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そろそろ夏休みに入ろうかという、七月の半ば。初出勤は、オリエンテーションだというので、開店時間の一時間前に商店街のジェラート屋に来ていた。ガラスの扉が閉まっていて、どうしようかと思っていると、やたらとガタイのいい男性がやってきて、おはようございます、と爽やかに挨拶した。
「おはようございます。オリエンテーションで来た、高梨です。」
「高梨さんね。お待たせしてすみません。開けるので、中どうぞ。」
鍵を上下二カ所開けて、厚いガラスの扉を開き、中へと案内される。良く来る場所なのに、明かりのついていない店内は、まるで知らない場所の雰囲気だ。きょろきょろしながら、カウンターの端のスイングドアを通り、薄暗いバックヤードへ。大きな冷凍庫が並ぶその奥に、事務所と思しきスペースがあった。冷凍庫が唸る音が低く響いている。
「狭くてごめんなさいね。荷物はそこの棚に。椅子出して座ってくれる?エアコン入れるけど、すぐには冷えないから。」
言われるまま荷物を置いて、壁に立てかけてあった折り畳みの椅子を開く。失礼しますと座ると、緊張しなくていいよ、と笑われた。
「店長の不破です。よろしくお願いします。」
「高梨です。よろしくお願いします。」
お辞儀すると、不破はにこーっと笑った。半袖のワイシャツに、黒のズボン。布越しにもわかる筋肉。鍛えてそうだな、と見ていると、不破は嬉しそうに口の端を上げた。
「さて。晴海さんが選んでよこした人は、信用してるから、細かいことはおいおい聞くね。・・・じゃぁ、初めにこのお店の基本情報ね。」
そう言って、屋号のフラゴラロッサが赤い苺を意味することから始まり、明楽フーズのジェラート部門として、何番目に出店した店舗であるかというような話をしばらくしたころ、他の従業員が出勤して来た。
よくレジに立っている女性だ。客として見ていた時よりも小柄で、栗毛を頭の後ろで丸く結っていた。童顔で可愛いけれど、年齢不詳だ。
「おはようございますー。あっ、新人さん!よろしくねー。私、天羽一花(あもういちか)。女子は私だけだけど、三次元には興味ないからごめんね!」
さ、んじげん??
思わず首をかしげると、不破がこそっと、一花ちゃんはね、二次元の推しに貢ぐために稼いでるのよ、と教えてくれた。
「何君?」
「あ、高梨です。高梨楓李。」
「ふうり君か。いい名前。アニメとか漫画とか好き?」
嬉々として話し出した天羽を、不破が止める。
「一花ちゃんごめん。時間ないから、そーゆーのはほら飲み会の時にでも。・・・やるでしょ?歓迎会!高梨君来るよね!」
飲み会?
あ、そうだった。飲み会多いって、晴海が言ってたっけ。
歓迎会か。経験上、そういうのは出ておいた方がいいし、仲良くなれたらラッキーだ。
「飲み会、楽しみです。」
愛想よく返事すると、天羽がやったーとこぶしを突き上げて、通路の奥へと消えていった。
「はは。うちの店こんなノリだから。日時はあとで調整するけど、月曜定休だから、日曜の夜かな。・・・話し戻していい?」
聞いていた通りの雰囲気に圧倒されつつ、楽しそうでいいかも、と笑みがこぼれた。
平日は基本、店長と天羽と自分の三人で、営業していくらしい。他に土日のメンバーが二人。大学生の男の子だそうだ。
小さいお店だから、この五人で全部。どうしても人がいないときは、本社から応援が来るのだそうだ。店長の不破は、おおむね事務仕事担当で、忙しい時間と休憩を回す間、入れ替わりで店頭に立つのだとか。ほぼ天羽と二人きりだが、あの感じなら、恋愛に発展したりはしなさそう。良いような悪いような・・・。
その後は、ユニフォームのサイズを確認し、届き次第研修とのこと。パティシエのようなデザインの、白地に赤い飾りボタン。赤いキャスケットと、カフェエプロン。可愛らしいデザインなので、少し不安もあったが、試着してみると意外と着心地もよく、動きやすい。なにより、似合っているとの、不破と天羽の声に、嬉しくなった。更衣スペースも確保されており、ひとまず安心。人前で着替えるのは、苦手だった。
他人の前で脱ぐ可能性のある時は、腿までの薄いアンダーパンツを履いているが、暑くなるし、ここは大丈夫そうだと思った。
見せたくないものの一つや二つ、あるものである。
営業時間になって、あわただしく店を後にした。
想っていたよりも早くユニフォームが届いたので、研修も二日目。初日と同じく、開店一時間前に出勤し、まずは着替え。指先から肘までの洗い方と消毒の仕方を復習して、店内の配置を叩きこむ。今日はその後、商品の名前や材料、特徴などを覚えて、時間があれば盛り付けの練習。定番の十種類を昨日覚えたから、残りの十種を頭に入れる。そのほかに、季節物と、企画物の合わせて二十五種類が店頭のショーケースに収まっている。研修は二時間の勤務だが、正直知恵熱が出そうなほど疲れる。研修の前半が、オープン準備の清掃やレジの立ち上げなどで、当面お金関係は不破と天羽がやってくれるらしい。後半はクローズの作業をやることになっている。なので、来週は、閉店までの二時間が勤務時間というわけだ。それが終わったら、週二三日からフルタイムのシフトに入り、慣れたら週四になる。あくまで予定だが。
体、なまってるなぁ。立ち仕事しんどい。
んーっと腰を伸ばしていると、不破がふふ、と笑った。
「商品の都合上、店内冷えるから腰痛いでしょ。余裕ができたら筋トレするといいよ。体幹鍛えると、立ち仕事楽になるし、怪我しなくなるし。」
腰を両手でつかんだポーズでどしっと立つ不破は、なるほど腰痛とは無縁そうだ。
「あー・・・はは。店長鍛えてますもんね。ジムとか行ったり?」
「ジムは週一かな。あとは自宅でやってるよ。楽しいからおススメ。」
「そう・・・ですね。」
曖昧に答えて、首をかしげる。余裕なんてできるもんなのだろうかと。いつまでもいっぱいいっぱいではないだろうが、正直不安が大きい。大好きなジェラートに囲まれて、嬉しい気持ちはあるし、接客の手順も頭では覚えたけれど・・・。
「よし、あとは明日残りの商品覚えて、テストね。できてたら金曜は接客してもらうから。声出しと笑顔!」
不破が、ぽーんと腰を手のひらで叩く。ニッと笑って天羽に顔を向け同意を求めた。
「店長、セクハラですよ。おさわり厳禁です。」
「えぇー。」
ピシャリと言い放つ天羽に、思わず笑みがこぼれる。男同士セクハラもないだろう。とはいえ、距離感が近くて戸惑いはするが。店内が狭いから、それは仕方がないのかもしれなかった。
「高梨さん大丈夫よ。できるようになるまでは、研修中のバッチつくし、お客さんは常連が多いから、わかってくれる。」
天羽の言葉に、それもそうかと思い直し、頑張ります!と笑って見せた。
閉店作業中心の、後半の研修が終わり、土日月と三連休。うまくシフトには入れれば、このペースが続く。いいバイトだなと思う。若いんだし、慣れたら稼ぎたければ副業もありかも知れない。趣味に生きるのもいいし。と思ったところで、趣味かーと、独り言が漏れる。
趣味は、音楽鑑賞と、アニメと漫画である。引きこもってボカロの動画を見たりするのが好き。だから、天羽とは話の合うところもあるかもしれない。話が合うと言えば、二つ下の妹の桃(もも)とも、よく漫画の貸し借りをした。ジャンル的に言えば、むしろ妹の方が、天羽とは仲良くなれるような気がする。なんとなく、これは勘だが、天羽も桃と同じく、いわゆる腐女子なんじゃないかと思うからだ。女の子はみんな、多少なりとも腐っているものである。何であんなに男同士の恋愛が大好きなのか。男としてはよくわからない問題である。そういう文化があるのは知っているし、おススメの漫画も読んだことはある。リアルでもないわけではないだろうが、幸いにして、今まで身近にはいなかった。
「まぁそもそも?人間に告られたことないし。」
猫とかには好かれるんだけどなー、とため息。
でもなぁ。女の子と付き合いたいとかは・・・ないんだよなぁ。付き合うとはつまり、セックスありきでしょ?それはちょっと・・・いらないなぁ。
お店にはやはり、子連れの女性が多い。まだ慣れるほど相手をしたわけではないから、嫌悪感克服への道のりは遠い。天羽には、まったくその気がないことを宣言されているせいか、同僚から友達感覚の付き合いができそうな予感はある。長く付き合っても、たぶん大丈夫な気がする。しかしながら、普通の女性は難しい。職場という新しいコミュニティに入れたことで、孤独感や淋しさもない。だからあえて今、彼女が欲しい、という気持ちはわいてこない。
雄として・・・どうなんだろう・・・。
理由は何であれ、女性とのお付き合いを求めていない、二十代の男性は多い。目立った存在でもない。だたなんとなく、ずっとこのままでいるわけにはいかない、気がするだけである。
お風呂でも入って、のんびり夜を過ごそうか。
立ち上がり、風呂場に向かおうとしたとき、スマホが鳴いた。
しばらく使っていないメールアプリだ。開くと、フラゴラロッサのグループで、不破から飲み会のお知らせである。
「日曜の夜・・・九時。」
遅い時間だが、閉店後なら仕方ない。月末の棚卸の後ならこんなもんだろう。市内の居酒屋の名前と地図が添付されていた。
よかった。ここ知ってる。
自転車で行ける場所だ。こんな時、車があれば安全安心だが、経済的に無理。『自転車置けます?』とメールを打つ。すぐに既読にならないのを見届けて、風呂の支度をしに向かった。
風呂を済ませ布団に入ると、薄い壁越しに声が聞こえてくる。
またか。
ここのところ毎日。女の怒鳴り声と、子供の泣き声。決まって夜遅く・・・。特別疲れていなくても、正直堪える。嫌だなと思うけれど、おさまるまで待つしかない。ノイズキャンセラのイヤホンもあるが、あまり性能は良くない。溜息が出る。壁を叩きたい衝動に駆られるが、それをして母親の機嫌を損ねれば、さらに子供に向かうかもしれないと思うとできないでいた。通報も考えたが、それで状況が改善するのは少数だ。どうしたらいいかわからない。
逃げたい。
母子家庭だという隣に越してきた親子のために、メンタルを病みそうだった。
お金があったら引っ越したいけど・・・。
ちら、と明楽フーズの社員寮の話が頭をよぎる。店舗には遠くなるし、電車代もかかるようになるけれど、家賃は安いし、交通費も半分出る。このところ、夜になるとそのことばかり考えてしまう。
あとで不破に相談しよう。
何度目かの深いため息をついて、スマホで音楽を流す。叫び声は気になるが、どうすることもできない。自分みたいな若い男が、首を突っ込む話ではない気がするからだ。
大家さんに話してみようかな・・・。
大きな掘りごたつのある座敷を占領して、何度目かの乾杯。
何かにつけ飲み会を開いているフラゴラロッサのメンバーには、居酒屋の方も慣れているらしい。日曜の夜は、客の引きも早いはずだが、遅い時間からの予約も、大事にしてくれているようだった。予算を決めて、料理はおまかせの飲み放題。不破が、歓迎会だからタダにしてあげたいけど、メンバーが学生と女の子だから、悪いけど割り勘ね、と手を合わせた。給料日前だから苦しくないわけではないが、たまにのことだし、払えない額でもなかったからと了承して今に至る。
料理は刺身や煮物、サラダに焼き鳥、揚げ物にご飯ものなど。どれも美味しかったし、満足だった。梅酒サワーで、気持ちよく酔って、ぼんやりと向かいの席を眺める。土日バイトの男子大学生二人が、焼きおにぎりを頬張っていた。ひょろりと大きい茶色い短髪が、桐生奏太(きりうそうた)。桐生よりやや背の低い黒髪の童顔が、久我千宏(くがちひろ)。平日シフトの自分とは、あまり接点はないが、飲み会には必ず来るのだとか。桐生はわんこ系で人懐こく、久我はそんな桐生の隣にずっといて、料理を取り分けたり、お酒のお代わりの世話をしたりと、とにかく仲がいい。天羽はそんな二人をつまみに、焼き鳥の皮を食べている。
「・・・あ、不破さん、ランさん呼んでないの?」
久我が、思い出したように不破を見た。
「んー。声はかけといた。どうかな。忙しいみたい。遅くなってもいいなら、って言ってたから、そのうち来るかもね。」
不破は、スマホを取り出して眺めながら答えた。
ランさん?
他に従業員がいる話は聞いていない。誰のことだろう。
首をかしげると、天羽が焼き鳥の串を壺に刺しながら答えてくれた。
「本社の社員でね。店舗研修で、二ヵ月くらいうちに来てた人。今でも飲み会にはたまに参加してるのよね。楓李君とは入れ違いみたいなものね。」
「へぇ?」
そんな人がいるのか。まぁ・・・あまり関係ないかな。
自分はただのバイトである。
「同じジムの会員でね。それもあって、付き合い続いてるんだよね。まぁ、いい男よ。体もね。」
不破が追加情報をくれる。いい男、と聞いて女性じゃないことにほっとした自分がいた。
和やかな時間に安心したのかもしれない。料理も美味しかったが、そこそこ飲んだらしく、いつの間にか眠ってしまっていた。ポンポンと軽く肩を叩かれて、高梨さん、起きて、と声がした。
あれ?いい匂いがする・・・。甘い・・・。
「んん・・・?」
「お水飲みましょう。トイレ大丈夫ですか?」
覚えのある声に目を開けると、緑がかった琥珀色の瞳が覗き込んでいた。
「は?」
え?だれ?
「・・・もしかして、俺のこと忘れちゃいました?」
聞き覚えのあるバリトン。
「おー。伊住さん、高梨君起きた?」
不破が、声の主を伊住と呼ぶ。
「え?あれ?なんでここに?」
頭の中で、名前と声と匂いと目の色が繋がる。けれど、なぜ伊住がここにいるのかがわからない。伊住は、知っているスーツ姿ではなく藍色のかりゆしを着ていた。髪型も幾分ラフである。
「不破さんに誘ってもらって。・・・来るのが遅くなっちゃったので、他のメンバー帰っちゃいましたけど。」
言われて座敷に目をやると、学生組と天羽はもういなかった。
「閉店だからさ、それ飲んだら帰るよ。」
不破は、支払いを済ませたのか、長財布を尻のポケットにしまった。伊住がお冷のグラスを差し出してくれる。受け取って一口飲むと、美味しくて、そのまま一気に空にした。
「ありがとうございます。」
「うん。」
伊住にグラスを返すと、満足そうに口元に笑みを浮かべて頷いた。
「トイレは?」
「あー行っときます。」
答えて立ち上がろうとするが、思いのほか酔っているらしく、クラリとしてよろめいた。
「大丈夫?」
「・・・大丈夫です。」
フラフラしながら靴を履き、店の奥のトイレに向かう。
手を洗って戻ると、不破がいなくなっていた。
「あれ?不破さんは?」
「帰ったよ。」
伊住は何でもないことのように答えたが、それはちょっと困る。
「どうしよ。商店街に自転車置いてて・・・。ここまで不破さんの車で来たんですよね。」
「うん。聞いてる。君のことは送ってあげてって頼まれてるから、安心していいよ。」
気まずい状況かも、と思うのに酒のせいなのかよくわからなくなっていて、なんだかそれが自然なことのように思ってしまう。
そうか。伊住さんが送ってくれるのか。
納得して、素直にお礼を言っていた。
「ありがとうございます。」
「うん。お店、閉まるから行こうか。」
頷いて差し出された手につかまり、歩き出す。家族以外の人間の手を取るのは初めてかも知れない。酔っている自分より少し高い体温と、しっとりとした手の感触がくすぐったかった。伊住は、不破が停めたのとは別の駐車場に向かうらしく、少し歩くねと言い置くと、手を引いて街灯の明かりの下を危なげなく歩いて行く。
「気持ち悪かったりしない?大丈夫?」
言われて、夜空を見上げて考える。
「ん。ふわふわして気持ちいいだけなんで。」
楽しい飲み会だった。お酒も美味しかった。勧められるまま、甘口の日本酒を少し飲み過ぎた。
良い夜だな。
「はは。ご機嫌ですね。」
伊住がクスクス笑う。
「・・・よかった。嫌われたんじゃないみたいだ。」
「え?」
「・・・いえ。また会えたのでいいです。」
なんのことだろう。
首をかしげるも、思考がまとまらない。ふわりと気持ちよくて、手をつないだまま駐車場についた。
煌々とライトがついていて、そこだけやけに明るい。停めてある車はまばらで、伊住はその中の一台に近づくと、ドアに触れた。ピーピーと音がして、ライトが点滅する。どうぞと促されて、名残惜しく思いながら手を解き、助手席に乗り込んだ。甘い伊住の香りが控えめに充満している。それを、好きな匂いだな、と思いながら吸い込んだ。
「閉めますね。」
伊住がぱたんとドアを閉め、ややあってから運転席に乗り込んだ。
「自転車で家まで帰すの危なそうなので、アパートに送りますね。」
「あ、はい。」
自転車のことは、後で考えればいいや・・・。
ぼーっと眠くなってきて、こくりと舟をこいだ拍子に、窓ガラスにぶつかる。ゴツンと音がしたけれど、ヒンヤリとしたガラスが気持ちよくて、そのままぺたりとくっついた。
「・・・眠いです?」
「んー・・・。」
「家に送って、一人で大丈夫です?」
「・・・寝るだけなので。明日休みだし・・・。」
答えると、伊住は思案気に首を傾げた。
「俺のうち来ます?面倒見てあげられるので。」
は?
「え?いや。大丈夫です。」
そんな、ほぼ初対面の人の家に行って、面倒を見てもらうわけにはいかない。
「そうですか?本当に?」
伊住は再度尋ねてくるが、そもそもこの状況がもう図々しい。
かろうじて動き出した思考が、それはだめだろと言っている。
「明日はお休みでしょう?うちでゆっくり過ごして、夜になったら駅まで送りますよ。」
いやいやいや。だめでしょ。
頭の隅でそう思うのに、眠さもあって、なんだかもういろいろどうでもよくなってくる。
これって、お持ち帰り・・・?
まぁでも・・・男同士だし。大丈夫だろ。
「いいですか?」
「・・・はい。」
「じゃぁ、車出すので、シートベルトしてくださいね。寝ていいので。」
頷いて、シュルシュルとベルトを引き出し、カチンとロックする。
「じゃぁ、行きますね。」
「はーい。」
妙に元気に返事をして、そのまま瞼を閉じた。
しばらく静かに走っていたと思うのだが、明るくなった気配に目を開けると、どうやらコンビニの駐車場のようだった。
運転席には伊住がいて、スマホを耳にあてて話している。電話がかかってきて、ここに停めたのだろうか。見ていると、伊住は、待ってねと言うように空いている右手を軽く振って、電話の相手に「おやすみなさい。マユミさん。」と言うと、通話を切った。
「ごめんね。起こしちゃったね。ちょうど、コンビニに寄ったらかかってきちゃって。」
言い訳のように言う伊住に、大丈夫、と返す。伊住は優しく笑うと、ちょっと買い物してくるね、と言い置いてドアを開けた。覗き込むように振り返り、欲しいものある?と聞かれたので、水?と答えると、それは家にあるから大丈夫だよ、と返された。待っててね、と店に入っていくのを見送る。
彼女、だったのかな。
マユミさん、って言ってたし。
彼女がいない方がおかしい伊住の容姿と包容力。経済力もありそうだし、彼はいわゆるスパダリというやつでは、と思う。
BL漫画なら、圧倒的攻めだ。リアルでは、ちゃんとお付き合いしている女性なりがいて、明るい未来が待っていたりするのだろう。結婚している、もありうる。
まぁ、嫁が待ってる家に、男連れ込んだりはしないよな。
考えていると、あっという間に会計を済ませた伊住が、小ぶりな袋を持って帰ってきた。後部座席のドアを開けて袋を置くと、運転席に戻ってくる。
「お待たせ。新商品のアイスが出てるって、ネットで見てね。」
「アイス?」
「うん。市場調査。」
「なるほど?」
高梨さんのぶんあるよと笑われて、車はまた動き出した。
「もうすぐそこだから。」
眠かったら寝てて、と言われるが今更ながらどこを走っているのか気になって、外を眺める。見覚えがあるような気もするが、まったく知らない場所のような気もする。
「ここ、どこです?」
「明楽フーズのビルの近く。」
あぁそれで。
歩いた時とは視点が違うから、よくわからなかったのか。
「帰りは駅まで送るから、心配しなくていいですよ。」
「・・・すみません。」
「酔い、醒めてきました?」
聞かれて、どうだろうかと思うが。
「まだ、ふわふわしてます。」
答えると、じゃぁお風呂はやめておきましょうね。と返された。
そのまま車はどこかの地下に入っていった。
「おはようございます。オリエンテーションで来た、高梨です。」
「高梨さんね。お待たせしてすみません。開けるので、中どうぞ。」
鍵を上下二カ所開けて、厚いガラスの扉を開き、中へと案内される。良く来る場所なのに、明かりのついていない店内は、まるで知らない場所の雰囲気だ。きょろきょろしながら、カウンターの端のスイングドアを通り、薄暗いバックヤードへ。大きな冷凍庫が並ぶその奥に、事務所と思しきスペースがあった。冷凍庫が唸る音が低く響いている。
「狭くてごめんなさいね。荷物はそこの棚に。椅子出して座ってくれる?エアコン入れるけど、すぐには冷えないから。」
言われるまま荷物を置いて、壁に立てかけてあった折り畳みの椅子を開く。失礼しますと座ると、緊張しなくていいよ、と笑われた。
「店長の不破です。よろしくお願いします。」
「高梨です。よろしくお願いします。」
お辞儀すると、不破はにこーっと笑った。半袖のワイシャツに、黒のズボン。布越しにもわかる筋肉。鍛えてそうだな、と見ていると、不破は嬉しそうに口の端を上げた。
「さて。晴海さんが選んでよこした人は、信用してるから、細かいことはおいおい聞くね。・・・じゃぁ、初めにこのお店の基本情報ね。」
そう言って、屋号のフラゴラロッサが赤い苺を意味することから始まり、明楽フーズのジェラート部門として、何番目に出店した店舗であるかというような話をしばらくしたころ、他の従業員が出勤して来た。
よくレジに立っている女性だ。客として見ていた時よりも小柄で、栗毛を頭の後ろで丸く結っていた。童顔で可愛いけれど、年齢不詳だ。
「おはようございますー。あっ、新人さん!よろしくねー。私、天羽一花(あもういちか)。女子は私だけだけど、三次元には興味ないからごめんね!」
さ、んじげん??
思わず首をかしげると、不破がこそっと、一花ちゃんはね、二次元の推しに貢ぐために稼いでるのよ、と教えてくれた。
「何君?」
「あ、高梨です。高梨楓李。」
「ふうり君か。いい名前。アニメとか漫画とか好き?」
嬉々として話し出した天羽を、不破が止める。
「一花ちゃんごめん。時間ないから、そーゆーのはほら飲み会の時にでも。・・・やるでしょ?歓迎会!高梨君来るよね!」
飲み会?
あ、そうだった。飲み会多いって、晴海が言ってたっけ。
歓迎会か。経験上、そういうのは出ておいた方がいいし、仲良くなれたらラッキーだ。
「飲み会、楽しみです。」
愛想よく返事すると、天羽がやったーとこぶしを突き上げて、通路の奥へと消えていった。
「はは。うちの店こんなノリだから。日時はあとで調整するけど、月曜定休だから、日曜の夜かな。・・・話し戻していい?」
聞いていた通りの雰囲気に圧倒されつつ、楽しそうでいいかも、と笑みがこぼれた。
平日は基本、店長と天羽と自分の三人で、営業していくらしい。他に土日のメンバーが二人。大学生の男の子だそうだ。
小さいお店だから、この五人で全部。どうしても人がいないときは、本社から応援が来るのだそうだ。店長の不破は、おおむね事務仕事担当で、忙しい時間と休憩を回す間、入れ替わりで店頭に立つのだとか。ほぼ天羽と二人きりだが、あの感じなら、恋愛に発展したりはしなさそう。良いような悪いような・・・。
その後は、ユニフォームのサイズを確認し、届き次第研修とのこと。パティシエのようなデザインの、白地に赤い飾りボタン。赤いキャスケットと、カフェエプロン。可愛らしいデザインなので、少し不安もあったが、試着してみると意外と着心地もよく、動きやすい。なにより、似合っているとの、不破と天羽の声に、嬉しくなった。更衣スペースも確保されており、ひとまず安心。人前で着替えるのは、苦手だった。
他人の前で脱ぐ可能性のある時は、腿までの薄いアンダーパンツを履いているが、暑くなるし、ここは大丈夫そうだと思った。
見せたくないものの一つや二つ、あるものである。
営業時間になって、あわただしく店を後にした。
想っていたよりも早くユニフォームが届いたので、研修も二日目。初日と同じく、開店一時間前に出勤し、まずは着替え。指先から肘までの洗い方と消毒の仕方を復習して、店内の配置を叩きこむ。今日はその後、商品の名前や材料、特徴などを覚えて、時間があれば盛り付けの練習。定番の十種類を昨日覚えたから、残りの十種を頭に入れる。そのほかに、季節物と、企画物の合わせて二十五種類が店頭のショーケースに収まっている。研修は二時間の勤務だが、正直知恵熱が出そうなほど疲れる。研修の前半が、オープン準備の清掃やレジの立ち上げなどで、当面お金関係は不破と天羽がやってくれるらしい。後半はクローズの作業をやることになっている。なので、来週は、閉店までの二時間が勤務時間というわけだ。それが終わったら、週二三日からフルタイムのシフトに入り、慣れたら週四になる。あくまで予定だが。
体、なまってるなぁ。立ち仕事しんどい。
んーっと腰を伸ばしていると、不破がふふ、と笑った。
「商品の都合上、店内冷えるから腰痛いでしょ。余裕ができたら筋トレするといいよ。体幹鍛えると、立ち仕事楽になるし、怪我しなくなるし。」
腰を両手でつかんだポーズでどしっと立つ不破は、なるほど腰痛とは無縁そうだ。
「あー・・・はは。店長鍛えてますもんね。ジムとか行ったり?」
「ジムは週一かな。あとは自宅でやってるよ。楽しいからおススメ。」
「そう・・・ですね。」
曖昧に答えて、首をかしげる。余裕なんてできるもんなのだろうかと。いつまでもいっぱいいっぱいではないだろうが、正直不安が大きい。大好きなジェラートに囲まれて、嬉しい気持ちはあるし、接客の手順も頭では覚えたけれど・・・。
「よし、あとは明日残りの商品覚えて、テストね。できてたら金曜は接客してもらうから。声出しと笑顔!」
不破が、ぽーんと腰を手のひらで叩く。ニッと笑って天羽に顔を向け同意を求めた。
「店長、セクハラですよ。おさわり厳禁です。」
「えぇー。」
ピシャリと言い放つ天羽に、思わず笑みがこぼれる。男同士セクハラもないだろう。とはいえ、距離感が近くて戸惑いはするが。店内が狭いから、それは仕方がないのかもしれなかった。
「高梨さん大丈夫よ。できるようになるまでは、研修中のバッチつくし、お客さんは常連が多いから、わかってくれる。」
天羽の言葉に、それもそうかと思い直し、頑張ります!と笑って見せた。
閉店作業中心の、後半の研修が終わり、土日月と三連休。うまくシフトには入れれば、このペースが続く。いいバイトだなと思う。若いんだし、慣れたら稼ぎたければ副業もありかも知れない。趣味に生きるのもいいし。と思ったところで、趣味かーと、独り言が漏れる。
趣味は、音楽鑑賞と、アニメと漫画である。引きこもってボカロの動画を見たりするのが好き。だから、天羽とは話の合うところもあるかもしれない。話が合うと言えば、二つ下の妹の桃(もも)とも、よく漫画の貸し借りをした。ジャンル的に言えば、むしろ妹の方が、天羽とは仲良くなれるような気がする。なんとなく、これは勘だが、天羽も桃と同じく、いわゆる腐女子なんじゃないかと思うからだ。女の子はみんな、多少なりとも腐っているものである。何であんなに男同士の恋愛が大好きなのか。男としてはよくわからない問題である。そういう文化があるのは知っているし、おススメの漫画も読んだことはある。リアルでもないわけではないだろうが、幸いにして、今まで身近にはいなかった。
「まぁそもそも?人間に告られたことないし。」
猫とかには好かれるんだけどなー、とため息。
でもなぁ。女の子と付き合いたいとかは・・・ないんだよなぁ。付き合うとはつまり、セックスありきでしょ?それはちょっと・・・いらないなぁ。
お店にはやはり、子連れの女性が多い。まだ慣れるほど相手をしたわけではないから、嫌悪感克服への道のりは遠い。天羽には、まったくその気がないことを宣言されているせいか、同僚から友達感覚の付き合いができそうな予感はある。長く付き合っても、たぶん大丈夫な気がする。しかしながら、普通の女性は難しい。職場という新しいコミュニティに入れたことで、孤独感や淋しさもない。だからあえて今、彼女が欲しい、という気持ちはわいてこない。
雄として・・・どうなんだろう・・・。
理由は何であれ、女性とのお付き合いを求めていない、二十代の男性は多い。目立った存在でもない。だたなんとなく、ずっとこのままでいるわけにはいかない、気がするだけである。
お風呂でも入って、のんびり夜を過ごそうか。
立ち上がり、風呂場に向かおうとしたとき、スマホが鳴いた。
しばらく使っていないメールアプリだ。開くと、フラゴラロッサのグループで、不破から飲み会のお知らせである。
「日曜の夜・・・九時。」
遅い時間だが、閉店後なら仕方ない。月末の棚卸の後ならこんなもんだろう。市内の居酒屋の名前と地図が添付されていた。
よかった。ここ知ってる。
自転車で行ける場所だ。こんな時、車があれば安全安心だが、経済的に無理。『自転車置けます?』とメールを打つ。すぐに既読にならないのを見届けて、風呂の支度をしに向かった。
風呂を済ませ布団に入ると、薄い壁越しに声が聞こえてくる。
またか。
ここのところ毎日。女の怒鳴り声と、子供の泣き声。決まって夜遅く・・・。特別疲れていなくても、正直堪える。嫌だなと思うけれど、おさまるまで待つしかない。ノイズキャンセラのイヤホンもあるが、あまり性能は良くない。溜息が出る。壁を叩きたい衝動に駆られるが、それをして母親の機嫌を損ねれば、さらに子供に向かうかもしれないと思うとできないでいた。通報も考えたが、それで状況が改善するのは少数だ。どうしたらいいかわからない。
逃げたい。
母子家庭だという隣に越してきた親子のために、メンタルを病みそうだった。
お金があったら引っ越したいけど・・・。
ちら、と明楽フーズの社員寮の話が頭をよぎる。店舗には遠くなるし、電車代もかかるようになるけれど、家賃は安いし、交通費も半分出る。このところ、夜になるとそのことばかり考えてしまう。
あとで不破に相談しよう。
何度目かの深いため息をついて、スマホで音楽を流す。叫び声は気になるが、どうすることもできない。自分みたいな若い男が、首を突っ込む話ではない気がするからだ。
大家さんに話してみようかな・・・。
大きな掘りごたつのある座敷を占領して、何度目かの乾杯。
何かにつけ飲み会を開いているフラゴラロッサのメンバーには、居酒屋の方も慣れているらしい。日曜の夜は、客の引きも早いはずだが、遅い時間からの予約も、大事にしてくれているようだった。予算を決めて、料理はおまかせの飲み放題。不破が、歓迎会だからタダにしてあげたいけど、メンバーが学生と女の子だから、悪いけど割り勘ね、と手を合わせた。給料日前だから苦しくないわけではないが、たまにのことだし、払えない額でもなかったからと了承して今に至る。
料理は刺身や煮物、サラダに焼き鳥、揚げ物にご飯ものなど。どれも美味しかったし、満足だった。梅酒サワーで、気持ちよく酔って、ぼんやりと向かいの席を眺める。土日バイトの男子大学生二人が、焼きおにぎりを頬張っていた。ひょろりと大きい茶色い短髪が、桐生奏太(きりうそうた)。桐生よりやや背の低い黒髪の童顔が、久我千宏(くがちひろ)。平日シフトの自分とは、あまり接点はないが、飲み会には必ず来るのだとか。桐生はわんこ系で人懐こく、久我はそんな桐生の隣にずっといて、料理を取り分けたり、お酒のお代わりの世話をしたりと、とにかく仲がいい。天羽はそんな二人をつまみに、焼き鳥の皮を食べている。
「・・・あ、不破さん、ランさん呼んでないの?」
久我が、思い出したように不破を見た。
「んー。声はかけといた。どうかな。忙しいみたい。遅くなってもいいなら、って言ってたから、そのうち来るかもね。」
不破は、スマホを取り出して眺めながら答えた。
ランさん?
他に従業員がいる話は聞いていない。誰のことだろう。
首をかしげると、天羽が焼き鳥の串を壺に刺しながら答えてくれた。
「本社の社員でね。店舗研修で、二ヵ月くらいうちに来てた人。今でも飲み会にはたまに参加してるのよね。楓李君とは入れ違いみたいなものね。」
「へぇ?」
そんな人がいるのか。まぁ・・・あまり関係ないかな。
自分はただのバイトである。
「同じジムの会員でね。それもあって、付き合い続いてるんだよね。まぁ、いい男よ。体もね。」
不破が追加情報をくれる。いい男、と聞いて女性じゃないことにほっとした自分がいた。
和やかな時間に安心したのかもしれない。料理も美味しかったが、そこそこ飲んだらしく、いつの間にか眠ってしまっていた。ポンポンと軽く肩を叩かれて、高梨さん、起きて、と声がした。
あれ?いい匂いがする・・・。甘い・・・。
「んん・・・?」
「お水飲みましょう。トイレ大丈夫ですか?」
覚えのある声に目を開けると、緑がかった琥珀色の瞳が覗き込んでいた。
「は?」
え?だれ?
「・・・もしかして、俺のこと忘れちゃいました?」
聞き覚えのあるバリトン。
「おー。伊住さん、高梨君起きた?」
不破が、声の主を伊住と呼ぶ。
「え?あれ?なんでここに?」
頭の中で、名前と声と匂いと目の色が繋がる。けれど、なぜ伊住がここにいるのかがわからない。伊住は、知っているスーツ姿ではなく藍色のかりゆしを着ていた。髪型も幾分ラフである。
「不破さんに誘ってもらって。・・・来るのが遅くなっちゃったので、他のメンバー帰っちゃいましたけど。」
言われて座敷に目をやると、学生組と天羽はもういなかった。
「閉店だからさ、それ飲んだら帰るよ。」
不破は、支払いを済ませたのか、長財布を尻のポケットにしまった。伊住がお冷のグラスを差し出してくれる。受け取って一口飲むと、美味しくて、そのまま一気に空にした。
「ありがとうございます。」
「うん。」
伊住にグラスを返すと、満足そうに口元に笑みを浮かべて頷いた。
「トイレは?」
「あー行っときます。」
答えて立ち上がろうとするが、思いのほか酔っているらしく、クラリとしてよろめいた。
「大丈夫?」
「・・・大丈夫です。」
フラフラしながら靴を履き、店の奥のトイレに向かう。
手を洗って戻ると、不破がいなくなっていた。
「あれ?不破さんは?」
「帰ったよ。」
伊住は何でもないことのように答えたが、それはちょっと困る。
「どうしよ。商店街に自転車置いてて・・・。ここまで不破さんの車で来たんですよね。」
「うん。聞いてる。君のことは送ってあげてって頼まれてるから、安心していいよ。」
気まずい状況かも、と思うのに酒のせいなのかよくわからなくなっていて、なんだかそれが自然なことのように思ってしまう。
そうか。伊住さんが送ってくれるのか。
納得して、素直にお礼を言っていた。
「ありがとうございます。」
「うん。お店、閉まるから行こうか。」
頷いて差し出された手につかまり、歩き出す。家族以外の人間の手を取るのは初めてかも知れない。酔っている自分より少し高い体温と、しっとりとした手の感触がくすぐったかった。伊住は、不破が停めたのとは別の駐車場に向かうらしく、少し歩くねと言い置くと、手を引いて街灯の明かりの下を危なげなく歩いて行く。
「気持ち悪かったりしない?大丈夫?」
言われて、夜空を見上げて考える。
「ん。ふわふわして気持ちいいだけなんで。」
楽しい飲み会だった。お酒も美味しかった。勧められるまま、甘口の日本酒を少し飲み過ぎた。
良い夜だな。
「はは。ご機嫌ですね。」
伊住がクスクス笑う。
「・・・よかった。嫌われたんじゃないみたいだ。」
「え?」
「・・・いえ。また会えたのでいいです。」
なんのことだろう。
首をかしげるも、思考がまとまらない。ふわりと気持ちよくて、手をつないだまま駐車場についた。
煌々とライトがついていて、そこだけやけに明るい。停めてある車はまばらで、伊住はその中の一台に近づくと、ドアに触れた。ピーピーと音がして、ライトが点滅する。どうぞと促されて、名残惜しく思いながら手を解き、助手席に乗り込んだ。甘い伊住の香りが控えめに充満している。それを、好きな匂いだな、と思いながら吸い込んだ。
「閉めますね。」
伊住がぱたんとドアを閉め、ややあってから運転席に乗り込んだ。
「自転車で家まで帰すの危なそうなので、アパートに送りますね。」
「あ、はい。」
自転車のことは、後で考えればいいや・・・。
ぼーっと眠くなってきて、こくりと舟をこいだ拍子に、窓ガラスにぶつかる。ゴツンと音がしたけれど、ヒンヤリとしたガラスが気持ちよくて、そのままぺたりとくっついた。
「・・・眠いです?」
「んー・・・。」
「家に送って、一人で大丈夫です?」
「・・・寝るだけなので。明日休みだし・・・。」
答えると、伊住は思案気に首を傾げた。
「俺のうち来ます?面倒見てあげられるので。」
は?
「え?いや。大丈夫です。」
そんな、ほぼ初対面の人の家に行って、面倒を見てもらうわけにはいかない。
「そうですか?本当に?」
伊住は再度尋ねてくるが、そもそもこの状況がもう図々しい。
かろうじて動き出した思考が、それはだめだろと言っている。
「明日はお休みでしょう?うちでゆっくり過ごして、夜になったら駅まで送りますよ。」
いやいやいや。だめでしょ。
頭の隅でそう思うのに、眠さもあって、なんだかもういろいろどうでもよくなってくる。
これって、お持ち帰り・・・?
まぁでも・・・男同士だし。大丈夫だろ。
「いいですか?」
「・・・はい。」
「じゃぁ、車出すので、シートベルトしてくださいね。寝ていいので。」
頷いて、シュルシュルとベルトを引き出し、カチンとロックする。
「じゃぁ、行きますね。」
「はーい。」
妙に元気に返事をして、そのまま瞼を閉じた。
しばらく静かに走っていたと思うのだが、明るくなった気配に目を開けると、どうやらコンビニの駐車場のようだった。
運転席には伊住がいて、スマホを耳にあてて話している。電話がかかってきて、ここに停めたのだろうか。見ていると、伊住は、待ってねと言うように空いている右手を軽く振って、電話の相手に「おやすみなさい。マユミさん。」と言うと、通話を切った。
「ごめんね。起こしちゃったね。ちょうど、コンビニに寄ったらかかってきちゃって。」
言い訳のように言う伊住に、大丈夫、と返す。伊住は優しく笑うと、ちょっと買い物してくるね、と言い置いてドアを開けた。覗き込むように振り返り、欲しいものある?と聞かれたので、水?と答えると、それは家にあるから大丈夫だよ、と返された。待っててね、と店に入っていくのを見送る。
彼女、だったのかな。
マユミさん、って言ってたし。
彼女がいない方がおかしい伊住の容姿と包容力。経済力もありそうだし、彼はいわゆるスパダリというやつでは、と思う。
BL漫画なら、圧倒的攻めだ。リアルでは、ちゃんとお付き合いしている女性なりがいて、明るい未来が待っていたりするのだろう。結婚している、もありうる。
まぁ、嫁が待ってる家に、男連れ込んだりはしないよな。
考えていると、あっという間に会計を済ませた伊住が、小ぶりな袋を持って帰ってきた。後部座席のドアを開けて袋を置くと、運転席に戻ってくる。
「お待たせ。新商品のアイスが出てるって、ネットで見てね。」
「アイス?」
「うん。市場調査。」
「なるほど?」
高梨さんのぶんあるよと笑われて、車はまた動き出した。
「もうすぐそこだから。」
眠かったら寝てて、と言われるが今更ながらどこを走っているのか気になって、外を眺める。見覚えがあるような気もするが、まったく知らない場所のような気もする。
「ここ、どこです?」
「明楽フーズのビルの近く。」
あぁそれで。
歩いた時とは視点が違うから、よくわからなかったのか。
「帰りは駅まで送るから、心配しなくていいですよ。」
「・・・すみません。」
「酔い、醒めてきました?」
聞かれて、どうだろうかと思うが。
「まだ、ふわふわしてます。」
答えると、じゃぁお風呂はやめておきましょうね。と返された。
そのまま車はどこかの地下に入っていった。
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