持ったまま、少しだけ美由の方に向き直った。
真正面に近い角度。
それだけで、美由は息が詰まる。
「心配してくれた?」
たったそれだけの言葉なのに。
質問なのに。
優しさなのに。
美由は喉が鳴るのを感じた。
「……上司ですから」
逃げた。
逃げてしまった。
新田はふっと息を吐いて笑った。
でもそれは、昼間の余裕の笑いじゃない。
「上司だから、か」
「……はい」
「……それ以外じゃない?」
その問いが、美由を刺した。
美由は返事ができない。
心の中にある“それ以外”が、口に出たら終わる気がした。
新田の目が美由を見ている。
暗いオフィスに浮かぶ、真剣な視線。
……ずるい。
美由は無理やり笑った。
「新田さん、変なこと言いますね」
「変なことって」
「……そういうの、困ります」
困る。
本当だ。困る。
新田が美由に踏み込むたび、美由は崩れそうになるから。
新田は少しだけ眉を上げた。
「困るのは、嫌だから?」
「……嫌っていうか」
言葉にすると、どれも違う。
嫌じゃない。
でも嬉しいって言ったら、美由はもう戻れない。
「……仕事、しづらくなるじゃないですか」
言い訳。
しかも下手。
新田はその言い訳を否定しなかった。
ただ、ほんの少しだけ視線を落として――
小さく笑った。
「……そうだな。仕事はしづらくなる」
その言い方が、妙に切なかった。
美由は、胸が痛くなる。
新田の方が大人で、全部分かってて、余裕で美由をからかってると思ってた。
なのに今、新田は少しだけ……
頼りない。
その頼りなさが、美由の心を撫でる。
危険なほど、優しく。
「……新田さん」
美由は呼んだ。
“呼んでしまった”に近い。
新田が顔を上げる。
「なに」
「……無理しないでください」
美由の声は、思ったより真剣で、柔らかかった。
新田はその場で動かない。
ただ、美由を見ている。
「……新見が言うと、効くな」
「え?」
「無理するなって」
美由は笑ってごまかせなかった。
胸の奥が、きゅっと縮む。
「……効くなら、よかったです」
「よかった、か」
新田は缶コーヒーを見つめる。
プルタブの縁を指でなぞる仕草が、妙に寂しそうで。
「……俺、そんなに頼りない?」
急に来た。
予想してなかった角度。
美由は息を止める。
頼りない、と思った。
でもそれは、嫌いじゃなくて――むしろ。
「……頼りないっていうか」
美由は言葉を選ぶ。
慎重に、慎重に。
「完璧に見せようとしすぎ、です」
新田が目を瞬いた。
「……完璧に?」
「はい。新田さんって、いつも“正しい顔”してるから…上司って、もっと雑でもいいのに」
「正しい顔…」
「そう。だから……」
だから、怖い。
でも、惹かれる。
美由は言いかけて、飲み込んだ。
新田は少しだけ笑って、肩の力を抜いた。
「……雑でもいいって言ったな」
「言いました」
「雑にしてたら、怒るだろ」
「怒りませんよ」
「怒る」
「怒りません」
短い言い合い。
なのに、美由の口元が勝手に緩む。
会話が、甘い。
新田も少しだけ笑って、缶を握り直した。
「……そうか」
その“そうか”が、少しだけ救われた声で。
美由の胸の奥が温かくなる。
でも同時に怖い。
美由の言葉が、新田の中に入り込んでしまったみたいで。
「……じゃあ」
美由が帰ろうとすると、新田が言った。
「もう少し、付き合えよ」
「え?」
「ミルクティー、まだ残ってるだろ」
美由は手元を見る。
半分くらい残っていた。
「……新田さんも、コーヒーありますよ」
「俺は、飲むより……」
新田が言いかけて止める。
その間が、妙に色っぽくて、美由は呼吸を忘れる。
「……飲むより?」
「……なんでもない」
言わない。
言わないのに、感じさせる。
それが、新田の“最初の主導権”なんだと思った。
美由は少しだけ意地になって、缶を持ち上げた。
「じゃあ、ここで飲みきります」
「どうぞ」
新田は壁に背を預けるようにして、美由を見たまま。
見守るというより、観察してるみたいに。
美由はミルクティーを飲む。
甘さが、喉を通る。
視線が熱い。
触れていないのに、触れられているみたい。
「……見ないでください」
我慢できなくて言うと、新田が小さく笑った。
「なんで」
「落ち着かない」
「落ち着かない顔も、かわいいな」
――それ、反則。
美由は缶を持ったまま固まった。
顔が熱い。
絶対赤い。
「……新田さん、そういうこと言う人じゃないと思ってました」
「俺も」
「え?」
「俺も、言うつもりなかった」
その言葉が、刺さる。
言いたくなった理由が、美由にあるみたいで。
美由は視線を逸らして、最後の一口を飲み干す。
空になった缶を握りしめた。
手が震えている。
「……もう、帰ります」
「送る」
「いりません」
即答した。
怖いから。
「いります」
「いりません!」
少し強く言ってしまって、美由は後悔する。
新田の表情が、ほんの少しだけ曇ったから。
「……すみません。」
新田は首を振った。
「いい。分かった」
それだけ言って、新田は少しだけ距離を取った。
美由の胸が、痛む。
……あぁ
欲しいくせに、拒んで。
近づきたいくせに、逃げて。
美由は缶を捨てるためにゴミ箱に向かい、最後に小さく言った。
「……でも」
新田が顔を上げる。
「……新田さんが、無理してる顔は、嫌です」
それは、美由の本音だった。
新田の目が揺れる。
大人の余裕が、少しだけ剥がれる。
「……それ、困るな」
「困らせます」
美由は、初めて強く言った。
自分でも驚くくらい。
新田は一瞬黙って、そして、ふっと笑った。
「……じゃあ、困らせて」
その声が、甘くて、切なくて。
美由は胸が締め付けられて、何も言えなくなった。
その夜。
美由は帰り道でずっと、自分の心臓の音を聞いていた。
触れていないのに。
まだ何も始まっていないのに。
――もう、戻れない気がした。
照明が落ちて、足音が減って、空気が冷えると、人の心も隠せなくなる。
新見美由は今日、無駄に残っていた。
いや、“無駄”なんて言葉で片づけるのは簡単だ。
やるべきことは終わっていたのに、帰る理由が作れなかっただけ。
パソコンの画面には、さっきまで開いていた資料が閉じられないまま。
青白い光が、美由の顔色を悪く見せる。
「……はぁ」
ため息をついて、椅子の背もたれに体を預ける。
自分の気持ちを、仕事で上書きできるなら簡単なのに。
――できない。
今日は、彼がいた。
彼、というか……美由の上司。
新田由樹…
昼間の会議で、新田はいつも通り淡々としていた。
言葉は丁寧、判断は速い。
みんなが少し背筋を伸ばすくらいには、“上司らしい上司”だ。
なのに、会議が終わった直後の廊下で、ほんの一瞬だけ見えた表情が――
美由の胸を、妙にざわつかせた。
疲れているのか、気を張っているのか。
それとも、何かに怯えているのか。
どれでもいいはずなのに、美由はその一瞬を見逃せなかった。
そんな事を思い出しキーボードの上に置いた指先が、微かに震える。
美由は深く息を吸って、立ち上がった。
「……コーヒー…飲もう…」
そう呟いて、誰に言うでもなく席を離れる。
給湯室まで行く気力がなくて、自販機のあるフロアの端へ向かった。
夜のオフィスは、音が少ない。
それが逆に、心臓の鼓動を大きくする。
自販機の前まで来た瞬間。
人影があって、美由は足を止めた。
――いた。
ネクタイを少し緩めて、スーツのジャケットを腕にかけている。
背中だけで“誰か”が分かるなんて、そんなの、よくない。
美由は一歩遅れて、わざと咳払いをした。
「あ……お疲れさまです」
新田が振り向く。
いつもの顔。いつもの温度。
「お疲れ。新見もまだ残ってたのか」
声が落ち着いていて、少し低い。
それだけで、胸の奥が熱くなるのは、美由が馬鹿だからだ。
「はい。ちょっと……締めが気になって」
「真面目だな」
さらっと言われて、美由は言い返せなかった。
褒められたのか、からかわれたのか。
どっちでも、美由の中に残るのは同じ“甘さ”だ。
新田は自販機のボタンを押して、缶コーヒーを取り出した。
その動作が、妙に丁寧で、上品で。
……ずるい。
美由は視線を逸らして、ミルクティーを選ぶ。
甘いものが欲しかった。
苦いものは、、、今夜は飲めない。
コインを入れる指先が、少しもたつく。
いつもなら一発で入るのに。
「焦るな」
新田が小さく笑った。
その笑い方が、昼間より柔らかい。
「焦ってません!」
「焦ってる顔してる」
「……してません」
美由は缶を取って、強引に会話を終わらせようとした。
でも、新田がすぐ隣に立っている事実が、美由の逃げ道を塞ぐ。
距離が近い。
近いのに、触れてはいない距離。
「……今日は、遅いですね」
自分でも、どうでもいい話題だと思った。
でも沈黙が怖かった。
「新見もな」
「私は……」
“残っていたかったんです”
そんなこと言えるわけがない。
「……たまたまです」
新田は缶のプルタブを開けて、一口飲んだ。
喉仏が動く。
その動きだけで、美由は妙な想像をしてしまいそうになって、慌てて目を逸らす。
ほんとに馬鹿。
「なに?」
「え?」
「今、変な顔した」
「してません」
さっきからそればかりだ。
否定して、誤魔化して、隠して。
美由はミルクティーを一口飲む。
甘さが舌に広がって、少しだけ落ち着く。
「……新田さんって、いつ休んでるんですか?」
言った瞬間、美由の心臓が跳ねた。
なんでそんなことを聞いたのか、自分でも分からない。
新田は一瞬だけ目を細めた。
笑うでもなく、怒るでもなく。
「休んでるよ。普通に、ちゃんと」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「じゃあ、今日の会議終わった後……疲れてませんでした?」
言ってしまった。
喉の奥が熱くなる。
これは踏み込みすぎだ。上司に向ける言葉じゃない。
新田は少しだけ黙った。
自販機のライトが、新田の横顔の影を濃くする。
「……見てたのか」
その声が、ほんの少しだけ、弱かった。
美由は手の中の缶を握りしめる。
指先が冷えて、力が入る。
「見てました。というか……分かりますよ」
「何が」
「……無理してるときの顔」
言った瞬間、自分の言葉が恥ずかしくなった。
何様なんだろう。美由は。
でも、新田は笑わなかった。
「……鋭いな」
「……そういうんじゃなくて」
“心配しただけ”
それも、本当は言えない。
新田は缶を持ったまま、少しだけ美由の方に向き直った。
真正面に近い角度。
それだけで、美由は息が詰まる。
「心配してくれた?」
たったそれだけの言葉なのに。
質問なのに。
優しさなのに。
美由は喉が鳴るのを感じた。
「……上司ですから」
逃げた。
逃げてしまった。
新田はふっと息を吐いて笑った。
でもそれは、昼間の余裕の笑いじゃない。
「上司だから、か」
「……はい」
「……それ以外じゃない?」
その問いが、美由を刺した。
美由は返事ができない。
心の中にある“それ以外”が、口に出たら終わる気がした。
新田の目が美由を見ている。
暗いオフィスに浮かぶ、真剣な視線。
……ずるい。
美由は無理やり笑った。
「新田さん、変なこと言いますね」
「変なことって」
「……そういうの、困ります」
困る。
本当だ。困る。
新田が美由に踏み込むたび、美由は崩れそうになるから。
新田は少しだけ眉を上げた。
「困るのは、嫌だから?」
「……嫌っていうか」
言葉にすると、どれも違う。
嫌じゃない。
でも嬉しいって言ったら、美由はもう戻れない。
「……仕事、しづらくなるじゃないですか」
言い訳。
しかも下手。
新田はその言い訳を否定しなかった。
ただ、ほんの少しだけ視線を落として――
小さく笑った。
「……そうだな。仕事はしづらくなる」
その言い方が、妙に切なかった。
美由は、胸が痛くなる。
新田の方が大人で、全部分かってて、余裕で美由をからかってると思ってた。
なのに今、新田は少しだけ……
頼りない。
その頼りなさが、美由の心を撫でる。
危険なほど、優しく。
「……新田さん」
美由は呼んだ。
“呼んでしまった”に近い。
新田が顔を上げる。
「なに」
「……無理しないでください」
美由の声は、思ったより真剣で、柔らかかった。
新田はその場で動かない。
ただ、美由を見ている。
「……新見が言うと、効くな」
「え?」
「無理するなって」
美由は笑ってごまかせなかった。
胸の奥が、きゅっと縮む。
「……効くなら、よかったです」
「よかった、か」
新田は缶コーヒーを見つめる。
プルタブの縁を指でなぞる仕草が、妙に寂しそうで。
「……俺、そんなに頼りない?」
急に来た。
予想してなかった角度。
美由は息を止める。
頼りない、と思った。
でもそれは、嫌いじゃなくて――むしろ。
「……頼りないっていうか」
美由は言葉を選ぶ。
慎重に、慎重に。
「完璧に見せようとしすぎ、です」
新田が目を瞬いた。
「……完璧に?」
「はい。新田さんって、いつも“正しい顔”してるから…上司って、もっと雑でもいいのに」
「正しい顔…」
「そう。だから……」
だから、怖い。
でも、惹かれる。
美由は言いかけて、飲み込んだ。
新田は少しだけ笑って、肩の力を抜いた。
「……雑でもいいって言ったな」
「言いました」
「雑にしてたら、怒るだろ」
「怒りませんよ」
「怒る」
「怒りません」
短い言い合い。
なのに、美由の口元が勝手に緩む。
会話が、甘い。
新田も少しだけ笑って、缶を握り直した。
「……そうか」
その“そうか”が、少しだけ救われた声で。
美由の胸の奥が温かくなる。
でも同時に怖い。
美由の言葉が、新田の中に入り込んでしまったみたいで。
「……じゃあ」
美由が帰ろうとすると、新田が言った。
「もう少し、付き合えよ」
「え?」
「ミルクティー、まだ残ってるだろ」
美由は手元を見る。
半分くらい残っていた。
「……新田さんも、コーヒーありますよ」
「俺は、飲むより……」
新田が言いかけて止める。
その間が、妙に色っぽくて、美由は呼吸を忘れる。
「……飲むより?」
「……なんでもない」
言わない。
言わないのに、感じさせる。
それが、新田の“最初の主導権”なんだと思った。
美由は少しだけ意地になって、缶を持ち上げた。
「じゃあ、ここで飲みきります」
「どうぞ」
新田は壁に背を預けるようにして、美由を見たまま。
見守るというより、観察してるみたいに。
美由はミルクティーを飲む。
甘さが、喉を通る。
視線が熱い。
触れていないのに、触れられているみたい。
「……見ないでください」
我慢できなくて言うと、新田が小さく笑った。
「なんで」
「落ち着かない」
「落ち着かない顔も、かわいいな」
――それ、反則。
美由は缶を持ったまま固まった。
顔が熱い。
絶対赤い。
「……新田さん、そういうこと言う人じゃないと思ってました」
「俺も」
「え?」
「俺も、言うつもりなかった」
その言葉が、刺さる。
言いたくなった理由が、美由にあるみたいで。
美由は視線を逸らして、最後の一口を飲み干す。
空になった缶を握りしめた。
手が震えている。
「……もう、帰ります」
「送る」
「いりません」
即答した。
怖いから。
「いります」
「いりません!」
少し強く言ってしまって、美由は後悔する。
新田の表情が、ほんの少しだけ曇ったから。
「……すみません。」
新田は首を振った。
「いい。分かった」
それだけ言って、新田は少しだけ距離を取った。
美由の胸が、痛む。
……あぁ
欲しいくせに、拒んで。
近づきたいくせに、逃げて。
美由は缶を捨てるためにゴミ箱に向かい、最後に小さく言った。
「……でも」
新田が顔を上げる。
「……新田さんが、無理してる顔は、嫌です」
それは、美由の本音だった。
新田の目が揺れる。
大人の余裕が、少しだけ剥がれる。
「……それ、困るな」
「困らせます」
美由は、初めて強く言った。
自分でも驚くくらい。
新田は一瞬黙って、そして、ふっと笑った。
「……じゃあ、困らせて」
その声が、甘くて、切なくて。
美由は胸が締め付けられて、何も言えなくなった。
その夜。
美由は帰り道でずっと、自分の心臓の音を聞いていた。
触れていないのに。
まだ何も始まっていないのに。
――もう、戻れない気がした。
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