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第2話 強さのカギ
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あの日から、社内の空気が変わった気がする。
正確には――
変わったのは空気じゃなくて、私の方だ。
昼間のオフィスで、新田さんが普通に「新見」って呼ぶたびに、胸が少しだけ騒ぐ。
会議で淡々と指示を出す声が、昨日までより“近く”聞こえる。
何も起きていない。
触れてもいない。
ただ話しただけ。
それなのに、私は自分の中の温度が戻らないまま、仕事をしていた。
「新見、これ。先方への文面、確認して」
午前十時。
新田さんの声が、いつも通りの冷静さで飛んできた。
「はい、すぐ見ます」
返事は普段通り。
動きも普段通り。
顔だって、できるだけ普段通りにしている。
――でも、目だけは。
一瞬だけ新田さんを見た。
そして慌てて逸らす。
昨夜の自販機前を思い出してしまうから。
“落ち着かない顔も、かわいい”
あれは、冗談だったはずだ。
軽いからかいで、私が勝手に揺れているだけ。
そう思い込もうとしているのに――
新田さんの視線がふっと私に止まるたび、心臓が跳ねる。
「……新見?」
「っ、すみません。今、確認します」
「頼む」
それだけ。
いつもと変わらないやりとり。
なのに私は、いつもより丁寧にキーを叩いている自分に気づく。
ミスをしたくない。
変に思われたくない。
……でも本当は。
変に思われたいのかもしれない。
“気づかれたい”みたいに。
午後、取引先へのオンライン打ち合わせが終わって、フロアにまた日常が戻ってくる。
私は資料をまとめながら、席を立った。
給湯室へ行こうとして――
その手前で、新田さんの声がした。
「新見。今、時間ある?」
心臓が嫌な音を立てた。
“ある?”って聞き方が、業務のそれなのに、違う響きに聞こえる。
「あります。何かありましたか?」
「ちょっと、会議室」
会議室。
その単語に、胸の奥がきゅっとなる。
「……はい」
断れる雰囲気じゃない。
断りたくないのかもしれない。
私はそう思ってしまって、さらに自分が嫌になる。
会議室は、フロアの奥。
普段は打ち合わせで埋まっているけど、この時間はたまたま空いていた。
新田さんがドアを開けて、先に入る。
私は後ろからついていく。
「ここ、寒くないですか?」
美由は自分でも驚くほど、平気な声を出した。
あんなに緊張しているのに。
「エアコン弱めにするか」
新田さんはリモコンに手を伸ばして、軽く操作する。
その動きが、無駄がなくて、やっぱり“できる人”のそれで。
……余裕がある。
私なんか、隣にいるだけで必死なのに。
「で、何でしょう」
私が先に切り出すと、新田さんは椅子を引かずに、会議室のテーブルの端に腰を預けた。
立ったまま。
座らない。
それって、すぐ終わる話なのか、
それとも――逃げられない話なのか。
「昨日の件」
一言で、美由の呼吸が止まりかけた。
「……昨日?」
わざと分からないふりをしたのは、卑怯だと思う。
でも、これ以上踏み込んだら危ない気がした。
新田さんは少しだけ笑った。
「自販機」
その二文字で、胸の奥に熱が走る。
「……あれは、別に」
「別に?」
「別に、深い意味は……」
言いながら、私の声が小さくなる。
深い意味、あるくせに。
新田さんの目が、私を捉える。
逃げられないように、静かに。
「俺は、深い意味があった」
心臓が落ちた。
違う、跳ねた。
どっちか分からない。
「新田さん……」
「新見が言っただろ。“無理してる顔、嫌だ”って」
「……言いました」
「効いた」
その言葉が、ずるい。
私の優しさを、私のせいにするみたいで。
「それは……上司だからです」
昨日と同じ逃げ道を口にする。
でも、昨日ほど強く言えない。
新田さんは目を細めて、少しだけ首を傾けた。
「それ、便利な言葉だな」
「便利って」
「上司だから、で全部片づく」
――片づかないのに。
私は唇を噛んだ。
言い返したいのに、言葉が出ない。
新田さんが、一歩だけ近づいた。
テーブルを挟んでいた距離が、薄くなる。
「新見」
苗字を呼ばれるだけで、喉が渇く。
「……はい」
「俺のこと、困らせるって言った」
「……言いました」
「ほんとに困ってる」
困ってる。
困らせたくて困らせたわけじゃないのに。
私は目を逸らせなくなった。
視線を逃がしたら、負ける気がした。
「……困ってるなら、やめてください」
声が震える。
私のくせに、そんなこと言うの?って思う。
新田さんが、少しだけ笑った。
「やめられない」
その言い方は、強い。
主導権を握る声。
私の心が甘く痛む。
怖いのに、嬉しい。
「新田さん、そういうの……」
「そういうの、何?」
私が言葉を探している間に、新田さんがさらに近づいた。
今度はテーブル越しじゃない。
回り込むように、私の横に立つ。
近い。
息がぶつかりそう。
私は反射的に一歩下がる――けど、背中が椅子に当たって止まった。
「逃げるな」
低い声。
命令じゃないのに、命令に聞こえる。
私の体が固まる。
こんなふうに、簡単に支配されるのが悔しいのに。
「……逃げてません」
「逃げてる」
「逃げてません」
またそれ。
否定ばかり。
新田さんは少しだけ首を傾けて、美由の顔を覗き込む。
「新見は、いつも強いよな」
強い?
私が?
「強くないです」
「強い。仕事も、言葉も」
「……新田さんの方が強いです」
言った瞬間、私の胸が熱くなった。
“強い”と言うつもりじゃなかったのに。
新田さんの目が揺れる。
「俺が強い?」
「はい。いつも余裕で……」
「余裕なんてない」
ぴしゃり、と言い切られて、私は息を呑む。
その声は、さっきまでの大人の余裕じゃなかった。
少しだけ……焦っている声。
「……ないですか」
「ない」
新田さんは短く答えたあと、少しだけ黙った。
その沈黙の中で、美由は気づく。
――あ。
この人は、強いふりをしてる。
私に“強い”と思わせることで、距離を保っている。
なのに今、私が言った一言で、崩れた。
「新田さん」
私が呼ぶと、新田さんの肩がほんの少しだけ揺れた気がした。
呼びかけに反応したんじゃない。
“見抜かれた”ことに反応したみたいに。
「……なに」
「私、昨日から……変です」
口に出した瞬間、恥ずかしさで死にそうになる。
何言ってるんだろう。
でも止められない。
「新田さんと話すと、心が落ち着かなくて」
会議室に、静けさが落ちる。
外のフロアの音が遠い。
新田さんが、私を見たまま動かない。
「落ち着かなくて、何が悪い」
その声が、柔らかくなっていた。
さっきまでの主導権が、少し緩む。
私は息を吸って、続けた。
「……仕事、しづらいです」
「じゃあ、どうする」
「どうしたらいいか分からないです」
“分からない”って言葉は、私の中で一番弱い。
でも新田さんにだけは、言ってしまった。
新田さんは、私の前で目を伏せた。
その瞬間が、妙に人間らしくて。
「……俺も分からない」
小さな声。
頼りない。
昨日見えた“綻び”が、また見えた。
私は胸の奥が締め付けられる。
この人は、優しい。
なのに、優しさの使い方が下手だ。
「新田さん」
私は一歩だけ近づいた。
今度は、私が。
「……無理しないでください」
またその言葉。
昨日と同じ。
でも今日は、少し違う意味が混ざっている。
“私の前では、完璧でいなくていい”
そう言いたいのに、上手く言えない。
新田さんが笑った。
ほんの少しだけ、自嘲するみたいに。
「新見に言われるの、ほんと効く」
「……困ります」
「困らせるって言ったのは、新見だ」
「……言いました」
悔しい。
でも、甘い。
会話の一つ一つが、心の奥を撫でる。
そのとき、会議室のドアの外で足音がした。
誰かが通り過ぎるだけの音なのに、私は反射的に息を止めた。
新田さんも、ほんの一瞬だけ目を鋭くした。
「……誰か来たら」
私が小声で言うと、新田さんはさらっと答えた。
「来ないよ。ここ、予約入ってない」
そういう問題じゃない。
でも、その“余裕”がまたずるい。
新田さんは、会議室のドアに向かって歩く。
私は、何をするのか分からなくて、ただ見ていた。
カチャ、と小さな音。
――鍵。
新田さんが、会議室の鍵を閉めた。
私の背筋がぞくっとした。
それは怖さじゃない。
怖さに似た、甘い緊張。
「新田さん……?」
声が震える。
ここは会社。社内。
鍵を閉める意味は、ひとつしかない気がしてしまう。
新田さんは鍵から手を離して、こちらを振り向いた。
「ごめん。驚いたか」
その声が、思ったより優しくて、私は少しだけ息を吐いた。
「……驚きます」
「だよな」
新田さんは苦笑して、少しだけ近づく。
今度は慎重に。
「誰かに聞かれたくない話、ある」
「……私もです」
自然に出てしまった。
新田さんの目が、僅かに見開かれる。
「あるのか」
「……あります」
私は自分の指先を見つめた。
椅子の背を握っている。
逃げる準備みたいに。
新田さんは、私の手元を見て、少しだけ視線を下げた。
「……怖い?」
「怖いです」
正直に言った。
「でも、嫌じゃないです」
その一言が、会議室の空気を変えた。
新田さんが、息を止めたみたいに固まる。
そして、少しだけ笑った。
「……反則」
「私がですか」
「新見が」
新田さんは私を見たまま、少しだけ声を落とす。
「そんなこと言われたら、余裕なくなる」
余裕がない。
それは、彼の弱さ。
そして――私が触れてしまった場所。
私は胸が痛くて、でも温かくて、どうしていいか分からない。
「新田さん」
私がもう一度呼ぶと、新田さんは返事をしなかった。
代わりに、ゆっくりと目を伏せる。
何かを堪えるみたいに。
「……新見」
呼び返された苗字が、甘い。
「一つだけ、約束して」
「……何をですか」
新田さんは、少しだけ笑った。
笑ったのに、目が切ない。
「俺のこと、嫌いにならないで」
その瞬間、胸の奥がきゅっと潰れた。
――頼りない。
こんな言葉を上司が言うなんて。
最初に主導権を握って、鍵まで閉めたくせに。
なのに、最後に出てくるのがそれ?
私は、悔しくて、甘くて、たまらなくて。
「……嫌いになりません」
即答だった。
「……たぶん」
わざと付け足すと、新田さんが小さく笑った。
「たぶん、か」
「新田さんが変なこと言うからです」
「変なこと言わせてるのは、新見だろ」
またずるい。
私は目を逸らして、息を整えた。
このままじゃ、本当に何かが始まってしまう気がした。
「……鍵、開けてください」
私が言うと、新田さんは一瞬だけ止まった。
それから、ゆっくり頷く。
「……分かった」
鍵を開ける音がした。
でも、ドアは開けない。
鍵だけを開けただけ。
「新田さん」
「なに」
「……今日は、ここまでです」
私が言うと、新田さんはまた笑った。
今度は少しだけ、悔しそうに。
「……はいはい」
「“はいはい”って」
「新見が、強いから」
強い。
さっき言われた言葉が、また刺さる。
私は強くない。
ただ、崩れるのが怖いだけ。
でも――
この人の頼りなさを見た瞬間、私は確かに、少しだけ前に出た。
新田さんがドアを開ける。
外の光と音が戻ってきて、現実に引き戻される。
最後に、新田さんが小さく言った。
「新見」
「はい」
「……また、残業するな」
命令みたいで、優しい。
私は、少しだけ笑った。
「新田さんが残業しなければ、しません」
新田さんが目を見開いて、それから困ったみたいに笑った。
「それは無理」
「じゃあ、私も無理です」
言い返した瞬間。
新田さんの目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「……参ったな」
その呟きが、甘かった。
私はそのまま会議室を出て、自分の席へ戻る。
心臓がうるさい。
指先が熱い。
鍵が閉まった瞬間の緊張も、
「嫌いにならないで」という頼りない声も、
全部が胸の奥に残っていた。
最初は新田さんが主導権を握っていた。
それは間違いない。
でも――
最後の最後に、私の一言で困った顔をしたのは、
新田さんのほうだった。
正確には――
変わったのは空気じゃなくて、私の方だ。
昼間のオフィスで、新田さんが普通に「新見」って呼ぶたびに、胸が少しだけ騒ぐ。
会議で淡々と指示を出す声が、昨日までより“近く”聞こえる。
何も起きていない。
触れてもいない。
ただ話しただけ。
それなのに、私は自分の中の温度が戻らないまま、仕事をしていた。
「新見、これ。先方への文面、確認して」
午前十時。
新田さんの声が、いつも通りの冷静さで飛んできた。
「はい、すぐ見ます」
返事は普段通り。
動きも普段通り。
顔だって、できるだけ普段通りにしている。
――でも、目だけは。
一瞬だけ新田さんを見た。
そして慌てて逸らす。
昨夜の自販機前を思い出してしまうから。
“落ち着かない顔も、かわいい”
あれは、冗談だったはずだ。
軽いからかいで、私が勝手に揺れているだけ。
そう思い込もうとしているのに――
新田さんの視線がふっと私に止まるたび、心臓が跳ねる。
「……新見?」
「っ、すみません。今、確認します」
「頼む」
それだけ。
いつもと変わらないやりとり。
なのに私は、いつもより丁寧にキーを叩いている自分に気づく。
ミスをしたくない。
変に思われたくない。
……でも本当は。
変に思われたいのかもしれない。
“気づかれたい”みたいに。
午後、取引先へのオンライン打ち合わせが終わって、フロアにまた日常が戻ってくる。
私は資料をまとめながら、席を立った。
給湯室へ行こうとして――
その手前で、新田さんの声がした。
「新見。今、時間ある?」
心臓が嫌な音を立てた。
“ある?”って聞き方が、業務のそれなのに、違う響きに聞こえる。
「あります。何かありましたか?」
「ちょっと、会議室」
会議室。
その単語に、胸の奥がきゅっとなる。
「……はい」
断れる雰囲気じゃない。
断りたくないのかもしれない。
私はそう思ってしまって、さらに自分が嫌になる。
会議室は、フロアの奥。
普段は打ち合わせで埋まっているけど、この時間はたまたま空いていた。
新田さんがドアを開けて、先に入る。
私は後ろからついていく。
「ここ、寒くないですか?」
美由は自分でも驚くほど、平気な声を出した。
あんなに緊張しているのに。
「エアコン弱めにするか」
新田さんはリモコンに手を伸ばして、軽く操作する。
その動きが、無駄がなくて、やっぱり“できる人”のそれで。
……余裕がある。
私なんか、隣にいるだけで必死なのに。
「で、何でしょう」
私が先に切り出すと、新田さんは椅子を引かずに、会議室のテーブルの端に腰を預けた。
立ったまま。
座らない。
それって、すぐ終わる話なのか、
それとも――逃げられない話なのか。
「昨日の件」
一言で、美由の呼吸が止まりかけた。
「……昨日?」
わざと分からないふりをしたのは、卑怯だと思う。
でも、これ以上踏み込んだら危ない気がした。
新田さんは少しだけ笑った。
「自販機」
その二文字で、胸の奥に熱が走る。
「……あれは、別に」
「別に?」
「別に、深い意味は……」
言いながら、私の声が小さくなる。
深い意味、あるくせに。
新田さんの目が、私を捉える。
逃げられないように、静かに。
「俺は、深い意味があった」
心臓が落ちた。
違う、跳ねた。
どっちか分からない。
「新田さん……」
「新見が言っただろ。“無理してる顔、嫌だ”って」
「……言いました」
「効いた」
その言葉が、ずるい。
私の優しさを、私のせいにするみたいで。
「それは……上司だからです」
昨日と同じ逃げ道を口にする。
でも、昨日ほど強く言えない。
新田さんは目を細めて、少しだけ首を傾けた。
「それ、便利な言葉だな」
「便利って」
「上司だから、で全部片づく」
――片づかないのに。
私は唇を噛んだ。
言い返したいのに、言葉が出ない。
新田さんが、一歩だけ近づいた。
テーブルを挟んでいた距離が、薄くなる。
「新見」
苗字を呼ばれるだけで、喉が渇く。
「……はい」
「俺のこと、困らせるって言った」
「……言いました」
「ほんとに困ってる」
困ってる。
困らせたくて困らせたわけじゃないのに。
私は目を逸らせなくなった。
視線を逃がしたら、負ける気がした。
「……困ってるなら、やめてください」
声が震える。
私のくせに、そんなこと言うの?って思う。
新田さんが、少しだけ笑った。
「やめられない」
その言い方は、強い。
主導権を握る声。
私の心が甘く痛む。
怖いのに、嬉しい。
「新田さん、そういうの……」
「そういうの、何?」
私が言葉を探している間に、新田さんがさらに近づいた。
今度はテーブル越しじゃない。
回り込むように、私の横に立つ。
近い。
息がぶつかりそう。
私は反射的に一歩下がる――けど、背中が椅子に当たって止まった。
「逃げるな」
低い声。
命令じゃないのに、命令に聞こえる。
私の体が固まる。
こんなふうに、簡単に支配されるのが悔しいのに。
「……逃げてません」
「逃げてる」
「逃げてません」
またそれ。
否定ばかり。
新田さんは少しだけ首を傾けて、美由の顔を覗き込む。
「新見は、いつも強いよな」
強い?
私が?
「強くないです」
「強い。仕事も、言葉も」
「……新田さんの方が強いです」
言った瞬間、私の胸が熱くなった。
“強い”と言うつもりじゃなかったのに。
新田さんの目が揺れる。
「俺が強い?」
「はい。いつも余裕で……」
「余裕なんてない」
ぴしゃり、と言い切られて、私は息を呑む。
その声は、さっきまでの大人の余裕じゃなかった。
少しだけ……焦っている声。
「……ないですか」
「ない」
新田さんは短く答えたあと、少しだけ黙った。
その沈黙の中で、美由は気づく。
――あ。
この人は、強いふりをしてる。
私に“強い”と思わせることで、距離を保っている。
なのに今、私が言った一言で、崩れた。
「新田さん」
私が呼ぶと、新田さんの肩がほんの少しだけ揺れた気がした。
呼びかけに反応したんじゃない。
“見抜かれた”ことに反応したみたいに。
「……なに」
「私、昨日から……変です」
口に出した瞬間、恥ずかしさで死にそうになる。
何言ってるんだろう。
でも止められない。
「新田さんと話すと、心が落ち着かなくて」
会議室に、静けさが落ちる。
外のフロアの音が遠い。
新田さんが、私を見たまま動かない。
「落ち着かなくて、何が悪い」
その声が、柔らかくなっていた。
さっきまでの主導権が、少し緩む。
私は息を吸って、続けた。
「……仕事、しづらいです」
「じゃあ、どうする」
「どうしたらいいか分からないです」
“分からない”って言葉は、私の中で一番弱い。
でも新田さんにだけは、言ってしまった。
新田さんは、私の前で目を伏せた。
その瞬間が、妙に人間らしくて。
「……俺も分からない」
小さな声。
頼りない。
昨日見えた“綻び”が、また見えた。
私は胸の奥が締め付けられる。
この人は、優しい。
なのに、優しさの使い方が下手だ。
「新田さん」
私は一歩だけ近づいた。
今度は、私が。
「……無理しないでください」
またその言葉。
昨日と同じ。
でも今日は、少し違う意味が混ざっている。
“私の前では、完璧でいなくていい”
そう言いたいのに、上手く言えない。
新田さんが笑った。
ほんの少しだけ、自嘲するみたいに。
「新見に言われるの、ほんと効く」
「……困ります」
「困らせるって言ったのは、新見だ」
「……言いました」
悔しい。
でも、甘い。
会話の一つ一つが、心の奥を撫でる。
そのとき、会議室のドアの外で足音がした。
誰かが通り過ぎるだけの音なのに、私は反射的に息を止めた。
新田さんも、ほんの一瞬だけ目を鋭くした。
「……誰か来たら」
私が小声で言うと、新田さんはさらっと答えた。
「来ないよ。ここ、予約入ってない」
そういう問題じゃない。
でも、その“余裕”がまたずるい。
新田さんは、会議室のドアに向かって歩く。
私は、何をするのか分からなくて、ただ見ていた。
カチャ、と小さな音。
――鍵。
新田さんが、会議室の鍵を閉めた。
私の背筋がぞくっとした。
それは怖さじゃない。
怖さに似た、甘い緊張。
「新田さん……?」
声が震える。
ここは会社。社内。
鍵を閉める意味は、ひとつしかない気がしてしまう。
新田さんは鍵から手を離して、こちらを振り向いた。
「ごめん。驚いたか」
その声が、思ったより優しくて、私は少しだけ息を吐いた。
「……驚きます」
「だよな」
新田さんは苦笑して、少しだけ近づく。
今度は慎重に。
「誰かに聞かれたくない話、ある」
「……私もです」
自然に出てしまった。
新田さんの目が、僅かに見開かれる。
「あるのか」
「……あります」
私は自分の指先を見つめた。
椅子の背を握っている。
逃げる準備みたいに。
新田さんは、私の手元を見て、少しだけ視線を下げた。
「……怖い?」
「怖いです」
正直に言った。
「でも、嫌じゃないです」
その一言が、会議室の空気を変えた。
新田さんが、息を止めたみたいに固まる。
そして、少しだけ笑った。
「……反則」
「私がですか」
「新見が」
新田さんは私を見たまま、少しだけ声を落とす。
「そんなこと言われたら、余裕なくなる」
余裕がない。
それは、彼の弱さ。
そして――私が触れてしまった場所。
私は胸が痛くて、でも温かくて、どうしていいか分からない。
「新田さん」
私がもう一度呼ぶと、新田さんは返事をしなかった。
代わりに、ゆっくりと目を伏せる。
何かを堪えるみたいに。
「……新見」
呼び返された苗字が、甘い。
「一つだけ、約束して」
「……何をですか」
新田さんは、少しだけ笑った。
笑ったのに、目が切ない。
「俺のこと、嫌いにならないで」
その瞬間、胸の奥がきゅっと潰れた。
――頼りない。
こんな言葉を上司が言うなんて。
最初に主導権を握って、鍵まで閉めたくせに。
なのに、最後に出てくるのがそれ?
私は、悔しくて、甘くて、たまらなくて。
「……嫌いになりません」
即答だった。
「……たぶん」
わざと付け足すと、新田さんが小さく笑った。
「たぶん、か」
「新田さんが変なこと言うからです」
「変なこと言わせてるのは、新見だろ」
またずるい。
私は目を逸らして、息を整えた。
このままじゃ、本当に何かが始まってしまう気がした。
「……鍵、開けてください」
私が言うと、新田さんは一瞬だけ止まった。
それから、ゆっくり頷く。
「……分かった」
鍵を開ける音がした。
でも、ドアは開けない。
鍵だけを開けただけ。
「新田さん」
「なに」
「……今日は、ここまでです」
私が言うと、新田さんはまた笑った。
今度は少しだけ、悔しそうに。
「……はいはい」
「“はいはい”って」
「新見が、強いから」
強い。
さっき言われた言葉が、また刺さる。
私は強くない。
ただ、崩れるのが怖いだけ。
でも――
この人の頼りなさを見た瞬間、私は確かに、少しだけ前に出た。
新田さんがドアを開ける。
外の光と音が戻ってきて、現実に引き戻される。
最後に、新田さんが小さく言った。
「新見」
「はい」
「……また、残業するな」
命令みたいで、優しい。
私は、少しだけ笑った。
「新田さんが残業しなければ、しません」
新田さんが目を見開いて、それから困ったみたいに笑った。
「それは無理」
「じゃあ、私も無理です」
言い返した瞬間。
新田さんの目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「……参ったな」
その呟きが、甘かった。
私はそのまま会議室を出て、自分の席へ戻る。
心臓がうるさい。
指先が熱い。
鍵が閉まった瞬間の緊張も、
「嫌いにならないで」という頼りない声も、
全部が胸の奥に残っていた。
最初は新田さんが主導権を握っていた。
それは間違いない。
でも――
最後の最後に、私の一言で困った顔をしたのは、
新田さんのほうだった。
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