桜はまだか?

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第三章「焼き味噌団子」

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 吹きつける風が温かくなって、江戸の桜も待ってましたとばかりに咲き乱れた。

 仄かな香りが、風に乗って町中に広がる。

 行き交う人々の足取りも、軽やかになるものである。

 だが、神谷源太郎の足取りは重かった。

 理由はただひとつ ―― お七の取調べが、遅々として進んでいなかったからだ。

 お七は、大番屋の仮牢に留め置かれていた。

 通常なら、罪状が固まり次第、大番屋から小伝馬町の牢屋敷へと送られるところである。

 お七も、市左衛門の問いかけに頷いただけとはいえ、一応は火付けを自白しているし、火付けの道具を持っていたので、牢屋敷に送るのに十分であった。

 だが源太郎は、入牢証文を作成するのを躊躇っていた。

 いまいち動機がはっきりしないのだ。

 それだけではない。

 小伝馬町に送れば、お七が酷い扱いを受けるのではないかとの心配もあった。

 小伝馬町にあった牢屋敷には、南町・北町両奉行からだけでなく、勘定奉行や寺社奉行、火付改、そして地方からも囚人が送られてくる。

 故に、その身分も様々で、江戸の町人ばかりでなく、身分の高い武士や神官・僧侶から、お目見え以下の武士、はたまた、火付改が捕まえた極悪人まで放り込まれた。

 もちろん、女性の囚人もいる。

 西口揚屋と呼ばれた特別な造りの牢獄が、それにあてられていた。

 牢屋敷の一切を取り仕切ったのは、囚獄しゅうごくと呼ばれた牢屋奉行の石出帯刀いしでたてわきである。

 一方で、牢内の一切を支配するのが、牢名主という囚人である。

 この下に、牢役人という囚人の組織があった。

 新入りは、牢役人たちに気に入られれば良いが、そうでなければ悲惨な目に合う。

「キメ板」といって、板で打ちのめされたり、人員減らしのために「作造り」と称して、夜の内に口元を押さえられて殺される者もいた。

 ―― 牢内は、将に生き地獄。

 大牢という男の牢内でこの有様だから、自我と情念が渦巻く女牢では、さらに悲惨を極めた。

 源太郎が、お七の入牢証文を作ることを躊躇ったのは、彼女がいまの状況で女牢に入れば、間違いなく女の牢役人たちと面倒を起こすことになると考えたし、「作造り」で殺されでもしたら………………という危惧もあったからだ。

 他にも理由はある。

 入牢すれば、取調べは奉行所で行われることになる。

 取調べのたびに、小伝馬町から奉行所まで囚人を護送せねばならない。

 うら若き乙女が、縄を結わえられて公衆の面前を引き連れられて行く ―― どうにも不憫でならなかった。

 内与力の澤田久太郎からは、

『火付けは大罪だぞ! 自白もして、証拠も挙がっておるのであろう。早く調書を作って、鈴が森送りにしろ!』

 と急き立てられる。

 そこを、

『自白も、市左衛門の問いかけに頷いただけにございます。それに、火付けの訳が明らかではありませんので』

 と弁解していた。

 この弁解も、あながち嘘ではない。

 お七が自分の家の塀に火を付けた理由は、依然判明していない。

 取り調べの最中、お七は呆けたように床を見詰めて、源太郎の手を煩わせている。

 同心の秋山小次郎や小者の貞吉、岡っ引きの栄助たちも、朝から駆け回っているが、これといった明確な証言も証拠も出てこなかった。

 だからといって源太郎も、お七の一件ばかりに関わっているわけにもいかない。

 お七を取り調べている間にも、彼の文机の上は、他の事件の調書が山積みとなっている。

 それを片付けると、組屋敷に帰宅するのは宵五ツ(二十時)ぐらいになる。

 お陰で、最近は娘の幸恵と話もしていない。

 それだけなら良いのだが、幸恵の泣き腫らした寝顔を見ると、可哀相になってしまう。

「お父様はお仕事で遅いので、先にお休みなさいと叱ったのですが、どうしてもお帰りを待つと駄々を捏ねまして……、でも、泣き疲れて眠ってしまったようですわ」

 多恵は、申し訳なさそうに言う。

 申し訳ないのは自分のほうだと、源太郎は思う。

「そうか、可哀相なことをした」

 源太郎は、幸恵の乱れた髪を直してやる。

「火付けの娘さんの件、上手くいきませんの?」

「ん? うむ……」

 源太郎は、幸恵に添い寝をしながら言う。

「よっぽど思い詰めたのでしょうね」

 多恵が夕餉の準備をしていると、幸恵と違った寝息が聞こえてくる。

 見れば、源太郎の瞼が落ちている。

「あなた、お疲れですわ」

 多恵は、源太郎に夜着を掛ける。

 これが、ここ最近の神谷一家の様子であった。
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