たましぃかえる

湖ノ上茶屋

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 心の中の幻の指を折り、数えるほどに悪い夢を見た。

 幾度も玄関のドアが開閉していることは知っていた。私はそのどれもに彼女が関与していないことを理解していたから、音がしたところで気にも留めていなかった。

 けれど、ある日、音が変わった。私は緊張を覚えた。ドアが部屋の中へと押し込めた空気たちが、部屋の中を好き勝手に舞い踊り始めた。私の元にも、ついさっき入ってきたばかりの空気がやってきた。それはふわりと懐かしい、甘い、彼女の匂いがした。

 来る。私の安定剤が、近づいてくる。私を過去から切り離してくれる、私への興味をほとんど失っている、今を生きるものに夢中な彼女が戻ってきた!

「ただいま。見て。妹だよ。名前は、遥。これから一緒に暮らすよ。だから、よろしくね」

 彼女はふにゃふにゃと柔らかそうな遥に私を見せようとしたのか、私に遥を見せようとしたのか、私をひょいと持ち上げると、私を遥に近づけた。

 遥はもともとくしゃくしゃの顔を、さらにくしゃくしゃにして、けたたましく泣いた。

 彼女は、「ミルクかなぁ、おむつかなぁ。あなたは二人目だけど、育てるのは初めてだから、いろんなことがわからないよぅ」と嘆きながら、私を乱雑に戻した。

 体の向きが、いつもと違う。
 視界が変わった。
 ベビーベッドが見える。
 カラフルなおもちゃがくるくると回っている。
 おむつの袋が積まれている。
 私の目には、彼女が初めての子育てに奮闘する様がよく見えた。
 なかなかうまくは飲めないミルク。
 替えてやった直後におしっこをして、再び替えることとなるおむつ。
 ゴミ箱に入れる気力もなかったのか、その辺にぽんぽんと置き去りにされている使用済みの丸められたおむつ。
 汚れて着替えさせたはいいものの、力尽きて洗濯機に入れることができなかった産着。
 けたたましく泣く遥。
 遥をあやす彼女が、ゆらゆら揺れる。

 窓の外がどんどんと暗くなっていく。今日はなかなかカーテンを閉めない。夜だよぅ、夜だよぅと念を送る。彼女がやっと、カーテンが開いていることに気づいた。よっこいしょと気だるげに体を動かして、よろよろと力なくそれを閉める。

 彼女は今、生きて、生かすことに必死すぎて、ほかの〝たいしたことではないこと〟への注意力を失っていたらしい。寝る頃になって、ようやく私の向きがおかしいことに気づいた彼女は、私の体をひょいと持ち上げ、いつもの向きに戻した。

「気づかなかった。ごめんね」

 そう言う彼女の顔は、『今すぐに寝て』と言いたくなるほど、疲れ果てて、やつれていた。

 私はとても、悲しい気持ちになった。
 ボロボロになってまで、私のことを気遣ってくれた喜びなんて、鼻先をかすめてどこかへ消えた。
 ボロボロになってまで、私の向きを気にしてくれなくていい。だいたい、いつも通りでは、彼女のことも、遥のことも、よく見えない。だから、あのままでよかった。ずっと、いつもと違う向きの、あのままがよかった。

 けれど、これでいいのだ。これこそが、いつも通りの姿なのだから。きっと、この状態こそが、彼女が心地いい状態なのだから。

 この後は、「おやすみ」と言われて、朝が来たら「おはよう」と言われる。これからはそこに、遥の声と、遥をかまう声が加わる。
 ただ、それだけのことなのだ。

 しかし、物事はそう簡単ではなかった。

 彼女は私の向きを変えただけで、「おやすみ」とは言ってくれなかったのだ。

 彼女が「おやすみ」と言わなかった理由に気づいたのは、それから二時間ほど経った頃のことだった。

 もう外は真っ暗だろう夜中に、遥がけたたましく泣きだしたのだ。

 ぼんやりとした、あたたかい色の明かりがともる。ミルクかなぁ、おむつかなぁと、彼女は困惑しながら奮闘する。

 そうして、考えうる原因を取り除いた後は、遥のことを抱き、ゆぅら、ゆぅらと揺らしているようだった。


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