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第4章「恋文」
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「火付けの咎で捕まった娘でございます。本郷追分の八百屋、福田屋市左衛門の娘、お七でございます。江戸中の噂になっておりますので、知らぬことはないと思いますが」
「さて、私は噂にとんと暗いので。聞きたいことは、それだけですかな? なければ、これで」
庄之助は踵を返そうとしたが、
「生田様」
と、小次郎が鋭い眼差しを向けた。
「秋山殿と言われたかな、縦しんば、私がそのお七とかいう娘と関係があるとして、どうなのです? 火付けをしたのは、そのお七でございましょう。私も、火付けの咎で捕まるのですかな?」
「てめえ! お七は、てめえに逢いたいがために火を付けたんだぞ!」
貞吉が、怒りに顔を真っ赤にした。
貞吉の顔が余りにも恐ろしかったのか、それまで澄まし顔で悠然と佇んでいた庄之助も、流石に少々たじろいだ。
「止さねえかい!」
小次郎が制止しようとするが、貞吉はどうにもおさまらないようだ。
「でもよう、旦那。あっしはこの男をどうしても許せねんで、娘の心を弄びやがて」
「だから止せと言っておるだろう!」
どすの利いた小次郎の声に、貞吉もようやく口をつぐんだ。
庄之助は、唇をわなわなと震わせている。
生まれたときから家来に傅かれて育てられた良家の子息には、少々刺激が強すぎたようである。
「あ、秋山殿、天下の大道で、このような恥辱を受ける言われはありませんぞ。失礼する」
耳まで真っ赤にして出した声は、可哀想なほど裏返っていた。
庄之助が踵を返しきると、
「生田様」
と、怒気を含んだ小次郎の声が響き渡った。
「生田様、そのお七という娘、恋しい男に逢いたいがために火付けをしたのでございます。ただ、恋しい男に逢いたいがために。金をせびられようと、泥棒の片棒を担がされようとも。そして、その男に騙されようとも、お七は恋しい男に逢いたかったのでございます。ただ、それだけでございます」
小次郎は捲くし立てた。
まるで、お七が己の身に乗り移り、溜まりに溜まった想いのたけを噴出するかのように………………
「そのお七の心だけは、分かってもらいたいのでございます」
小次郎は、貞吉が驚くほど深々と頭を下げた。
「そ、それだけですか?」
「はい」
小次郎を睨み付け、
「では」
と庄之助は歩み始めた。
「生田様」
小次郎は、再び庄之助の歩を止めた。
「ま、まだ何か?」
小次郎は、庄之助を真正面から見据える。
「桜の件を覚えておいでですか?」
「桜? 何のことか?」
小次郎は、鬼の形相で庄之助を睨みつける。
ここに来て、ようやく「鬼の秋山」が戻ってきた。
小次郎は、全身の血が煮え滾るような怒りを覚えていた。
握り締めた拳はぶるぶると震え、いまにも庄之助の顔を殴り倒してしまいそうだ。
それを、紙一枚の理性で止めていた。
本当に薄っぺらな紙だ。
何かの拍子に破れてしまうだろう。
だが、耐えねばならぬ。
(己のためじゃねえ、お七のために………………)
行き場のない怒りによって、爪が皮膚を破り、血が滲み出た。
「いえ……、お手間を取らせました」
小次郎は、自ら踵を返した。
「旦那、いいんですか。本当に?」
早足で前を行く小次郎のあとを、貞吉があたふたと追い駆けきた。
「あいつ、桜のことも忘れてやがった。くそっ!」
小次郎は、ひとり毒づいた。
お七は、桜を心待ちにしていた。
庄之助と一緒に桜を見ることを心待ちにしていた。
その桜は、いまを盛りに咲いている。
だが、お七は………………
許せなかった。
小次郎は、庄之助をどうしても許せなかった。
お七のことを、ばっさりと切り捨てた庄之助を許せなかった。
何より、お七が心待ちにしていた約束を、綺麗さっぱりと忘れてしまった男の愚かさが許せなかった。
小次郎は、眉間に皺を寄せ、前を睨みつけながら、桜散りゆく中を大股で歩いて行った。
桜の花びらは、悲しいほどに散り急いでいた。
「さて、私は噂にとんと暗いので。聞きたいことは、それだけですかな? なければ、これで」
庄之助は踵を返そうとしたが、
「生田様」
と、小次郎が鋭い眼差しを向けた。
「秋山殿と言われたかな、縦しんば、私がそのお七とかいう娘と関係があるとして、どうなのです? 火付けをしたのは、そのお七でございましょう。私も、火付けの咎で捕まるのですかな?」
「てめえ! お七は、てめえに逢いたいがために火を付けたんだぞ!」
貞吉が、怒りに顔を真っ赤にした。
貞吉の顔が余りにも恐ろしかったのか、それまで澄まし顔で悠然と佇んでいた庄之助も、流石に少々たじろいだ。
「止さねえかい!」
小次郎が制止しようとするが、貞吉はどうにもおさまらないようだ。
「でもよう、旦那。あっしはこの男をどうしても許せねんで、娘の心を弄びやがて」
「だから止せと言っておるだろう!」
どすの利いた小次郎の声に、貞吉もようやく口をつぐんだ。
庄之助は、唇をわなわなと震わせている。
生まれたときから家来に傅かれて育てられた良家の子息には、少々刺激が強すぎたようである。
「あ、秋山殿、天下の大道で、このような恥辱を受ける言われはありませんぞ。失礼する」
耳まで真っ赤にして出した声は、可哀想なほど裏返っていた。
庄之助が踵を返しきると、
「生田様」
と、怒気を含んだ小次郎の声が響き渡った。
「生田様、そのお七という娘、恋しい男に逢いたいがために火付けをしたのでございます。ただ、恋しい男に逢いたいがために。金をせびられようと、泥棒の片棒を担がされようとも。そして、その男に騙されようとも、お七は恋しい男に逢いたかったのでございます。ただ、それだけでございます」
小次郎は捲くし立てた。
まるで、お七が己の身に乗り移り、溜まりに溜まった想いのたけを噴出するかのように………………
「そのお七の心だけは、分かってもらいたいのでございます」
小次郎は、貞吉が驚くほど深々と頭を下げた。
「そ、それだけですか?」
「はい」
小次郎を睨み付け、
「では」
と庄之助は歩み始めた。
「生田様」
小次郎は、再び庄之助の歩を止めた。
「ま、まだ何か?」
小次郎は、庄之助を真正面から見据える。
「桜の件を覚えておいでですか?」
「桜? 何のことか?」
小次郎は、鬼の形相で庄之助を睨みつける。
ここに来て、ようやく「鬼の秋山」が戻ってきた。
小次郎は、全身の血が煮え滾るような怒りを覚えていた。
握り締めた拳はぶるぶると震え、いまにも庄之助の顔を殴り倒してしまいそうだ。
それを、紙一枚の理性で止めていた。
本当に薄っぺらな紙だ。
何かの拍子に破れてしまうだろう。
だが、耐えねばならぬ。
(己のためじゃねえ、お七のために………………)
行き場のない怒りによって、爪が皮膚を破り、血が滲み出た。
「いえ……、お手間を取らせました」
小次郎は、自ら踵を返した。
「旦那、いいんですか。本当に?」
早足で前を行く小次郎のあとを、貞吉があたふたと追い駆けきた。
「あいつ、桜のことも忘れてやがった。くそっ!」
小次郎は、ひとり毒づいた。
お七は、桜を心待ちにしていた。
庄之助と一緒に桜を見ることを心待ちにしていた。
その桜は、いまを盛りに咲いている。
だが、お七は………………
許せなかった。
小次郎は、庄之助をどうしても許せなかった。
お七のことを、ばっさりと切り捨てた庄之助を許せなかった。
何より、お七が心待ちにしていた約束を、綺麗さっぱりと忘れてしまった男の愚かさが許せなかった。
小次郎は、眉間に皺を寄せ、前を睨みつけながら、桜散りゆく中を大股で歩いて行った。
桜の花びらは、悲しいほどに散り急いでいた。
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