桜はまだか?

hiro75

文字の大きさ
上 下
36 / 87
第三章「焼き味噌団子」

2の1

しおりを挟む
 本郷追分を王子稲荷の方へ向けて歩いて行くと、大円寺という結構大きなお寺が見えてくる。

 その裏手に、正仙院はあった。

 福田屋市左衛門の家族が、昨年末の火事で焼け出された際に身を寄せた寺である。

 秋山小次郎は正仙院の門を潜ると、境内を掃き清めていた小僧をつかまえて、住職の居場所を尋ねた。

 住職は本堂にいるとのことである。

 本堂の中に入ると、かび臭さが鼻を突いた。

 小次郎が、

「ごめん」

 と声をかけると、中から柔和な顔をした坊主が出てきた。

 その坊主が住職の道安と名乗ったので、小次郎はお七の件について尋ねた。

「ああ、市左衛門さんのお七坊ですか。この度は、とんだことをしたようで」

 道安は、糸のような細い目を、さらに細くして心配した。

「お七坊?」

「ええ、市左衛門さんとは古くからのお付き合いで、小さいころは吉左衛門さんや助左衛門さんと、よくここにも遊びに来ておりましたよ。転んでも泣かない、我慢強い子でしたよ」

 住職は、当時を懐かしんで遠い目をした。

(なるほど、あの強情さはむかしからだな)

 小次郎は、お七の青白い顔を思い浮かべた。

「本郷一帯が火事になって、市左衛門一家が焼け出されたとき、住職が世話をなされたとか?」

「はい、あれは酷い火事でした。お隣の大円寺さんから火が出ましたが、幸い北風でしたので、この寺は無事でございました。これも、御仏のご加護でございましょう」

 道安は両手を合わせて、口元をもごもごと動かす。

 多分、念仏でも唱えたのだろう。

「で?」

 待たされた小次郎は、先を続けさせた。

「はい、それで……、何でございましたでしょうか?」

「いや、火事です、大円寺の火事。お宅の寺は助かった、その後からです」

「そうそう、はい、この寺は幸いにも助かりました。しかし、南側の方は大変だったようで。市左衛門さんのお店も焼けましたので、私が本堂の離れを使われてはと申し出たのでございますよ」

「市左衛門の家族だけですか?」

「いえ、あと檀家さんや、昔からご縁がございました数組の家族の皆様もです」

「市左衛門の家族は、いつからいつまでいたんです?」

「さあ、どうでしょう……」

 住職は、大きく開いた眉の間を寄せた。

「火事のあった翌日からですから、師走の二十九日ですか。そう、年が迫った忙しい時期でしたから。もうじき正月なのに、『こんな場所しか用意できずに申し訳ない』と私が申しましたら、市左衛門さんは、『とんでもない、屋根のある場所で年を越せるだけでもありがたいです』と申しておられましたから」

「なるほど。で、出て行ったのは?」

「そうですね……、確か、正月の二十五日辺りじゃなかったかと」

「てことは、一月余りか。その間、市左衛門の家族に変わったことはなかったですか? 特に、お七にですが?」

「さて、これといって……、お七坊も、兄の吉左衛門さんと一緒に、市左衛門さんとおさいさんを良く支えておりましたからなあ」

 結局、ここでも目立った収穫はなかった。

「邪魔をしました」

 小次郎が本堂を出て行くと、こちらに歩いて来る侍に目が留まった。

 目が細く、眉のきりりと上がった美青年である。

 小次郎でさえ、思わず立ち止まり、振り返ったほどだ。

 通りを歩けば、町娘たちが放ってはおかないだろう。

 その侍は、小次郎の脇を抜けると本堂に入った。

 小次郎は、先程の小僧をつかまえて、侍の名前を訊いた。

「生田庄之助様です。御旗本の御次男とか。よく経典や書物を借りに来られるのです」

 とのことだった。
しおりを挟む

処理中です...