未来屋古書店

倉木元貴

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夢を諦めた青年 第2話

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 黒革の表紙は思ったよりも冷たく、重みがあった。
 何度も人の手を渡り、時を経てきたような質感が手のひらに残る。

 そっと開こうとしたが、手が震えた。
 けれど、同時に……胸の奥に小さな灯りがともるのを感じた。

「……開きます」

 僕がそう言った瞬間、古書は自らの意思であるかのようにページをめくり始めた。

 バサッ──

 店内の空気が一瞬張り詰める。
 ランプはわずかに揺れ、影が壁に広がった。
 ページには、文字がスラスラと浮かび上がっていく。
 見たこともない文字、見たことのある文字、そして、僕が書いた文章も混ざっていた。

(これは……僕が書いた短編だ。投稿したけど……誰にも届かなかった)

 その瞬間、古書のページから淡い光が立ち上がり、空中に広がった。

──映像。

 白い光の中に、未来の光景が浮かんだ。
 部屋。
 温かい照明の下、机で本を読んでいる年配の女性。
 その手にあるのは、僕の未発表作だった。
 女性はしばらく読んでいたが、あるページで手を止めた。
 そして──静かに、涙を流した。

「……あ、あれ……?」

 僕は息を呑んだ。
 ここにはいないはずの“誰か”が、僕の物語を読み、泣いている。

 老人が小さく言う。

「これが、あなたが書いた物語を読んだ未来の誰かの姿です」

「未来……? 僕の作品を……?」

「ええ。あなたの書いた物語は、届いていますよ。まだ、現実の形にはなっていない。ですが、確かに未来で誰かを救っています」

 女性は本を抱きしめ、声を震わせながら言った。

「……この物語に……救われた……」

 その言葉は、僕がいつか誰かに言われたい言葉だった。
 だけど、それが夢物語のはずが……目の前に“影”ではなく“現実としての幻影”が広がっている。

 僕の胸が熱くなる。
 息が震える。
 目の奥が熱くなる。

「嘘だ……僕なんかの……僕の書いたものに、誰かが……涙を?」

 老人は静かに頷いた。

「夢は、形を変えても生き続けるのです」

 女性の涙は、雨音とは違う優しい響きを持っていた。

 僕は古書を抱きしめた。
 涙が頬を伝い、静かに落ちていった。

 光はさらに広がっていった。
 女性の姿がゆっくりと薄れ、別の幻影が現れる。

 今度は──若い男性。
 カフェの窓際で、僕の物語を読みながらゆっくりとコーヒーを飲んでいる。
 彼はページをめくる速度を次第に落とし、最後の一行を読み終えた瞬間、目を閉じて深く息を吐いた。

「……いい話だったな、これ」

 その呟きが、風鈴のように静かに響いた。

 画面がまた切り替わる。
 大学生らしい少女が、図書館の隅で両手をギュッと握りしめている。

「……こんなふうに思えたら、私だって……」

 言葉は最後まで聞こえなかったけれど、頬に伝う涙が全てを物語っていた。
 そしてさらに──
 老夫婦らしき二人が、週末の夜に並んで僕の物語を読んでいる。
 老婦人が静かに微笑み、夫の方に寄り添った。

「いい話ねえ……あなたみたいな人が書いたのかしら」

「きっと優しい人なんだよ」

 優しい人。
 そんなふうに言われたのは、いつぶりだろう。
 僕は眩しさに思わず目を伏せた。

 幻影を眺めながら、老人が静かに語り始める。

「あなたの物語は、まだ世に出せていない。ですが、“あなたの未来”には確かに届いています。未来の読者は、あなたの書いた物語を必要としているのです」

「……必要……?」

「ええ。誰かの傷を癒やし、誰かの孤独を照らし、誰かの歩みを支える。あなたの言葉は、本来届くべき場所へ届いていきます」

 幻影の中で、登場人物たちが涙を流し、笑い、そっと本を閉じていく。
 まるで何十人、何百人もの読者が、僕の書いた文字をなぞりながら思いを重ねているような映像だった。

 胸が熱くなった。
 喉が震えて声が出ない。

「……僕は、誰にも認められなかったんです。ずっと落選して……」

 老人が首を横に振る。

「認められなかったのではありません。ただ、“まだその時ではなかった”だけです」

 老人の言葉は、静かでも力強かった。
 僕は涙を拭うことさえ忘れ、幻影を見続けていた。

 光景がゆっくりと流れていき、古書はまた静かに閉じた。
 店内に戻ると、ランプの灯りが不思議とさっきよりも明るく感じられた。
 老人はカウンター越しに僕を見て、穏やかに微笑む。

「あなたが抱いてきた“失敗”は、無駄ではありませんよ」

「……でも、現実には……」

「現実には?」

 老人は優しく促す。

「書いても、書いても、落ちて……結果が出ないんです。僕みたいな人間が書いたものなんて……」

 老人はゆっくりと首を横に振った。

「結果とは、必ずしも“今”出るものではありません。あなたが今まで積み重ねてきたものは、必ず未来へと繋がります」

 その言葉は、さっき見た幻影よりも強く胸に響いた。
 老人は続けて語る。

「失敗は、未来を閉ざすものではありません。むしろ、未来を形作る大切な材料です」

「……材料、ですか」

「ええ。料理に失敗したら、味の調節の仕方を覚える。旅に失敗したら、次の場所への道を学ぶ。人生の失敗も同じこと。あなたが受けている痛みも挫折も、全てが未来のあなたを支える土台となる」

 その瞬間、胸の奥にあった黒い塊が、ふっと軽くなった気がした。

 僕は震える声で言う。

「……僕が書いたものが、未来で誰かを救うなんて、想像もしたことがありませんでした」

「誰かを救うのは、何も医者や教師だけではありません。物語を書く人もまた、人の心に薬を与えることができるのです」

 老人はそう言って、棚にある古書をそっと撫でた。

「あなたが書いてきた言葉たちは、決して消えませんよ。たとえ、落選通知という形で“否定”を受けても。あなたの物語は、誰かの心で生き続けます」

 その言葉は、閉じた古書の黒革よりも重く、しかし、温かった。
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