未来屋古書店

倉木元貴

文字の大きさ
3 / 3

夢を諦めた青年 最終話

しおりを挟む
 気づいたら、涙が止まらなかった。
 今までこんなに泣いたことはあっただろうか。
 僕はずっと、“強がって”生きてきた。
 落選しても落ち込まないふりをして、SNSで他の作家が賞を取っても、笑って祝って、失敗しても前を向いているふりをした。
 
 本当は苦しくて、悔しくて、泣きたかった。でも、泣いたら負けだと思っていた。
 
「……僕は……まだ書いてもいいのでしょうか」
 
 老人は迷いなく頷いた。
 
「もちろんです。あなたが望む限り、書き続けなさい。夢は形を変えても、あなたの中で生き続けます」
 
「……形を変えても」
 
 その言葉が胸に響いた。
 
 書籍化されることだけが“作家の夢”ではない。
 賞を取ることだけが“成功”ではない。
 物語が誰かに届き、誰かが救われる──
 それこそが、本来の“書く理由”なのかもしれない。
 僕の涙が止まった時、ワラが小さく「にゃあ」と鳴いた。
 まるで「よかったね」と言っているようで、思わず笑ってしまった。
 
「ありがとう、ワラ」
 
 ワラは尻尾を揺らしながらカウンターに戻っていった。
 
 気づけば、外の雨音は消えていた。
 店の窓を覗くと、通りの街灯が静かに光っている。
 老人が傘を返しながら言った。
 
「外へ出ると、少し景色が違って見えるかもしれませんよ」
 
「景色……ですか?」
 
「ええ。失敗を抱えたまま見る世界と、失敗を未来の糧として見る世界は、まるで別物ですから」
 
 僕は静かに頷き、深呼吸をした。
 店の扉に手をかけると、老人が最後に言った。
 
「あなたがこれから見る未来は、まだ白紙です。あなた自身の言葉で書きなさい」
 
 その声は、雨上がりの空気よりも澄んでいた。
 
 
 扉を開けると、路地の霧が薄く晴れ、外は雨上がりの匂いが漂っていた。
 雨粒がアスファルトで静かに蒸発し、街灯の下に淡い光が広がっている。
 
「……本当に、止んでる」
 
 さっきまであれほど激しかった雨は、跡形もなく消えていた。
 僕は吸い込むように空気を胸に入れた。
 肩の重さが軽くなり、足取りが自然と前に向く。

 振り返ってみると──
 さっきまであったはずの古書店は、霧と共に姿を消していた。
 
「……え?」
 
 木製の扉も、窓も、あの温かい光も、何も残っていない。
 ただ、雨に濡れた街角があるだけだった。
 だけど、不思議と驚きがなかった。
 
 まるで最初から“そんな店だった”と知っていたような気さえした。
 
 僕は空を見上げ、小さく笑った。
 
「……まだ書ける。いや、書きたい」
 
 胸の奥で、何かがふっと灯った。
 
 それは、ほんの小さな光だったけれど、確かに未来へとつながる温かさを持っていた。
 
 帰り道は、いつもと違う風景に見えた。
 街灯は光を柔らかく滲み、足音は雨粒を踏むたびに小さく弾む。
 
「未来の読者か……」
 
 老人が見せてくれた幻影を思い出す。
 カフェで読んでいた青年も、図書館の少女も、老夫婦も──全員、僕の物語で心を震わせていた。

 本当にそんな未来が来るのかはわからない。だけど、あの光景は“嘘ではない”と感じた。
 
 心のどこかが確かに熱くなっていた。
 マンションへ続く道を歩きながら、僕はふと考えた。
 
 ──今度はどんな物語を書こう。

 答えはまだない。でも、不思議と焦りはなかった。
 
 “また書きたい”という気持ちが、久しぶりに胸の底から湧き上がっていた。
 
 部屋に帰ると、机の上にはずっと放置していた原稿が開きっぱなしになっていた。
 文字は乱れ、ストーリーも途中で止まっている。
 
 これを書くたびに落選し、評価もされず、自分の才能のなさに打ちのめされた作品。
 けれど今見ると──違って見えた。

「……君も、まだ終わってないんだよな」
 
 独り言のように呟き、椅子に座る。
 そして、数ヶ月ぶりにキーボードに指を置いた。
 キーボードを弾く音。その小さな音だけが部屋中に響く。
 
 始まりはたった一文字。でも、その一文字が、今の僕には大きな一歩だった。
 
 ──書ける。
 ──まだ書ける。
 未来がどうなるなんてわからない。
 だけど、“書いていたい”という気持ちが確かに戻ってきていた。
 
 
 夜風が少し冷たくなってきた頃、僕はようやく手を止めた。
 画面には、短いけど新しい一筋が書かれていた。
 
 ──雨は、終わりではなく始まりになる。

 書いた瞬間、胸が熱くなった。
 
 “あの店での出来事は夢だったのか?”
 “本当にあんな店が存在したのか?”
 
 答えはどこにもない。
 だけど、僕は知っている。
 
 あの老人も、看板猫のワラも、古書の光景も──
 全てが、僕の背中を押してくれた。
 失敗は、終わりではなかった。むしろ“まだ進める”という証だった。
 
「よし……」
 
 僕はそっと原稿を保存し、椅子の背もたれに身体を預けた。
 天井を見上げると、まるで古書店の天井のランプが浮かんでいるように見えた。
 
 そして、心の中で静かにつぶやいた。
 
「もう一度、書こう」
 
 それは誰かに向けた宣言ではない。
 自分自身に向けた、ささやかな誓いだった。
 
 ♢♢♢
 
 翌日の朝、窓辺の空は淡い青色に染まりつつあった。
 眠りにつく前、最後に机を見ると、古書店から持ち帰った傘が置かれている。
 
 “雨の日にまたおいで”
 老人はそう言った。
 
 まるでその言葉が、傘の柄に刻まれているようだった。
 これからまた落ち込む日もあるだろう。
 書けなくなる日もあるだろう。
 
 それでも──
 あの店がどこかにあると思えば、きっと進める。
 僕は布団に潜り込み、そっと目を閉じた。
 
 未来はまだ見えない。
 でも、今はそれでいい。
 
 雨は止んだ。
 そして、まだ見ぬ物語が、僕の中で静かに待っている。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

【書籍化】番の身代わり婚約者を辞めることにしたら、冷酷な龍神王太子の様子がおかしくなりました

降魔 鬼灯
恋愛
 コミカライズ化決定しました。 ユリアンナは王太子ルードヴィッヒの婚約者。  幼い頃は仲良しの2人だったのに、最近では全く会話がない。  月一度の砂時計で時間を計られた義務の様なお茶会もルードヴィッヒはこちらを睨みつけるだけで、なんの会話もない。    お茶会が終わったあとに義務的に届く手紙や花束。義務的に届くドレスやアクセサリー。    しまいには「ずっと番と一緒にいたい」なんて言葉も聞いてしまって。 よし分かった、もう無理、婚約破棄しよう! 誤解から婚約破棄を申し出て自制していた番を怒らせ、執着溺愛のブーメランを食らうユリアンナの運命は? 全十話。一日2回更新 完結済  コミカライズ化に伴いタイトルを『憂鬱なお茶会〜殿下、お茶会を止めて番探しをされては?え?義務?彼女は自分が殿下の番であることを知らない。溺愛まであと半年〜』から『番の身代わり婚約者を辞めることにしたら、冷酷な龍神王太子の様子がおかしくなりました』に変更しています。

私も処刑されたことですし、どうか皆さま地獄へ落ちてくださいね。

火野村志紀
恋愛
あなた方が訪れるその時をお待ちしております。 王宮医官長のエステルは、流行り病の特効薬を第四王子に服用させた。すると王子は高熱で苦しみ出し、エステルを含めた王宮医官たちは罪人として投獄されてしまう。 そしてエステルの婚約者であり大臣の息子のブノワは、エステルを口汚く罵り婚約破棄をすると、王女ナデージュとの婚約を果たす。ブノワにとって、優秀すぎるエステルは以前から邪魔な存在だったのだ。 エステルは貴族や平民からも悪女、魔女と罵られながら処刑された。 それがこの国の終わりの始まりだった。

愛想を尽かした女と尽かされた男

火野村志紀
恋愛
※全16話となります。 「そうですか。今まであなたに尽くしていた私は側妃扱いで、急に湧いて出てきた彼女が正妃だと? どうぞ、お好きになさって。その代わり私も好きにしますので」

本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います

こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。 ※「小説家になろう」にも投稿しています

『後宮に棲むは、人か、あやかしか』

由香
キャラ文芸
後宮で消える妃たち。 それは、あやかしの仕業か――人の罪か。 怪異の声を聞く下級女官・鈴華と、 怪異を否定する監察官・凌玄。 二人が辿り着いたのは、 “怪物”を必要とした人間たちの真実だった。 奪われた名、歪められた記録、 そして灯籠に宿るあやかしの沈黙。 ――後宮に棲むのは、本当に人ならざるものなのか。 光と闇が交差する、哀切の後宮あやかし譚。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

処理中です...