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いつもよりは、のんびりとした土曜を過ごした翌日曜日。
浜松に向かう一臣を見送り、自分も出かける支度。友成が気晴らしに付き合ってくれるのだ。
本当は、充に会いたかったけれども。一臣が、お墓参りに連れて行ってくれるというので、それで納得することにした。
誰かに、認められたかっただけかもしれない。
「誰よりも今、自分が一番、一臣のもの」だと。
たぶん、茜は認めたから鍵を返してきた。充は、認めたから一臣に会いたがっている。おそらくは、祝福のためだと思いたい。それを確認したくて、充に会いたかったのだ。時間を追うごとに、ゆっくりと整理されていく気持ち。一臣が一緒にいてくれるから・・・。
もっと、自信が持てたらいいのに。
昨夜も、一臣の部屋で夜を過ごした。セックスはしなかったが、大事に、守られるように抱かれて眠った。
どうしてそこまでされて、愛されている自信が持てないのか。それは、未だに自分が自分を好きになれないからだ。
母に、愛されなかった自分。愛されたかった自分。そのために、女の子に生まれたかった自分。どうしたってもう叶わない事だけれど・・・。
一年かけてもまだ・・・消えない想い。
一臣は、自分を愛せるようになるまで甘えさせてくれると言ったが、期限はないのだろうか・・・?
現地集合で待ち合わせて、友成と美術館に来ていた。海外の作家の特別展があるのだ。現代アートは得意じゃないが、学校に割引券が置いてあったとかで、とりあえずここから見て回ることにした。絵画から、彫刻に至るまで、いろいろ展示されていた。
「ね?友成・・・これ、意味わかる?」
思わず、隣の友成に小声で聞いてしまう。友成は、首を左右に振った。それでも、割引券効果なのか、夏休み効果なのか、美術館はそこそこの賑わいだ。よくわからない彫刻の前にたたずんで、何とか理解しようと眺めているのだが、どうやら無駄な努力のようだった。ほかの客も、一個展示の前から去る足が速い。流れるように歩いてゆく。足を止めてじっくり見ているのは、自分たちだけのようだった。
「どうする?一回りして他行く?」
友成が眉間にしわを寄せて尋ねてくる。
「そうだね。なんか合わないかも。・・・学校でこういうの求められたら、絶対仕上げられないよね。」
「一応名のある芸術家なんだろうけど・・・相性ってあるよね。」
相性。諏訪とは、相性がいいように思う。不意に思い出して、明日からのバイトのことを思った。
「そういえばさ、すばる諏訪先生と何してるの?」
聞かれて、友成に話してないことを思い出した。
「あのね・・・。」
こそ、と耳打ちする。
「上半身だけ、ヌードモデル・・・のバイト。」
「バイト?お金もらえるの?」
友成が食いついたのは、ヌードのところではなく、お金の話だった。それにほっとしつつ、金額はまだ聞いてないんだけどね、と答えた。
「えー脱ぐんだったら、オレなら先に金額決めるけどなぁ。」
「だって、僕の裸にいくらの価値があるかなんて、自分じゃわからないもの。」
すばるは綺麗っぽい。と友成がまじめな顔をして言った。
「変な傷とかなさそうだし、肌も綺麗そうだし。そうだ、デッサンの宿題、自由課題で描かせてよ?人物でもいいよね?」
それはそうだろうが。
「嫌だよ。作業部屋、他にも誰か来るかもしれないし。」
「なんで?あ、ヌードじゃなくていいよ?」
「それに、友成が描いてる間、僕の宿題進まないじゃん。」
そう言うと、ともなりは、あぁそれもそうかと納得した。
「諏訪先生いいなぁ。」
「仕上がったら複製くれるって。」
「すばるいいなぁ。」
そんなことを話しながら、ほぼ展示は見ずに、美術館を後にした。それでも、なかなかの広さがあった美術館を出るころには、日も高くなっていて、お昼にしようかということになった。
「どうする?浜松行った気分で、ウナギにしちゃう?」
「でも、お店はいると高いよね?」
「新幹線に乗ったと思えば、安いんじゃない?」
「んーでも、お土産とかも買いたいし。どこかでお弁当買お?」
なんとなく、お弁当にウナギを買う方向で話がまとまり、駅の方に向かう。静岡県のアンテナショップがあるのを調べてきていた。
「ウナギのお弁当。は、ともかく、ここでお土産買ったら、絶対一臣さんと被る予感がする。」
一臣は、本当の浜松だ。うなぎパイあたりを買ってくるに違いない。お土産は別の場所で買うことにした。
「どこで食べようか?」
「次の美術館、テラスに飲食スペースあるって。」
友成のリサーチ力に驚きつつ、じゃぁそこで、と歩き出した。
「友成、そういう力は、彼女で来たとき使える能力だよね。」
ぴく、と友成が反応した。
「え?オレ、イケてる?こんな彼氏だったら、すばる付き合っちゃう?」
「いや、僕は友達で十分だけど。なんで彼女いないのかなって。」
不思議に思ってさーと首をかしげて見せた。
「あー・・・気になってる子は・・・いるんだよね。」
「えっ?ほんと?」
うーんと友成が唸っている。
「・・・まさか男じゃないよね?女の子だよね?」
自分のことは棚に上げて、思わず聞いてしまう。すると、友成は苦笑した。
「女の子だよ、女の子。」
綺麗な日本画を描く子がいてさ、と友成が言った。
「うーんと?本人じゃなくて、絵が好きなの?」
そういえば、諏訪も自分の絵が好きだと、共感できると言っていた。そういう好き、なんだろうか。
「最初は、絵が好きだったけど、今は本人も気になってて。
でも、日本画のクラス、うちらより忙しいじゃん?付き合ったりする余裕なさそうかなって。」
絵を描く時間なくなったら、元も子もないし、とため息する。
「とりあえず学祭終わったら少し余裕出来るから、行ってみようかなーとは思ってる。」
「そっかー。」
応援してるね、と笑って見せる。すると、友成はまたため息した。
「正直、すばるの方が可愛いかも、顔は。」
と。
「オレほんとにデートのつもりでプラン組んじゃった。」
日本画の女の子より可愛い?いったいどんな子にアタックするつもりなのか。友成だって見目は悪くない方なのに。
本人同士がよければそれでかまわないが、釣り合うのかな?
とりあえず、ここはお礼を言っておくところだろうか。
「ありがとう。友成。」
そうこうしているうちに、次の美術館についた。まっすぐテラスに向かい、まずは腹ごしらえだ。テラスにはパラソルとテーブルと椅子が五組ほど設置してあったが、暑いせいか他に利用者はいなかった。建物の影を選んで、座る。
買ったお弁当を開けると、意外とちゃんとしたうな重だった。
「美味しそう。」
「東京で買えちゃうなら、新幹線代もったいないよね。」
たしかに、と食べ始める。甘辛いたれが、ご飯にしみていておいしい。強いて言うなら、もう少し温かかったら言うことなしだ。男二人、がつがつと無言で食べ進める。と、先に食べ終わった友成が立ち上がった。
「自販機探してくるけど、お茶でいい?」
「あ、うん。」
友成にまで甘やかされてしまう。
「友成、もうちょっとまって。一緒に行くよ?」
あともう少しで食べ終わる弁当を指して待ったをかけてみる。ところが友成は、今日はオレが佐伯さんの代わりなの、と、ドアを開けて館内に消えてしまった。しばらくの間をおいて、お茶を二本抱えた友成が戻ってくる。
「ありがとう。お金あとで返すね。」
「うん。中の方が涼しいよ。食べ終わったなら中のベンチで飲もう?ゴミ捨て場あったし。」
「うん。・・・友成ほんとにエスコート上手。気が利くよね。」
「照れるから!」
友成は、ひぃーと奇声を発して、手で耳を塞いで見せた。
友成とのデートは二件目の美術館の後、水族館を回って終了した。五時台の電車に乗って、帰路につく。大きな声では言えないが、美術館より、水族館の方が楽しかった。イルカのショーを前の方の席で見たので、二人ともびしょぬれになってしまったが。夏だからすぐ乾くし、と笑って済ませた。
一臣には、イルカの形のキーホルダーを買った。
「さて・・・夕ご飯かぁ。」
ずいぶん歩いたし、日に焼けたし、いい加減に疲れていて、けれど疲れて帰ってくる一臣に、手抜きのご飯は出したくない。幸いまだ外は明るいし、いつものスーパーに寄れそうだった。黄色の自転車に乗って、スーパーを目指す。駐輪場に停めたところで、見知った人影に気付いた。榊だ。相手もこちらに気付いたようで。
「よぉ。これから買い物か?」
「はい。先生はいつものですか?」
買い物袋には、たぶん数本のビール。ここでしか売っていない銘柄があるのだとか。
「おう。一臣は?」
「今日学会で・・・浜松まで行ってます。夜には帰ると思いますけど。」
そういえば、榊は一臣と充と同じ大学の卒業生だったはず。
「相澤さんも来るらしくて、でも、まだ会いたい気持ちじゃないって言ってました。」
「あーあいつか・・・。でも、相澤結婚したんだろ?子供いるだろ。会いたいって向こうから言ってきたのか?」
こく、と頷いて見せる。
「そりゃ、気が気じゃねーだろうが。まぁ、そんなに心配することないだろうよ。相澤とは、もう切れてるんだしさ。」
昔懐かしいだけだろうよ。と、鼻を鳴らす。
「一臣も、なんでもあけすけに喋らなくたっていいのになぁ。
可哀そうに。」
よしよしと肩を叩かれる。
「・・・いいんです。僕は、秘密にされる方が嫌だから。」
「でも、元気ないぞ?」
「今日は友達と遊んでて、ちょっと疲れてるだけですよ。」
そういえば、友成と遊んでいて、頭痛、でなかったなと思い出す。嫌な思いやストレスを感じなかった証拠だ。あたらめて、友成はすごいやつだと感心した。
「ふーん?疲れてるんなら、たまには飯の支度手を抜いてもいいんだぞ?」
「そう・・・ですかね。」
そうだそうだと、榊が大きくうなずく。
「天ぷらでも買って、そうめんとかでいいじゃないか。」
「あぁ。それいいですね。」
お昼のうな重が割と重めだったために、さっぱりとしたものが食べたかった。
「じゃぁそうします。」
「おう。今なら、揚げたてが並び始めたところだろ。早めに買っといたほうがいい。」
榊は、スーパーの総菜が並び始める時間まで把握しているようだった。それがなんともおかしくて、つい笑ってしまう。
「なんだよ?」
「先生、よっぽどここのスーパー好きなんだなって。」
「違うな。おれは、ただ、うまいものが食べたいだけなの。」
胸を張る榊が面白くて、ついには噴き出してしまった。
メニューも決まったし、切らしたミカンのアイスバーも買って、早く帰ろう。日焼けのケアをしないと。一臣も白い方が好きだと言っていたが、自分は今ヌードモデルのバイトをしているのだ。くっきり焼けた跡を残すわけにはいかない。帰って冷たいシャワーで冷やさないと。
買うものが決まっている買い物は、早々に済んだ。
浜松から帰ってきた一臣のお土産は、やはりうなぎパイだった。それ、どこでも買える、とはさすがに言えずに、ありがたく受け取った。
「一臣さん、充さんには会えたの?」
「あぁ、斜め前の席だったから、挨拶はしたよ。あんまり変わってなかったなぁ。黒いスーツ着てた。中もグレーのワイシャツで。」
昔から、濃い色の服を好んで来てたよ、と少し遠い目をした。
「それだけ?」
「それだけだよ?内容濃かったし、休憩時間は短いし、お昼も食べられなかったから、帰りの新幹線でお弁当食べちゃった。」
「ウナギ?」
「そうそう。」
どうやら一臣も、ウナギの弁当を食べた様だった。
「すばるこそ、友成君とはどうだった?」
「あのね、すごいの。頭、痛くならなかったんだよ!」
「うそ!ほんとう?すごいね。俺といてもなるときはなるのに。」
それは、だって、一臣には気を使ってるから、とは言えなかった。それに、圧倒的に一臣といる時間は長いから、どうしたって頻度は上がってしまう。
「友成エスコートじょうずなの。あのね、気になってる女の子がいるんだって。」
「へー・・・。すばる、そういう話は大丈夫なんだ?」
そう言われてみると。
「・・・僕が苦手なのは、たぶん・・・お母さんくらいの年齢の人なんじゃないかなぁ・・・。」
そう言うと、一臣は、なるほどね、と頷いた。
「夕ご飯何?」
「あ、榊先生のお勧めで、天ぷらとそうめんになりました。」
「なんで榊先生?」
スーパーで会って、とかいつまんで話す。話しながら、支度のためにキッチンに足を向けていた。天ぷらは、トースターに入れて、温めつつ油を落とす。そうめんは、一度湯を沸かしておいたので、あっという間に出来上がった。水でさらして、ぬめりを取り、一口大に丸めていく。めんつゆは出来合いのものだが、二人とも好きな銘柄のものが常備されていた。
「あ、そうだすばる。」
思い出したように、一臣が声を上げた。
「ん?なに?あ、大葉いる?」
「うん。・・・歯医者さん予約取れたから。火曜日大丈夫だよね?午後五時。」
あぁ。そういえば。そんな話もしてたな、と思い起こす。
「ん。大丈夫。今週?」
「うんそう。ごめんね急に。言い忘れてた。」
どうやら一臣が歯医者を予約したのは、少し前だったようである。友成との宿題を早めに切り上げれば問題ないように思えた。
「歯医者さん、ほんとに予約したんだ?」
「したよ。俺もたまに行ってるの知ってるでしょう?」
一臣は、クリーニングに時々歯医者に行っていた。
「あそこの衛生士さん上手だから痛くされないと思うよ。」
先生にあたるとちょっとあれだけど、と苦笑する。
「あれってなに?」
「ちょっとだけ雑。」
ちょっと?久しぶりの歯医者で、雑にされたらかなわない。
「問診に、紹介者の名前書くところあるから、俺の名前書いといて。」
次に行ったとき、歯ブラシもらえるの、と一臣はまた苦笑した。別に、歯ブラシにつられたわけじゃないからね、と。
「そんなことより、充さんとは本当に何も話せなかったの?」
「うん。・・・でも、なんとなく前にあった時よりは幸せそうっていうか・・・余裕?みたいなのを感じたな。」
「そもそも、何の学会だったの?」
充は確か、精神科に行ったはずだった。一臣とは畑違いもいいところで。
「心療内科。・・・うちの会社、ストレスで胃とか腸とかやられるのはまぁよく見るけど、頭痛の患者も割と多くて。すばるの役に立てばいいかなーっていう下心ありの参加でした。」
一臣の学会や研修、旅費の半額は、会社から支給されている。医務室と関係ない内容では、申請も通らないはずだった。
「すばる、精神科だと思った?まぁ、精神科でも通ったと思うよ。最近は、鬱とか不眠の相談に来る社員も増えてきてるからね。」
一臣はそう言いながら、薬味の大葉をめんつゆに落とした。
そうめんを啜り始める。天ぷらは、サツマイモと、カボチャ、海老とイカとちくわの磯部揚げを用意してあった。
一臣さん、本当に仕事で行ったんだ。そこにたまたま充さんがいただけで・・・。
友成のおかげで、一日悶々と過ごすことはなかったが、それでもやっぱり心配はしていた。そんな自分が情けなくなった。
「一臣さん、ありがとう。」
「ん?」
一臣がそうめんから顔を上げる。
「俺はね、ちょっと前から、俺と暮らしてくことも、君のストレスになってるんじゃないかなって、少し思ってて。頭痛なくならないからね。だから、少しでも軽減させてあげたくて。でも多分、そのためにはもっと君には自由時間が必要で。
だから、この間のお弁当の話も、本当はそれで・・・。気を使わせたくなくて。
・・・友成君に、嫉妬してる。」
一臣は、はっきりと、嫉妬しているのだと告げてきた。
「友成に?」
「あと、先生にも。君、モデルしてる時も頭痛の話しないよね。だから・・・きっと、先生相手でも頭痛は起きていないんだと思って。」
そう言われてみると、起きてもよさそうなシチュエーションで、頭痛は起きていない。
「たまたまじゃない?天気も良かったし。」
でも、と一臣は食い下がった。
「してやれることはしてやりたい。充さんの件は、本当に偶然だったんだ。心配させてごめん。でも、言わないで行くこともできなかった。」
誠実でいたかったから、と。
「うん。大丈夫。充さんの件はもう、あんまり気にしてない。」
「・・・あんまり、ね。」
言葉尻を拾って、一臣が項垂れる。
「あ、うん。あんまり・・・。でも、時間がたてばもやもやしなくなると思う。大丈夫。・・・一臣さんのこと、ちゃんと信用してるよ?」
慌てて言いつくろうと、一臣は少し顔を上げた。
「本当に?・・・君、気を使ってるでしょう。ここを出たら、実家に帰らなきゃならないものね。天秤にかけたら、俺といる方選ぶでしょ?」
そんな。それは、考えたこともなかった。
「天秤になんてかけたことない!僕は一臣さんといたいから、家事だってなんだって頑張れるのに。」
「すばる・・・。ごめん。」
こんな風に、言い合いみたいになるのは初めてだった。いつでも穏やかで、ゆっくり話を聞いてくれて、共感して肯定してくれて、なのに・・・。
「実家に帰りたくないからだなんて・・・一度も思ったことないよ・・・。」
「ごめん。すばる・・・。」
一臣は、そんな風に思っていたのか、もしかして、セックスも?一臣に抱かれるのが、実家に帰れないためだと思われていたら?
「・・・一臣さんが好きだから、好きじゃなかったら抱かれたりだってしないのに・・・。」
悲しくなって、涙が一筋頬を伝った。
一臣が席を立って、指先で涙を拭う。
「ごめん。ごめんね。泣かすつもりじゃなかった。思ったより、動揺してた。俺の方が、駄目だった。」
「駄目だったって何?」
これ、別れ話なの?駄目になるの?
充さんの顔見て、恋しくなっちゃったの?
「すばるのことを思って、いろいろ・・・。」
いろいろなに?
「我慢しすぎた?」
尋ねたが、一臣は否定も肯定もしなかった。
「とりあえず、食べよう?せっかく用意してくれたんだし。」
一臣は席に戻ったが、とても食事を再開する気にはなれなかった。
お土産のキーホルダーを渡していないことに気が付いたのは、自室のベッドに入ってからだった。
月曜日。一夜明けても、一臣はどこかよそよそしかった。
渡しそびれたお土産はポケットに入っているが、そんな話をできる雰囲気じゃなかった。一臣は、朝食を済ませると、覇気なくいってきますと言い置いて、出かけて行った。
落ち込んでいる場合ではない。家事をして、一本早い電車に乗らなくてはいけないからだ。洗い物と洗濯物を済ませ、自分の分のお結びを作って、リュックに詰める。今日は、梅雨が明けてから初めての雨予報で、空はどんよりと暗かった。
南の方で台風が発生したらしい。気圧が下がっているのが、耳で分かった。それでも、諏訪との約束があるから、自転車に乗り、改札を抜ける。電車に乗り込むと、諏訪は笑顔で迎えてくれた。
「おはよう。早乙女君。・・・あれ?浮かない顔してるね。」
彼とケンカ?と聡い諏訪は見抜いてくる。
「ケンカというか・・・すこし言い合いみたいになっちゃって・・・気まずくて。」
挨拶もそこそこに、俯いてしまう。
「そう。よかったら話聞くけど・・・。」
複雑な話だ。それに、諏訪に聞かせられるような話でもない。
「自分で解決しないといけなくて。たぶんその・・・一臣さんも。」
諏訪の前で、一臣の名前を出すのは初めてだった。でもほかに呼びようがなかった。
「そう。一緒にいたら、たまにはそういうこともあるかもね。」
諏訪はそう言って、車窓から外を眺めた。
「モデル、できそう?できれば、もっと明るい顔の君が描きたいんだけど。無理そうなら今日は無しでもいいよ?」
「それは・・・でも、先生夏休みなのにせっかく学校に来てるんだし、奥さんだってお弁当作ってくれたんでしょう?無駄にはできません。」
そう告げると、君はまじめだね、と笑われた。
「じゃぁ、リラックスできるまで、コーヒーでも飲んで少しおしゃべりでもして、それから始めようか。」
こく、と頷いて乗り換えの駅につくのを待った。
諏訪の部屋は、曇りの朝だというのに少し蒸し暑かった。すぐに、暗幕を閉めて、エアコンを入れてくれる。諏訪はコーヒーを入れながら、もしかして私のせいもある?と聞いてきた。
「え?」
「ヌードモデルなんか頼んで、ケンカの原因。」
「あ・・・。」
違うとも、そうだとも言えなかった。一臣は、友成にすら嫉妬していたのだ。でも、モデルのバイトはやめたくなかった。
今の自分を、一番客観的に見てくれるのは、諏訪のような気がして。
「そうなの?」
諏訪が心配そうに聞いてくる。
「よくわからないんです。急に、俺が駄目だって言いだして・・・。何が駄目なのか、本質を言ってくれなくて。」
このまま、駄目になったらどうしよう。不安がぐるぐるし始める。
「そうなんだ。お互いに距離を取ると言っても・・・同棲だっけ?それだと難しいよね。」
同棲?間借りじゃなくて?
不思議に思ったのは、顔に出た様だった。
「あれ?違うの?同じ家に住んでるんでしょ?」
諏訪の方が不思議そうな顔をしている。もしかして、この感覚の差が、一臣の駄目だにつながるのだろうか。やがてそれは確信に変わる。
「先生そうかも。僕たちがしてたのは同棲で、間借りじゃなかった・・・。」
なのに、一臣は、いつか自分が出て行く日のことを考えていたのだ。だから、天秤なんて言い方をして。
「何か、ヒント得られた?」
はい、とコーヒーカップを手渡される。
「はい。何か、わかったかも。」
ちゃんと伝えなきゃ。ちゃんと気持ちを伝えてなかった。どうしたらいいかわかったら、気持ちが前を向いた。
「あれ?すっきりした顔してるね。モデル、やれそう?」
「それは、はい。大丈夫です。」
応えて、コーヒーに口をつける。ブラックのコーヒーは、頭の中をクリアにした。
「じゃぁ、始めようか。」
いつものように諏訪が席を外す。その隙に着替えを済ませ、椅子に座る。戻ってきた諏訪が、シーツのしわを直し、イーゼルの前に座る。
「デッサンは今日までかな。明日から下書きに入ろうかと思う。」
約束の一週間は、木曜までだ。あと三日。今まで諏訪がとったデッサンを見たい気もしたが、完成を待つことにした。
「今日はちょっと斜めに。少し俯いて。遠くの床を見る感じで。」
注文に応じながら、一臣を思う。
リセットしよう。応えてくれるかどうか分からないけれど。
あの場所で。
友成との宿題が終わり、日曜日の礼を言って別れると、帰りの電車の中。一臣にメールを送った。
『噴水の前で待っています。』
一臣と初めて会った場所。一周年にはまだ少し早いが、タイミングは今しかないように思えた。一臣はまだ仕事中だ。返事がいつ来るかもわからない。見落とされるかもしれない。
それでも、自分からアクションを起こさなくてはいけない気がしていた。
午後五時半。一臣の定時にはまだ小一時間ある。それから、ここに向かったとして、何事もなかったとしても着くのは七時くらいだ。それでも。
駅のロータリーの中央にある、噴水の前に一つ置かれたベンチに座る。ここは、男同士のナンパスポット。いつ誰に話しかけられるかわからない。でも、雨の降りだしそうな月曜の夕方。過行く人は皆早足だ。こちらには見向きもしない。そうこうしているうちに、ぽつぽつと雨が降り出してきた。ロータリーの外側にある喫茶店に避難しようかとも考えたが、なんとなく、ここで待っていたかった。しばらく待っていると、メールの着信があった。『今どこ?雨をしのげる場所にいる?』一臣だ。迷ったが、『噴水の前にいます。』と返した。
もう、全身しっとりと濡れていて、このまま店に入るのははばかられた。雨のせいか、頭痛もし始めていた。薬を飲まなければ、動けなくなるのは時間の問題だった。水だけ買おう。喫茶店の隣のコンビニに足を向ける。水だけ買って、薬を飲んで・・・。そう思い、リュックの中を漁る。すると、いつも持ち歩いている薬を、補充し忘れていたことに気付いた。
そうだ。この前眼鏡屋の帰りに飲んでそれきりだった・・・。
後悔しても役には立たない。諦めて、ベンチに戻った。するとまた、メールが届いた。『今から向かうから。』
え?だってまだ仕事の時間。来られるはずがないのに。ところが一臣の車は、六時を少し過ぎたころ、ロータリーに現れた。少ない駐車スペースに車を置いて、こちらに走ってくる。
「すばる!何してるんだ!」
怒ってる。こんな剣幕で怒られたのは初めてだった。
「ごめんなさい!一臣さん仕事は?」
「そんなのどうだっていいよ。びしょぬれじゃないか。車にタオル積んである。早く乗って。」
一臣は、左腕を掴んで強く引いた。
「あ、待って!・・・まって。言いたいことがあるの。」
「・・・?」
一臣の動きが止まる。その目をまっすぐに見て告げた。
「一臣さん。好きです。これからも僕と一緒に暮らしてください。」
一臣の目が、一瞬大きく開いた。
「それを言うために待っていたの?」
頷くと、ぎゅうっと抱きしめられた。
「ごめん。ごめんねすばる。ありがとう。・・・愛してるよ。
君がその気なら、ずっと一緒にいよう。」
伝わった・・・?
ほかの誰でもなく、間借りなどではなく、一臣と暮らしたいのだと。
よかった。
気が抜けると、頭痛と吐き気で立っていられなくなった。慌てて一臣が支えてくれる。引きずられるようにして車に詰め込まれ、そのまま帰路についた。
七時前、帰宅すると、リビングのソファーに横たえられる。
「具合悪いね。吐き気は?」
「気持ち悪い・・・。」
吐いちゃいそうとまではいかないが、薬が飲みこめる状態にもなかった。
「注射にしようか。」
一臣は、玄関に置いたままのドクターズバッグからペンタイプの注射器を持ってきた。頭痛薬の、自己注射ができるキッドだ。以前は、普通の注射器を使っていたが、これなら自分でも練習すればできるからと、一臣が処方したのだった。
けれど、自分でするのはまだ少し怖くて。いつも一臣にしてもらっていた。ズボンを膝まで降ろされて、アルコール綿で消毒される。一臣が注射器を腿にあてると、小さな音がして、薬液が体内に入った。
「すぐ楽になるから。」
念のため、と、キッチンからポリ袋をかけたごみ箱を持ってきて、近くに置く。
頭痛薬はてきめんに効いて、徐々に緊張はほどけていった。
こういう時は、一臣が医者で良かったと心底思う。自分でも、出来るようにならなければいけないのだけれども。
ふーっとため息をついていると、一臣が近づいてきて、床に膝をついた。
「君は・・・あんな無茶をする子だと思わなかった。けど、忘れていただけだったよね。初めて会った時のことを思えばさ。見知らぬ男にお金で抱かれて、その後自殺しようとしてたんだからさ。・・・でもね、これきりにして。びっくりして、思わず会社飛び出してきちゃったよ・・・。」
俺以外の男を漁りに行ったのかと思った。ぽつりと一臣が言った。
「そんなことしないよ。僕はただ、あの噴水のジンクスに頼りたかっただけ。告白したらうまくいくって。榊先生が言ってたから。」
「あいつが~?」
一臣が天を仰ぐ。
「あれ?一臣さん知らなかった?先生今、年下の彼氏ができたんだよ。それで、その時、相手からあの噴水で、好きって言ってくれて、うまくやってるって。」
だから・・・。と体を起こす。頭痛の波はかなり落ち着いた。もう起き上がっても大丈夫だった。
「知らなかった。」
「でも、噴水のジンクスは知ってたでしょう?」
「うん。それはね・・・。でも、あんな話になった後だったから、すばるが好きだなんて言ってくれるわけないって思って・・・。」
「一臣さんが僕のこと、信用してないのはなんとなくわかったから。ちゃんと言わなきゃって思たんだ。」
まっすぐ目を見て告げると、一臣は照れくさそうに首をかしげて苦笑した。
「ありがとうすばる。気持ちを疑ったりしてごめん。」
「もういいよ。・・・今まで通りでいいんだよね?」
一臣は、静かに、しかしはっきりと頷いて見せた。
夕ご飯は作らなくていいというので、出前の天丼と親子丼で済ませた。ぬるいシャワーを軽めに浴びて、風呂を済ませる。頭痛が起きた時のお決まりパターンだった。ぶり返しても、続けて使うような薬じゃないからと、一臣は慎重だ。
月曜なのに、一臣の寝室に入れてもらい、ベッドでゆっくり過ごしていた。
「ね、すばる。これから毎日一緒に寝る?」
「え?」
「最初のうちは、すばるを横に置いて、何もしないで眠れる気がしなくて、寝室分けてたけど・・・。春の健康診断の時、けっこう長い間我慢できたし、こうやって眠る時間必要かなって思って。金曜日はしたいけど、こうやってゆっくり話をしたり、手をつないで眠ったり・・・。」
一臣は、恥ずかしいことを言ってきた。手をつないで眠る?
それは、一臣にとって負担なのでは?
「一臣さん、勉強の時間は?僕がいたら邪魔でしょう?それに、お風呂一緒に入れたら十分だよ。一人の時間必要って、この間言ってたじゃない。それは、一臣さんもでしょう?」
今まで通りでいいよ、約束だし、と枕に顔をうずめる。一臣の香りがする。嬉しくない提案ではない。しかし、寝る前は、自分も課題をやっていたりするし・・・。
「君ももう高校生じゃないし、約束、少しずつ変えていかない?寝る時間含めてさ。あぁでも、寝不足させると頭痛につながるかな?」
「一臣さん何時頃寝てるの?」
お互い、食後風呂を済ませて寝室に入るのは十時前だ。その後どうしてるのかよく知らないでいた。漠然と、勉強をして眠る、と思っていたくらいで、実際何時に眠っているのかわからなかった。
「その日の体調にもよるけど、だいたい日付が変わったら寝てるよ。」
「僕、それに合わせてたら、バテちゃう。十一時前には寝てるから。夜ははかどらないから、課題するのも小一時間だよ。」
「そうなんだ?俺は夜の方が集中できるから。そうだね。すばるが何時に寝てるのか、知らなかったな。」
お互いに、自室に入ってしまえば不干渉だったのだ。知らなくて当然だった。翌朝リビングで会うまでが、自由時間といえた。
「毎日はやっぱり難しいかな。」
「一臣さんが、勉強してるのは、必要だからでしょう?邪魔したくないよ。」
そうだね、と一臣が髪を梳いてくる。
「僕だって、毎日がいいって思わないわけじゃないけど・・・僕の方が一臣さんより少し早起きだし、今のペース崩すの少し怖いな。」
そうだね、朝ごはん作ってくれてるもんね。と一臣も枕に顔を伏せた。
「いい匂い。すばる洗濯も頑張ってくれてるんだもんね。」
ごろりとあお向けて、一臣が天井を見上げる。
「一人の時は、週末まとめてやってたし、今はすばるに甘えてばっかりだ。」
呟くように言う。それに、そんなことないよと答える。
「あ、そうだ。渡したい物があるんだけど。」
渡せずにいたキーホルダーのことを思い出していた。
「何?」
「水族館のお土産。キーホルダー・・・お揃いで買ったんだよ。」
実は、自分の分も、一臣と揃いで買ったのだった。切なくて渡せなかったが、今なら大丈夫。
ちょっと待ってて、とバスローブを羽織る。部屋に取りに行って、戻ってみると、冷房のありがたさが身に染みた。別に寝るなら、自分の部屋もそろそろエアコンを入れておかないと。考えていると、一臣がどうしたの?と問うてきた。
「ん。あっちの部屋暑かったから、エアコン入れようかなって。」
「いいじゃない今日は。勉強おやすみ。一緒に寝よう?」
「うん。・・・はいこれ。」
小さな紙包みを手渡す。中から青いイルカの形のキーホルダーが出てきた。
「僕のは黄色。自転車の鍵につけようと思って。」
ほら、と見せる。一臣は嬉しそうに手のひらの上で転がした。
「ありがとう。嬉しいよ。俺も車の鍵につけようかな。」
家の鍵にはすでにお揃いのキーホルダーがついていて、それはそれで外しがたかった。一緒に住むことになって、すぐに一臣が用意してくれたものだからだ。
鍵といえば・・・。
「茜さんの鍵、小さい方は部屋の鍵?」
「・・・うん。荷物どうするのか聞いたら、適当に処分してって言われちゃった。どうしよう。服とかはみんな持って行ったから、家具だけなんだけどね。」
「・・・子供部屋は?」
今は納戸として使っているが。
「両方とも、もうしばらくあのままにさせて。部屋数は足りてるし、かまわないよね。」
そう言われると、頷くしかなかった。
「わかった。一臣さんが好きにしたらいいと思う。」
ありがとう、と一臣が手を握ってきた。
「君とこうなることは、俺にとっても予想外だったんだ。」
あの日、君を連れ戻せてよかったと、ホテルのロビーでのことを思い出しているのだろう。
「僕も。」
いろんなことがあったけれど、今は幸せだと思う。
そんなふわふわした気持ちが、あくびにつながる。なんだか眠くなってきた。
「安心したら眠くなってきちゃった。」
「うん。おやすみ、すばる。」
さら、と一臣が前髪を避けて、キスを求めてきた。
軽い触れるだけのキスを何度か繰り返し、お休みの挨拶をした。
浜松に向かう一臣を見送り、自分も出かける支度。友成が気晴らしに付き合ってくれるのだ。
本当は、充に会いたかったけれども。一臣が、お墓参りに連れて行ってくれるというので、それで納得することにした。
誰かに、認められたかっただけかもしれない。
「誰よりも今、自分が一番、一臣のもの」だと。
たぶん、茜は認めたから鍵を返してきた。充は、認めたから一臣に会いたがっている。おそらくは、祝福のためだと思いたい。それを確認したくて、充に会いたかったのだ。時間を追うごとに、ゆっくりと整理されていく気持ち。一臣が一緒にいてくれるから・・・。
もっと、自信が持てたらいいのに。
昨夜も、一臣の部屋で夜を過ごした。セックスはしなかったが、大事に、守られるように抱かれて眠った。
どうしてそこまでされて、愛されている自信が持てないのか。それは、未だに自分が自分を好きになれないからだ。
母に、愛されなかった自分。愛されたかった自分。そのために、女の子に生まれたかった自分。どうしたってもう叶わない事だけれど・・・。
一年かけてもまだ・・・消えない想い。
一臣は、自分を愛せるようになるまで甘えさせてくれると言ったが、期限はないのだろうか・・・?
現地集合で待ち合わせて、友成と美術館に来ていた。海外の作家の特別展があるのだ。現代アートは得意じゃないが、学校に割引券が置いてあったとかで、とりあえずここから見て回ることにした。絵画から、彫刻に至るまで、いろいろ展示されていた。
「ね?友成・・・これ、意味わかる?」
思わず、隣の友成に小声で聞いてしまう。友成は、首を左右に振った。それでも、割引券効果なのか、夏休み効果なのか、美術館はそこそこの賑わいだ。よくわからない彫刻の前にたたずんで、何とか理解しようと眺めているのだが、どうやら無駄な努力のようだった。ほかの客も、一個展示の前から去る足が速い。流れるように歩いてゆく。足を止めてじっくり見ているのは、自分たちだけのようだった。
「どうする?一回りして他行く?」
友成が眉間にしわを寄せて尋ねてくる。
「そうだね。なんか合わないかも。・・・学校でこういうの求められたら、絶対仕上げられないよね。」
「一応名のある芸術家なんだろうけど・・・相性ってあるよね。」
相性。諏訪とは、相性がいいように思う。不意に思い出して、明日からのバイトのことを思った。
「そういえばさ、すばる諏訪先生と何してるの?」
聞かれて、友成に話してないことを思い出した。
「あのね・・・。」
こそ、と耳打ちする。
「上半身だけ、ヌードモデル・・・のバイト。」
「バイト?お金もらえるの?」
友成が食いついたのは、ヌードのところではなく、お金の話だった。それにほっとしつつ、金額はまだ聞いてないんだけどね、と答えた。
「えー脱ぐんだったら、オレなら先に金額決めるけどなぁ。」
「だって、僕の裸にいくらの価値があるかなんて、自分じゃわからないもの。」
すばるは綺麗っぽい。と友成がまじめな顔をして言った。
「変な傷とかなさそうだし、肌も綺麗そうだし。そうだ、デッサンの宿題、自由課題で描かせてよ?人物でもいいよね?」
それはそうだろうが。
「嫌だよ。作業部屋、他にも誰か来るかもしれないし。」
「なんで?あ、ヌードじゃなくていいよ?」
「それに、友成が描いてる間、僕の宿題進まないじゃん。」
そう言うと、ともなりは、あぁそれもそうかと納得した。
「諏訪先生いいなぁ。」
「仕上がったら複製くれるって。」
「すばるいいなぁ。」
そんなことを話しながら、ほぼ展示は見ずに、美術館を後にした。それでも、なかなかの広さがあった美術館を出るころには、日も高くなっていて、お昼にしようかということになった。
「どうする?浜松行った気分で、ウナギにしちゃう?」
「でも、お店はいると高いよね?」
「新幹線に乗ったと思えば、安いんじゃない?」
「んーでも、お土産とかも買いたいし。どこかでお弁当買お?」
なんとなく、お弁当にウナギを買う方向で話がまとまり、駅の方に向かう。静岡県のアンテナショップがあるのを調べてきていた。
「ウナギのお弁当。は、ともかく、ここでお土産買ったら、絶対一臣さんと被る予感がする。」
一臣は、本当の浜松だ。うなぎパイあたりを買ってくるに違いない。お土産は別の場所で買うことにした。
「どこで食べようか?」
「次の美術館、テラスに飲食スペースあるって。」
友成のリサーチ力に驚きつつ、じゃぁそこで、と歩き出した。
「友成、そういう力は、彼女で来たとき使える能力だよね。」
ぴく、と友成が反応した。
「え?オレ、イケてる?こんな彼氏だったら、すばる付き合っちゃう?」
「いや、僕は友達で十分だけど。なんで彼女いないのかなって。」
不思議に思ってさーと首をかしげて見せた。
「あー・・・気になってる子は・・・いるんだよね。」
「えっ?ほんと?」
うーんと友成が唸っている。
「・・・まさか男じゃないよね?女の子だよね?」
自分のことは棚に上げて、思わず聞いてしまう。すると、友成は苦笑した。
「女の子だよ、女の子。」
綺麗な日本画を描く子がいてさ、と友成が言った。
「うーんと?本人じゃなくて、絵が好きなの?」
そういえば、諏訪も自分の絵が好きだと、共感できると言っていた。そういう好き、なんだろうか。
「最初は、絵が好きだったけど、今は本人も気になってて。
でも、日本画のクラス、うちらより忙しいじゃん?付き合ったりする余裕なさそうかなって。」
絵を描く時間なくなったら、元も子もないし、とため息する。
「とりあえず学祭終わったら少し余裕出来るから、行ってみようかなーとは思ってる。」
「そっかー。」
応援してるね、と笑って見せる。すると、友成はまたため息した。
「正直、すばるの方が可愛いかも、顔は。」
と。
「オレほんとにデートのつもりでプラン組んじゃった。」
日本画の女の子より可愛い?いったいどんな子にアタックするつもりなのか。友成だって見目は悪くない方なのに。
本人同士がよければそれでかまわないが、釣り合うのかな?
とりあえず、ここはお礼を言っておくところだろうか。
「ありがとう。友成。」
そうこうしているうちに、次の美術館についた。まっすぐテラスに向かい、まずは腹ごしらえだ。テラスにはパラソルとテーブルと椅子が五組ほど設置してあったが、暑いせいか他に利用者はいなかった。建物の影を選んで、座る。
買ったお弁当を開けると、意外とちゃんとしたうな重だった。
「美味しそう。」
「東京で買えちゃうなら、新幹線代もったいないよね。」
たしかに、と食べ始める。甘辛いたれが、ご飯にしみていておいしい。強いて言うなら、もう少し温かかったら言うことなしだ。男二人、がつがつと無言で食べ進める。と、先に食べ終わった友成が立ち上がった。
「自販機探してくるけど、お茶でいい?」
「あ、うん。」
友成にまで甘やかされてしまう。
「友成、もうちょっとまって。一緒に行くよ?」
あともう少しで食べ終わる弁当を指して待ったをかけてみる。ところが友成は、今日はオレが佐伯さんの代わりなの、と、ドアを開けて館内に消えてしまった。しばらくの間をおいて、お茶を二本抱えた友成が戻ってくる。
「ありがとう。お金あとで返すね。」
「うん。中の方が涼しいよ。食べ終わったなら中のベンチで飲もう?ゴミ捨て場あったし。」
「うん。・・・友成ほんとにエスコート上手。気が利くよね。」
「照れるから!」
友成は、ひぃーと奇声を発して、手で耳を塞いで見せた。
友成とのデートは二件目の美術館の後、水族館を回って終了した。五時台の電車に乗って、帰路につく。大きな声では言えないが、美術館より、水族館の方が楽しかった。イルカのショーを前の方の席で見たので、二人ともびしょぬれになってしまったが。夏だからすぐ乾くし、と笑って済ませた。
一臣には、イルカの形のキーホルダーを買った。
「さて・・・夕ご飯かぁ。」
ずいぶん歩いたし、日に焼けたし、いい加減に疲れていて、けれど疲れて帰ってくる一臣に、手抜きのご飯は出したくない。幸いまだ外は明るいし、いつものスーパーに寄れそうだった。黄色の自転車に乗って、スーパーを目指す。駐輪場に停めたところで、見知った人影に気付いた。榊だ。相手もこちらに気付いたようで。
「よぉ。これから買い物か?」
「はい。先生はいつものですか?」
買い物袋には、たぶん数本のビール。ここでしか売っていない銘柄があるのだとか。
「おう。一臣は?」
「今日学会で・・・浜松まで行ってます。夜には帰ると思いますけど。」
そういえば、榊は一臣と充と同じ大学の卒業生だったはず。
「相澤さんも来るらしくて、でも、まだ会いたい気持ちじゃないって言ってました。」
「あーあいつか・・・。でも、相澤結婚したんだろ?子供いるだろ。会いたいって向こうから言ってきたのか?」
こく、と頷いて見せる。
「そりゃ、気が気じゃねーだろうが。まぁ、そんなに心配することないだろうよ。相澤とは、もう切れてるんだしさ。」
昔懐かしいだけだろうよ。と、鼻を鳴らす。
「一臣も、なんでもあけすけに喋らなくたっていいのになぁ。
可哀そうに。」
よしよしと肩を叩かれる。
「・・・いいんです。僕は、秘密にされる方が嫌だから。」
「でも、元気ないぞ?」
「今日は友達と遊んでて、ちょっと疲れてるだけですよ。」
そういえば、友成と遊んでいて、頭痛、でなかったなと思い出す。嫌な思いやストレスを感じなかった証拠だ。あたらめて、友成はすごいやつだと感心した。
「ふーん?疲れてるんなら、たまには飯の支度手を抜いてもいいんだぞ?」
「そう・・・ですかね。」
そうだそうだと、榊が大きくうなずく。
「天ぷらでも買って、そうめんとかでいいじゃないか。」
「あぁ。それいいですね。」
お昼のうな重が割と重めだったために、さっぱりとしたものが食べたかった。
「じゃぁそうします。」
「おう。今なら、揚げたてが並び始めたところだろ。早めに買っといたほうがいい。」
榊は、スーパーの総菜が並び始める時間まで把握しているようだった。それがなんともおかしくて、つい笑ってしまう。
「なんだよ?」
「先生、よっぽどここのスーパー好きなんだなって。」
「違うな。おれは、ただ、うまいものが食べたいだけなの。」
胸を張る榊が面白くて、ついには噴き出してしまった。
メニューも決まったし、切らしたミカンのアイスバーも買って、早く帰ろう。日焼けのケアをしないと。一臣も白い方が好きだと言っていたが、自分は今ヌードモデルのバイトをしているのだ。くっきり焼けた跡を残すわけにはいかない。帰って冷たいシャワーで冷やさないと。
買うものが決まっている買い物は、早々に済んだ。
浜松から帰ってきた一臣のお土産は、やはりうなぎパイだった。それ、どこでも買える、とはさすがに言えずに、ありがたく受け取った。
「一臣さん、充さんには会えたの?」
「あぁ、斜め前の席だったから、挨拶はしたよ。あんまり変わってなかったなぁ。黒いスーツ着てた。中もグレーのワイシャツで。」
昔から、濃い色の服を好んで来てたよ、と少し遠い目をした。
「それだけ?」
「それだけだよ?内容濃かったし、休憩時間は短いし、お昼も食べられなかったから、帰りの新幹線でお弁当食べちゃった。」
「ウナギ?」
「そうそう。」
どうやら一臣も、ウナギの弁当を食べた様だった。
「すばるこそ、友成君とはどうだった?」
「あのね、すごいの。頭、痛くならなかったんだよ!」
「うそ!ほんとう?すごいね。俺といてもなるときはなるのに。」
それは、だって、一臣には気を使ってるから、とは言えなかった。それに、圧倒的に一臣といる時間は長いから、どうしたって頻度は上がってしまう。
「友成エスコートじょうずなの。あのね、気になってる女の子がいるんだって。」
「へー・・・。すばる、そういう話は大丈夫なんだ?」
そう言われてみると。
「・・・僕が苦手なのは、たぶん・・・お母さんくらいの年齢の人なんじゃないかなぁ・・・。」
そう言うと、一臣は、なるほどね、と頷いた。
「夕ご飯何?」
「あ、榊先生のお勧めで、天ぷらとそうめんになりました。」
「なんで榊先生?」
スーパーで会って、とかいつまんで話す。話しながら、支度のためにキッチンに足を向けていた。天ぷらは、トースターに入れて、温めつつ油を落とす。そうめんは、一度湯を沸かしておいたので、あっという間に出来上がった。水でさらして、ぬめりを取り、一口大に丸めていく。めんつゆは出来合いのものだが、二人とも好きな銘柄のものが常備されていた。
「あ、そうだすばる。」
思い出したように、一臣が声を上げた。
「ん?なに?あ、大葉いる?」
「うん。・・・歯医者さん予約取れたから。火曜日大丈夫だよね?午後五時。」
あぁ。そういえば。そんな話もしてたな、と思い起こす。
「ん。大丈夫。今週?」
「うんそう。ごめんね急に。言い忘れてた。」
どうやら一臣が歯医者を予約したのは、少し前だったようである。友成との宿題を早めに切り上げれば問題ないように思えた。
「歯医者さん、ほんとに予約したんだ?」
「したよ。俺もたまに行ってるの知ってるでしょう?」
一臣は、クリーニングに時々歯医者に行っていた。
「あそこの衛生士さん上手だから痛くされないと思うよ。」
先生にあたるとちょっとあれだけど、と苦笑する。
「あれってなに?」
「ちょっとだけ雑。」
ちょっと?久しぶりの歯医者で、雑にされたらかなわない。
「問診に、紹介者の名前書くところあるから、俺の名前書いといて。」
次に行ったとき、歯ブラシもらえるの、と一臣はまた苦笑した。別に、歯ブラシにつられたわけじゃないからね、と。
「そんなことより、充さんとは本当に何も話せなかったの?」
「うん。・・・でも、なんとなく前にあった時よりは幸せそうっていうか・・・余裕?みたいなのを感じたな。」
「そもそも、何の学会だったの?」
充は確か、精神科に行ったはずだった。一臣とは畑違いもいいところで。
「心療内科。・・・うちの会社、ストレスで胃とか腸とかやられるのはまぁよく見るけど、頭痛の患者も割と多くて。すばるの役に立てばいいかなーっていう下心ありの参加でした。」
一臣の学会や研修、旅費の半額は、会社から支給されている。医務室と関係ない内容では、申請も通らないはずだった。
「すばる、精神科だと思った?まぁ、精神科でも通ったと思うよ。最近は、鬱とか不眠の相談に来る社員も増えてきてるからね。」
一臣はそう言いながら、薬味の大葉をめんつゆに落とした。
そうめんを啜り始める。天ぷらは、サツマイモと、カボチャ、海老とイカとちくわの磯部揚げを用意してあった。
一臣さん、本当に仕事で行ったんだ。そこにたまたま充さんがいただけで・・・。
友成のおかげで、一日悶々と過ごすことはなかったが、それでもやっぱり心配はしていた。そんな自分が情けなくなった。
「一臣さん、ありがとう。」
「ん?」
一臣がそうめんから顔を上げる。
「俺はね、ちょっと前から、俺と暮らしてくことも、君のストレスになってるんじゃないかなって、少し思ってて。頭痛なくならないからね。だから、少しでも軽減させてあげたくて。でも多分、そのためにはもっと君には自由時間が必要で。
だから、この間のお弁当の話も、本当はそれで・・・。気を使わせたくなくて。
・・・友成君に、嫉妬してる。」
一臣は、はっきりと、嫉妬しているのだと告げてきた。
「友成に?」
「あと、先生にも。君、モデルしてる時も頭痛の話しないよね。だから・・・きっと、先生相手でも頭痛は起きていないんだと思って。」
そう言われてみると、起きてもよさそうなシチュエーションで、頭痛は起きていない。
「たまたまじゃない?天気も良かったし。」
でも、と一臣は食い下がった。
「してやれることはしてやりたい。充さんの件は、本当に偶然だったんだ。心配させてごめん。でも、言わないで行くこともできなかった。」
誠実でいたかったから、と。
「うん。大丈夫。充さんの件はもう、あんまり気にしてない。」
「・・・あんまり、ね。」
言葉尻を拾って、一臣が項垂れる。
「あ、うん。あんまり・・・。でも、時間がたてばもやもやしなくなると思う。大丈夫。・・・一臣さんのこと、ちゃんと信用してるよ?」
慌てて言いつくろうと、一臣は少し顔を上げた。
「本当に?・・・君、気を使ってるでしょう。ここを出たら、実家に帰らなきゃならないものね。天秤にかけたら、俺といる方選ぶでしょ?」
そんな。それは、考えたこともなかった。
「天秤になんてかけたことない!僕は一臣さんといたいから、家事だってなんだって頑張れるのに。」
「すばる・・・。ごめん。」
こんな風に、言い合いみたいになるのは初めてだった。いつでも穏やかで、ゆっくり話を聞いてくれて、共感して肯定してくれて、なのに・・・。
「実家に帰りたくないからだなんて・・・一度も思ったことないよ・・・。」
「ごめん。すばる・・・。」
一臣は、そんな風に思っていたのか、もしかして、セックスも?一臣に抱かれるのが、実家に帰れないためだと思われていたら?
「・・・一臣さんが好きだから、好きじゃなかったら抱かれたりだってしないのに・・・。」
悲しくなって、涙が一筋頬を伝った。
一臣が席を立って、指先で涙を拭う。
「ごめん。ごめんね。泣かすつもりじゃなかった。思ったより、動揺してた。俺の方が、駄目だった。」
「駄目だったって何?」
これ、別れ話なの?駄目になるの?
充さんの顔見て、恋しくなっちゃったの?
「すばるのことを思って、いろいろ・・・。」
いろいろなに?
「我慢しすぎた?」
尋ねたが、一臣は否定も肯定もしなかった。
「とりあえず、食べよう?せっかく用意してくれたんだし。」
一臣は席に戻ったが、とても食事を再開する気にはなれなかった。
お土産のキーホルダーを渡していないことに気が付いたのは、自室のベッドに入ってからだった。
月曜日。一夜明けても、一臣はどこかよそよそしかった。
渡しそびれたお土産はポケットに入っているが、そんな話をできる雰囲気じゃなかった。一臣は、朝食を済ませると、覇気なくいってきますと言い置いて、出かけて行った。
落ち込んでいる場合ではない。家事をして、一本早い電車に乗らなくてはいけないからだ。洗い物と洗濯物を済ませ、自分の分のお結びを作って、リュックに詰める。今日は、梅雨が明けてから初めての雨予報で、空はどんよりと暗かった。
南の方で台風が発生したらしい。気圧が下がっているのが、耳で分かった。それでも、諏訪との約束があるから、自転車に乗り、改札を抜ける。電車に乗り込むと、諏訪は笑顔で迎えてくれた。
「おはよう。早乙女君。・・・あれ?浮かない顔してるね。」
彼とケンカ?と聡い諏訪は見抜いてくる。
「ケンカというか・・・すこし言い合いみたいになっちゃって・・・気まずくて。」
挨拶もそこそこに、俯いてしまう。
「そう。よかったら話聞くけど・・・。」
複雑な話だ。それに、諏訪に聞かせられるような話でもない。
「自分で解決しないといけなくて。たぶんその・・・一臣さんも。」
諏訪の前で、一臣の名前を出すのは初めてだった。でもほかに呼びようがなかった。
「そう。一緒にいたら、たまにはそういうこともあるかもね。」
諏訪はそう言って、車窓から外を眺めた。
「モデル、できそう?できれば、もっと明るい顔の君が描きたいんだけど。無理そうなら今日は無しでもいいよ?」
「それは・・・でも、先生夏休みなのにせっかく学校に来てるんだし、奥さんだってお弁当作ってくれたんでしょう?無駄にはできません。」
そう告げると、君はまじめだね、と笑われた。
「じゃぁ、リラックスできるまで、コーヒーでも飲んで少しおしゃべりでもして、それから始めようか。」
こく、と頷いて乗り換えの駅につくのを待った。
諏訪の部屋は、曇りの朝だというのに少し蒸し暑かった。すぐに、暗幕を閉めて、エアコンを入れてくれる。諏訪はコーヒーを入れながら、もしかして私のせいもある?と聞いてきた。
「え?」
「ヌードモデルなんか頼んで、ケンカの原因。」
「あ・・・。」
違うとも、そうだとも言えなかった。一臣は、友成にすら嫉妬していたのだ。でも、モデルのバイトはやめたくなかった。
今の自分を、一番客観的に見てくれるのは、諏訪のような気がして。
「そうなの?」
諏訪が心配そうに聞いてくる。
「よくわからないんです。急に、俺が駄目だって言いだして・・・。何が駄目なのか、本質を言ってくれなくて。」
このまま、駄目になったらどうしよう。不安がぐるぐるし始める。
「そうなんだ。お互いに距離を取ると言っても・・・同棲だっけ?それだと難しいよね。」
同棲?間借りじゃなくて?
不思議に思ったのは、顔に出た様だった。
「あれ?違うの?同じ家に住んでるんでしょ?」
諏訪の方が不思議そうな顔をしている。もしかして、この感覚の差が、一臣の駄目だにつながるのだろうか。やがてそれは確信に変わる。
「先生そうかも。僕たちがしてたのは同棲で、間借りじゃなかった・・・。」
なのに、一臣は、いつか自分が出て行く日のことを考えていたのだ。だから、天秤なんて言い方をして。
「何か、ヒント得られた?」
はい、とコーヒーカップを手渡される。
「はい。何か、わかったかも。」
ちゃんと伝えなきゃ。ちゃんと気持ちを伝えてなかった。どうしたらいいかわかったら、気持ちが前を向いた。
「あれ?すっきりした顔してるね。モデル、やれそう?」
「それは、はい。大丈夫です。」
応えて、コーヒーに口をつける。ブラックのコーヒーは、頭の中をクリアにした。
「じゃぁ、始めようか。」
いつものように諏訪が席を外す。その隙に着替えを済ませ、椅子に座る。戻ってきた諏訪が、シーツのしわを直し、イーゼルの前に座る。
「デッサンは今日までかな。明日から下書きに入ろうかと思う。」
約束の一週間は、木曜までだ。あと三日。今まで諏訪がとったデッサンを見たい気もしたが、完成を待つことにした。
「今日はちょっと斜めに。少し俯いて。遠くの床を見る感じで。」
注文に応じながら、一臣を思う。
リセットしよう。応えてくれるかどうか分からないけれど。
あの場所で。
友成との宿題が終わり、日曜日の礼を言って別れると、帰りの電車の中。一臣にメールを送った。
『噴水の前で待っています。』
一臣と初めて会った場所。一周年にはまだ少し早いが、タイミングは今しかないように思えた。一臣はまだ仕事中だ。返事がいつ来るかもわからない。見落とされるかもしれない。
それでも、自分からアクションを起こさなくてはいけない気がしていた。
午後五時半。一臣の定時にはまだ小一時間ある。それから、ここに向かったとして、何事もなかったとしても着くのは七時くらいだ。それでも。
駅のロータリーの中央にある、噴水の前に一つ置かれたベンチに座る。ここは、男同士のナンパスポット。いつ誰に話しかけられるかわからない。でも、雨の降りだしそうな月曜の夕方。過行く人は皆早足だ。こちらには見向きもしない。そうこうしているうちに、ぽつぽつと雨が降り出してきた。ロータリーの外側にある喫茶店に避難しようかとも考えたが、なんとなく、ここで待っていたかった。しばらく待っていると、メールの着信があった。『今どこ?雨をしのげる場所にいる?』一臣だ。迷ったが、『噴水の前にいます。』と返した。
もう、全身しっとりと濡れていて、このまま店に入るのははばかられた。雨のせいか、頭痛もし始めていた。薬を飲まなければ、動けなくなるのは時間の問題だった。水だけ買おう。喫茶店の隣のコンビニに足を向ける。水だけ買って、薬を飲んで・・・。そう思い、リュックの中を漁る。すると、いつも持ち歩いている薬を、補充し忘れていたことに気付いた。
そうだ。この前眼鏡屋の帰りに飲んでそれきりだった・・・。
後悔しても役には立たない。諦めて、ベンチに戻った。するとまた、メールが届いた。『今から向かうから。』
え?だってまだ仕事の時間。来られるはずがないのに。ところが一臣の車は、六時を少し過ぎたころ、ロータリーに現れた。少ない駐車スペースに車を置いて、こちらに走ってくる。
「すばる!何してるんだ!」
怒ってる。こんな剣幕で怒られたのは初めてだった。
「ごめんなさい!一臣さん仕事は?」
「そんなのどうだっていいよ。びしょぬれじゃないか。車にタオル積んである。早く乗って。」
一臣は、左腕を掴んで強く引いた。
「あ、待って!・・・まって。言いたいことがあるの。」
「・・・?」
一臣の動きが止まる。その目をまっすぐに見て告げた。
「一臣さん。好きです。これからも僕と一緒に暮らしてください。」
一臣の目が、一瞬大きく開いた。
「それを言うために待っていたの?」
頷くと、ぎゅうっと抱きしめられた。
「ごめん。ごめんねすばる。ありがとう。・・・愛してるよ。
君がその気なら、ずっと一緒にいよう。」
伝わった・・・?
ほかの誰でもなく、間借りなどではなく、一臣と暮らしたいのだと。
よかった。
気が抜けると、頭痛と吐き気で立っていられなくなった。慌てて一臣が支えてくれる。引きずられるようにして車に詰め込まれ、そのまま帰路についた。
七時前、帰宅すると、リビングのソファーに横たえられる。
「具合悪いね。吐き気は?」
「気持ち悪い・・・。」
吐いちゃいそうとまではいかないが、薬が飲みこめる状態にもなかった。
「注射にしようか。」
一臣は、玄関に置いたままのドクターズバッグからペンタイプの注射器を持ってきた。頭痛薬の、自己注射ができるキッドだ。以前は、普通の注射器を使っていたが、これなら自分でも練習すればできるからと、一臣が処方したのだった。
けれど、自分でするのはまだ少し怖くて。いつも一臣にしてもらっていた。ズボンを膝まで降ろされて、アルコール綿で消毒される。一臣が注射器を腿にあてると、小さな音がして、薬液が体内に入った。
「すぐ楽になるから。」
念のため、と、キッチンからポリ袋をかけたごみ箱を持ってきて、近くに置く。
頭痛薬はてきめんに効いて、徐々に緊張はほどけていった。
こういう時は、一臣が医者で良かったと心底思う。自分でも、出来るようにならなければいけないのだけれども。
ふーっとため息をついていると、一臣が近づいてきて、床に膝をついた。
「君は・・・あんな無茶をする子だと思わなかった。けど、忘れていただけだったよね。初めて会った時のことを思えばさ。見知らぬ男にお金で抱かれて、その後自殺しようとしてたんだからさ。・・・でもね、これきりにして。びっくりして、思わず会社飛び出してきちゃったよ・・・。」
俺以外の男を漁りに行ったのかと思った。ぽつりと一臣が言った。
「そんなことしないよ。僕はただ、あの噴水のジンクスに頼りたかっただけ。告白したらうまくいくって。榊先生が言ってたから。」
「あいつが~?」
一臣が天を仰ぐ。
「あれ?一臣さん知らなかった?先生今、年下の彼氏ができたんだよ。それで、その時、相手からあの噴水で、好きって言ってくれて、うまくやってるって。」
だから・・・。と体を起こす。頭痛の波はかなり落ち着いた。もう起き上がっても大丈夫だった。
「知らなかった。」
「でも、噴水のジンクスは知ってたでしょう?」
「うん。それはね・・・。でも、あんな話になった後だったから、すばるが好きだなんて言ってくれるわけないって思って・・・。」
「一臣さんが僕のこと、信用してないのはなんとなくわかったから。ちゃんと言わなきゃって思たんだ。」
まっすぐ目を見て告げると、一臣は照れくさそうに首をかしげて苦笑した。
「ありがとうすばる。気持ちを疑ったりしてごめん。」
「もういいよ。・・・今まで通りでいいんだよね?」
一臣は、静かに、しかしはっきりと頷いて見せた。
夕ご飯は作らなくていいというので、出前の天丼と親子丼で済ませた。ぬるいシャワーを軽めに浴びて、風呂を済ませる。頭痛が起きた時のお決まりパターンだった。ぶり返しても、続けて使うような薬じゃないからと、一臣は慎重だ。
月曜なのに、一臣の寝室に入れてもらい、ベッドでゆっくり過ごしていた。
「ね、すばる。これから毎日一緒に寝る?」
「え?」
「最初のうちは、すばるを横に置いて、何もしないで眠れる気がしなくて、寝室分けてたけど・・・。春の健康診断の時、けっこう長い間我慢できたし、こうやって眠る時間必要かなって思って。金曜日はしたいけど、こうやってゆっくり話をしたり、手をつないで眠ったり・・・。」
一臣は、恥ずかしいことを言ってきた。手をつないで眠る?
それは、一臣にとって負担なのでは?
「一臣さん、勉強の時間は?僕がいたら邪魔でしょう?それに、お風呂一緒に入れたら十分だよ。一人の時間必要って、この間言ってたじゃない。それは、一臣さんもでしょう?」
今まで通りでいいよ、約束だし、と枕に顔をうずめる。一臣の香りがする。嬉しくない提案ではない。しかし、寝る前は、自分も課題をやっていたりするし・・・。
「君ももう高校生じゃないし、約束、少しずつ変えていかない?寝る時間含めてさ。あぁでも、寝不足させると頭痛につながるかな?」
「一臣さん何時頃寝てるの?」
お互い、食後風呂を済ませて寝室に入るのは十時前だ。その後どうしてるのかよく知らないでいた。漠然と、勉強をして眠る、と思っていたくらいで、実際何時に眠っているのかわからなかった。
「その日の体調にもよるけど、だいたい日付が変わったら寝てるよ。」
「僕、それに合わせてたら、バテちゃう。十一時前には寝てるから。夜ははかどらないから、課題するのも小一時間だよ。」
「そうなんだ?俺は夜の方が集中できるから。そうだね。すばるが何時に寝てるのか、知らなかったな。」
お互いに、自室に入ってしまえば不干渉だったのだ。知らなくて当然だった。翌朝リビングで会うまでが、自由時間といえた。
「毎日はやっぱり難しいかな。」
「一臣さんが、勉強してるのは、必要だからでしょう?邪魔したくないよ。」
そうだね、と一臣が髪を梳いてくる。
「僕だって、毎日がいいって思わないわけじゃないけど・・・僕の方が一臣さんより少し早起きだし、今のペース崩すの少し怖いな。」
そうだね、朝ごはん作ってくれてるもんね。と一臣も枕に顔を伏せた。
「いい匂い。すばる洗濯も頑張ってくれてるんだもんね。」
ごろりとあお向けて、一臣が天井を見上げる。
「一人の時は、週末まとめてやってたし、今はすばるに甘えてばっかりだ。」
呟くように言う。それに、そんなことないよと答える。
「あ、そうだ。渡したい物があるんだけど。」
渡せずにいたキーホルダーのことを思い出していた。
「何?」
「水族館のお土産。キーホルダー・・・お揃いで買ったんだよ。」
実は、自分の分も、一臣と揃いで買ったのだった。切なくて渡せなかったが、今なら大丈夫。
ちょっと待ってて、とバスローブを羽織る。部屋に取りに行って、戻ってみると、冷房のありがたさが身に染みた。別に寝るなら、自分の部屋もそろそろエアコンを入れておかないと。考えていると、一臣がどうしたの?と問うてきた。
「ん。あっちの部屋暑かったから、エアコン入れようかなって。」
「いいじゃない今日は。勉強おやすみ。一緒に寝よう?」
「うん。・・・はいこれ。」
小さな紙包みを手渡す。中から青いイルカの形のキーホルダーが出てきた。
「僕のは黄色。自転車の鍵につけようと思って。」
ほら、と見せる。一臣は嬉しそうに手のひらの上で転がした。
「ありがとう。嬉しいよ。俺も車の鍵につけようかな。」
家の鍵にはすでにお揃いのキーホルダーがついていて、それはそれで外しがたかった。一緒に住むことになって、すぐに一臣が用意してくれたものだからだ。
鍵といえば・・・。
「茜さんの鍵、小さい方は部屋の鍵?」
「・・・うん。荷物どうするのか聞いたら、適当に処分してって言われちゃった。どうしよう。服とかはみんな持って行ったから、家具だけなんだけどね。」
「・・・子供部屋は?」
今は納戸として使っているが。
「両方とも、もうしばらくあのままにさせて。部屋数は足りてるし、かまわないよね。」
そう言われると、頷くしかなかった。
「わかった。一臣さんが好きにしたらいいと思う。」
ありがとう、と一臣が手を握ってきた。
「君とこうなることは、俺にとっても予想外だったんだ。」
あの日、君を連れ戻せてよかったと、ホテルのロビーでのことを思い出しているのだろう。
「僕も。」
いろんなことがあったけれど、今は幸せだと思う。
そんなふわふわした気持ちが、あくびにつながる。なんだか眠くなってきた。
「安心したら眠くなってきちゃった。」
「うん。おやすみ、すばる。」
さら、と一臣が前髪を避けて、キスを求めてきた。
軽い触れるだけのキスを何度か繰り返し、お休みの挨拶をした。
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