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しおりを挟むその日の夜は、まるでお通夜のようだった。
美空さんの声掛けがなければ、何も事が進まない。
クマがもう元には戻らないんじゃないかと思うほどにつぶれている。そう気づいているけれど、こわばった体はクマに力をかけ続ける。
お母さんは、何も言わない。怒っている様子はない。けれど、心底怖い。あの男と一緒にいたときには感じられた優しさのような何かが、今はない。昔ならあの男に向いていた、どこへもやれない刺々しい感情が今はただ私に向いている。そんな気がする。
「まったく。聞かない方がいいと思って聞かなかったあたしが悪かったんだろうけどさ。何がなんだかさっぱり分からないんだけど。何か言ってくれない? どっちでもいいからさ」
美空さんは空気をたっぷり含ませた声でそう言うと、頬杖をついた。
「それで? 学校はどうだったの? 仕事は? 見つかりそう?」
話題が変わったところで、私たちは口を噤んだままだ。しびれを切らしたらしい美空さんが、大きなため息をつく。
「もう、ストレートに聞くわ。なんで海はクローゼットに居たの? あっちに居たときの癖?」
「なんでもないよ。ごめんね。騒がしくして」
お母さんがようやく口を開いた。でも、心のシャッターは固く閉ざされている。
「それで? なんで姉ちゃんは取り乱したの? こういうの、なんて言うんだっけ? ああ、そうそう。フラッシュバック、ってやつ?」
「なんでもないよ」
「いいや、なんでもあるから」
「なんでもないって言ってるでしょ⁉」
「ったく! 姉ちゃんは昔っからそう! 自分の都合が悪いと、人の話を全然聞かない! 受け入れる気ゼロで突っぱねる! そうして自分で居心地悪くしてさ、ひとりぼっちになってさ、そうなったのを誰かのせいにしてさ、逃げていくんでしょ⁉」
お母さんの顔が歪んだ。ギリッと歯が擦れる音がした。
このままじゃいけない、と思って、私は口を開く。
「な、なんか急に、不安になったの」
「不安?」
「ちんすこう食べたら、不安になったの」
「ちんすこう? なんで?」
「北海道、思い出して」
「……どういうこと? ちんすこうって沖縄のお菓子だと思い込んでいたけど、北海道にもあるの?」
あったのだろうか。私にはさっぱり分からない。
お母さんは、何も言わない。まるで故障したロボットみたいに、うつむいたまま動かない。
「なんで思い出したの?」
「そ、その……。北海道で食べたクッキーのほうが、バターの味がして美味しかったな、って、思って。そうしたら、頭の中に北海道が広がってきて」
突然、お母さんが立ち上がった。どうしたんだろう、と思って、お母さんの行動をじっと見る。キッチンへ行くと、家の中に残っていたちんすこうを全部、ゴミ箱に入れた。
「ちょっと! もったいないじゃん!」
「これがあるからいけないんでしょ? そうなんでしょ?」
「ちんすこうに八つ当たりしなくてもいいじゃん! っていうか、沖縄に住むってなったら、ちんすこう避けて生きられないでしょ。給食でも出るんだよ? ちんすこう!」
「じゃあ、その日は休めばいい」
「ああ、もう! なんなの? そんなにどうにもできない傷を負ってるんだったらさ、さっさと病院行けよ! ふたりでさ!」
美空さんが叫んだ。直後、ハッとした顔をしたかと思えば、どんどんと気まずさをにじませる。
「ごめん。言い過ぎた」
少し言い方がきつかったと思う。けれど、何も間違ったことは言われていない気がする。私たちはまだ、普通の人になれてはいないし、自分たちの力だけでそうなれるほど、少し前のことを手放せてはいないから。
寝ても起きても、カーテンを開けても窓を開けても、家の中の空気が変わることはなかった。
お母さんは何も食べずに、何も言わずに、美空さんの「仕事探し?」という短い問いに頷くだけで家を出た。美空さんは音が鳴りそうなくらいに頭をガリガリと掻くと、私にゼブラパンを差し出して、「朝ご飯」と短く言った。小さく頷いて、それを受け取る。私がもぐもぐ食べている間に、美空さんは「先に行くから」と言って、仕事に行った。
ぽつん、とひとりになった。
今日は、太陽が輝いていなくてよかったと、レースカーテンの向こうを見ながら思う。曇り空と、息が詰まるほどのじめじめとした感じ。私の心にそっくりな天気。ひとりぼっちでも、太陽がなければ少しは落ち着いていられる気がする。
帰ってきたとき、お天気だったらどうしよう。
ふとそう思って、家を出る前にすべてのカーテンを閉めた。夜みたいに暗くなった家に、歪んだクマに「行ってきます」と囁く。
玄関ドアを開けると、雲も開いた。雲が蹴散らされて、待ってましたと言わんばかりに、太陽の光が水たまりに射し込んで散光した。
その瞬間を逃さずに見た私の心は、背中の青い翼をハリボテにした。浅い水たまりの底を超えて、足掻く気力もないままに、どんどんと落ちていく。
「おはよう! 海」
教室に入ると、美咲が飛んできて、ニッコリ笑顔で言った。
「お、おはよう」
「ん? 元気ない? 大丈夫?」
「だ、大丈夫」
「それならよかった。ねぇねぇ、ちょっと急なんだけど、週末一緒に遊ばない?」
「……え?」
「凜々花と一緒に買い物に行こうって約束してるの。もしよかったら一緒にどうかな? って、思ったんだけど」
何の穢れもない顔だ。美咲はなにかにそうさせられたわけではなく、純粋に私を誘ってくれている。そんな気がする。
「あれ? 用事あった? 引越ししたばっかりだから、片付けとか?」
言われて、普通の引っ越しには荷物の片付けがあるのか、と思う。私が持ってきた荷物なんて、リュックサックひとつ分。片付けるものなんてなかった。足りないものは全部、譲ってもらったり、買ったりした。
「いや、えっと……」
誰かと最後に遊んだのは、いつだったっけ?
ただ公園で滑り台を滑ったり、ブランコに乗ったりするような遊びの記憶は、隅のほうに散り散りになって残っている。でも、買い物なんて行ったことがない。それは、どんなことをするんだろう。一体いくらいるんだろう。私にはお金がないから、そういう遊びは――
「ダメ?」
行ってみたい、とは思う。新しいことをしたら、古いことを粉々にできそうだから。もしも楽しい記憶を手にいれられたら、油汚れみたいにこびりついた嫌なことも、未来までつながり続けていることではなくて、過去のことだと思えそうだから。そうしたら、普通の人になれるかもしれないと思うから。
「そんなにお金、ない」
「ああ……」
「おっすー! 美咲ぃ、今日鉛筆削ってくるの忘れたー! 鉛筆削りか鉛筆貸してー! って、どうした?」
気まずくなったところに、一秒前までのことを知らない凜々花さんがやってきた。
「どうした? 朝からどんより」
「ああ、買い物一緒に行かない? って話をしてたの。ねぇ、凜々花。買い物やめてさ、みんなで公園でも行かない?」
「ん? 別にいいけど、なんで?」
「いや、引っ越してきてさ、街のことよく知らないだろうから。街案内を兼ねてそっちの方がいいかな、なんて思って」
「ふーん。あたしは別にいいよ!」
「海は? どう?」
「……う、うん。ふたりが、いいなら」
「よーし、決まり! 時間とかはいつも通りまた後で……って、海は希望ある?」
「き、希望?」
「朝はダメ~とか、午後だったら何時から~とか」
「ど、どうだろう」
「じゃあさ、今日帰ったら、聞いてみてよ」
「わ、わかった」
私たちの話がまとまるのを待っていたかのように、チャイムが鳴った。
「ヤバ! 先生が来る前に座らなきゃ!」
ふたりは満足そうに微笑みながら、自分の席へと歩いていく。
「よかったね」
つばさくんが、ふたりを目で追う私のことをちらりとも見ずに言った。
「ああ、うん」
「気をつけてね」
「……?」
「あのふたりはいい人だけど、この街の人みんながいい人ってわけじゃないから。やんちゃな遊びをする人もいるんだ」
「そ、そうなんだ」
「あのふたりと一緒に居れば、大丈夫だと思う。はぐれないようにね」
「う、うん。わかった」
「余計なこと、言った?」
「え?」
「余計なお世話だった?」
「ううん。そんなことないよ」
「それなら、良かった」
言いながら、つばさくんは指を揉んだ。指を揉むのは、彼が勇気を振り絞ったときの癖なのかもしれない。
「教えてくれてありがとう」
「うん」
私も、つばさくんみたいに、苦手なことにも挑戦してみる勇気を持たなくちゃ。
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