群青サルベージ

湖ノ上茶屋

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 次の休み時間、美咲は女の子を連れて私の席までやってきた。
「……あ」
 まだ名前を憶えていないけれど、顔はしっかり覚えている。始業式の時に、前に居た子だ。
「ど、ども。海ちゃん」
 その子は気まずそうに片手をひょい、と上げながらそう言った。
 この街は不思議だ、と思う。名字なんて名前が一緒の時にしか役に立たないから必要ない、とみんなが思っているかのようだ。親しさなんて関係なく、みんなみんな、名前で呼ぶ。
「凜々花がね、聞きたいことがあるって」
 美咲はそう言って、凜々花さんの背中をぽん、と叩いた。
「あの、えっと……。さっきの、始業式の時のことなんだけどさ」
「う、うん」
「『あっ!』って言ったときあったじゃん? あのとき、何があったの? あたし、なんかめちゃくちゃ気になっちゃって」
「そのことばっかり考えていたから、わたしの挨拶これっぽっちも聞けなかったんだって。感想教えてくれるって約束だったのにさ」
「だから、ごめんってば。それで、それで?」
「ああ、えっと……」
 約束を破らせるだけの価値がある話じゃない。本当のことを言ったら、ふたりを傷つけたりしないだろうか。傷つける可能性が少しでもあるなら、それなら仕方ないよね、と思ってもらえるような嘘をついた方がいいだろうか、と考える。でも、そんな嘘を簡単に閃くことができるほど、私の頭は柔らかくない。
「なに?」
 どうせ、私は誰かと友だちになんてなれない。
 だから、本当のことを言って傷つけて、嫌われたって構わない。
「あ……あのおじさん、玄関のところにいた人だ、って、思って」
 美咲と凜々花さんが顔を見合わせた。それからふたりしてぷっと噴き出すように笑って、
「なるほど! たしかに、校長だって知らなかったら、ただのよく笑うおじさんにしか見えないよね」
「校長、マジでその辺のほわほわしたおじさんだもんね」
「一応ちゃんと仕事してるんだろうけどさ」
「校長感が薄いんだよねぇ」
「この学校があんまりギスギスしてないのってさ、あのおじさんのおかげだよね」
『凜々花ー! 踊るよー!』
 誰かが廊下から凜々花さんを呼んだ。
「あ、マジ? いくいくー! 美咲も行こう!」
「うん。海は? 行く?」
 誘われるとは思っていなかった。返事がすぐに出てこない。
『海さん、ちょっといい? 渡し忘れていた書類があったみたいなの』
「あ、はい!」
「先生め、なんてタイミングで……」
「呼ばれちゃったら仕方ないね。わたしたち、行くね」
「う、うん。行ってらっしゃい」
 凜々花さんは残念そうにしてくれたけれど、私は先生が呼んでくれてうれしかった。私には、どうしたらいいのか分からなかったから。
 先生から書類を受け取って、席に戻るとすぐ、隣の子に机の隅をトントンと叩かれた。名前は、なんだったっけ? 話をしたり、印象に残るような行動をした人の名前しか、まっ白な私の頭の中にまだ刻み込めていない。
「な、なに?」
「み、美咲さんは、良い人。大事にするといいよ」
「……え?」
「凜々花さんは、ちょっとドジ。だけどやっぱりいい人。いつも美咲さんと一緒にいる。得難い人」
「えっと……」
「あと、光くんは、目立ちたがり屋。あなたに興味がないってわけではないだろうけど、とても興味があるってわけでもないんじゃないかな、と、思う」
 学校で同級生から〝あなた〟と呼ばれたのは、初めてかもしれない。
「え、えっと」
「ぼくは、つばさ。ぼく、自分から人を助けに行くの、苦手なんだ。だから、何か困ったことがあったら、助けてほしいって声をかけてくれると助かる。呼ぶときは、つばさでも、つばさくんでも、つばささんでもなんでもいい。ねぇ、でもいい。サッカーはできない。本が好き。よろしく」
「ああ、うん。私は、海。私のことも、好きに呼んで。私も、ねぇ、でもいい。私も、本、っていうか、図書館が好き。図書館は、私に居場所をくれるから。よ、よろしく」
 言いながら、家に居場所がなかった自分の最後の砦が図書館だったことに気づかされた。
 そっと、つばさくんを見てみる。うつむいて、指を揉みながら、恥ずかしそうに微笑んでいる。

 転校して初めての一日が終わった。
 緊張もしたし、混乱もした。でも、決して悪い一日ではなかった。
 もしかしたら、今度こそ友だちができるかもしれない。そんな希望に、指先がかすかに届いた気がする。
「海って、帰り道どっち?」
「あ、あっち」
「まじかー。あたしたちあっちなんだ」
 口にする言葉は一緒でも、指さす方向は真反対だ。
「じゃあ、また明日ね」
「ばいばーい」
「う、うん。また」
 青いランドセルを背負って歩く。口角が太陽に向かってにゅっと伸びようとする。振り返ってみると、まるで息を合わせたかのように、遠く離れた二人も振り返った。大きく手を振っている。その様を見ながら、私は小さく手を上げて、振った。
 慣れない道にほんの少し迷いながらも家に帰る。
 玄関ドアを開けてみると、レースカーテンの向こうから射し込んだのだろう光が玄関まで届いていて、眩しくて、キラキラ輝いて見えた。靴を脱ぎながら、そんな明るい家に「ただいま」と囁く。
 美空さんは仕事に、お母さんは仕事探しに行っているから、冷蔵庫や換気扇の音しかしない。
 キッチンへ行ってみると、台の上には置手紙とちんすこうがあった。これが今日のおやつらしい。こんなに無防備に綺麗なおやつが置かれている部屋に帰る日が来るだなんて。
 もしかして、誰かから逃げる必要のない人たちにとっては、こんな生活が普通なのだろうか。
 水筒に残った水を飲みながら、ちんすこうを食べる。バターの香りがしないクッキーみたいな味と食感。けっこうおいしいけれど、こういうお菓子なら北海道のほうが上なんじゃないかと思う。
 北海道――。
 ふと、あまりに環境が違いすぎたせいだろう、別の世界の出来事として隅に追いやることができていた記憶が鮮明によみがえってきた。
 クマの元へ走る。手を伸ばして掴むなり、それを抱きつぶす。何かに操られるように窓へ走って、カーテンに手を伸ばす。太陽の光を遮断する。部屋が暗くなると、ほんの少し落ち着いた。あとは、押し入れ。押し入れに隠れられる場所を作れば、私の心は満たされる気がする。
 私が寝るのに使わせてもらっている部屋には、クローゼットはあるけれど、押し入れはなかった。
 ほかの部屋にはあるだろうか。そう考えて、あちこち見てまわりそうになって、ぐっとこらえる。ここは美空さんの家で、私はお邪魔させてもらっているだけ。勝手にあちこち見てまわるのは失礼だし、そんなことをしたら、追い出されてしまうかもしれない。
 私はどうでもいい。お母さんを追い出されたら困る。だから、余計なことはしない。
 クローゼットは代わりになるだろうか、と考えて、中に入って扉を閉めてみた。悪くない。ここなら〝いない子〟になれる。
 暗闇の中で、いつものようにぎゅっと体を縮めた。恐ろしい音はしない。揺れない鼓膜と、へとへとの体。小さな空間に飲まれて、私は違う世界へ旅にでる。

『海……? 海!』
 どこからか、お母さんの声がした。ぐしぐしと目をこする。いつの間にか寝てしまっていたみたいだ。外へ出ようと、扉に手を伸ばす。力をぐっとかけてみる。けれど、開きそうで開かない。
 外側には取っ手があるけれど、内側には何もない。暗いこともあってか、どこに力をかければいいのか、さっぱりわからない。
『海!』
「お、お母さん!」
 叫んでみたけれど、声は届かないようだった。それならばと、ドンドンドンと何度も扉を叩いてみる。
 ダッダッダと急ぎ足の音がする。それはどんどんと近づいてくる。
『海?』
「あ、開かない」
『今、開ける』
 扉が開いた。目に飛び込んできた明かりが眩しい。
「何、してたの?」
「か、隠れなきゃって、思って」
「誰か、来たの?」
「……え?」
「あの人が、来たの? ねぇ、答えて。答えてよ!」
 お母さんが私の両肩をぐっと掴んで、私を前後に揺さぶる。カッと見開いた目の真ん中で、黒がぶるぶると揺れているように見える。
「ねぇっ!」
「姉ちゃん!」
 美空さんが部屋に飛び込んできて、お母さんに後ろから抱きついた。それから後ろに力を込めて、私からお母さんを引きはがした。
 近すぎたお母さんとの間に、距離ができた。
 お母さんの表情が、はっきりと見えた。
 懐かしい顔だ。
 あの男と一緒に暮らしていた時に、よくしていた顔。


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