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第5章「桜舞う中で」
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寛永寺の桜も殆ど散ってしまい、初夏の気配が近づいてきた。
日が、俄かに照り出す。
南町奉行甲斐庄飛騨守正親の右足も、頗る調子がいい。
足を庇いながら歩く姿も、ここ最近は見なくなった。
温かな日差しを体全体に受けながら、神谷源太郎は、お七の調書を持った左手をだらりと下げて廊下に佇み、ぼんやりと庭を眺めていた。
お七の一件は、八合目あたりまで到達していた。
お七は、罪状明らかとして、大番屋から小伝馬町の牢屋敷へ移された。
しかし、正親の特別の計らいにより、女囚人たちの中には入れず、揚り屋にひとりだけで押し込められた。
小伝馬町に移されてからは、源太郎がお七を白洲に呼び出し、最終的な罪状の確認を行い、口書爪印をさせた。
町奉行所内には、町奉行自らが取調べを行うためと、吟味方与力が取調べを行うための二つの白洲がある。
事件の容疑者が小伝馬町に入れられたら、まず、吟味方与力によって白洲に呼び出され、取調べを受ける。
そこで罪状を明らかにし、囚人に口書爪印までさせる。
この口書爪印された調書は、そのまま町奉行のところには上げられず、例繰方与力に送られる。
例繰方与力は、過去に同じような事件で下した判例を調べ上げ、それに照らし合わせて本件の刑罰を定めるのである。
例繰方与力が擬律した調書は、さらに用部屋手付同心に送られ、ここで御白洲に必要な書類が全て調えられ、御奉行の下に送られた。
町奉行は、吟味方、例繰方与力、用部屋手付同心の手を経て上がってきた調書をもとに、白州で取り調べを行うのである。
いつもなら、口書爪印をさせた調書を例繰方与力に送った時点で、取り敢えずは一段落、と気持ちも軽くなる源太郎であったが、お七の一件に関しては、どうにも心が重苦しく、遣る方ない気持ちであった。
お七は、源太郎の白州においても、一言も言葉を発せず、じっと波立つ白砂利を眺めていた。
火付けの罪状について、
「おぬしに相違ないのか?」
と問うても、目を落としたままである。
源太郎には分からなかった。
何ゆえ、お七は頑ななまでに一言もしゃべらないのか。
生田庄之助や吉十郎に騙されたと言えば、白洲に手が加えられよう。
庄之助逢いたさに火を付けたと吐露すれば、同情も買えるものである。
たとえ火付けの罪は逃れられないとしても、裁く側の心情も随分と良くなり、遠島に減刑されるかもしれない。
だが、お七はそれをしなかった。
涙すら流さない。
責問い道具を持ち出して、
「これで体を痛めつけるぞ」
と脅しても、お七は顔色ひとつ変えなかった。
(どこまでも強情な娘だ)
いままで、いろいろな罪人を見てきた源太郎も、さすがに呆れてしまった。
(何ゆえ、吐かぬ。それほどまでに、生田とかいう侍との関係を隠したいのか?)
旗本の次男坊と八百屋の娘 ―― 確かに忍ぶ恋ではある。
だが、己の命が差し迫って、隠すほどの問題でもあるまい。
(それとも、生田からしゃべるなと念を押されているのか? いや、脅されているのかもしれん。しかし……)
それでも、自分の命をかけるほどのものであろうか?
通常の罪人なら、己の身可愛さに嘘をついてまで他人のせいにしたがるものだ。
罪人でなくても、責任転換をする輩を、源太郎は嫌というほど見てきている。
それに比べてお七は、まるで聖人君子のごとく座している。
(まさか、生田が上に働きかけて、自分を助けてくれると思っているのではあるまいな?)
しかし、お七の青白い顔を見ていると、そういった希望や期待は微塵も感じられなかった。
むしろ、人生を諦観した仙人の面持ちである。
「女の情念……」
と呟いてみた。
(悟りきったようなお七の顔の下に、いったいどれほどの情欲が渦巻いていたというのだ)
源太郎には分からない。
彼が、役人だから分からないのか?
それとも、堅物だから分からないのか?
はたまた男だから分からないのか?
恐らくは、それらすべてだから分からないのだろう。
「随分と考え込んでおるな」
我に返って振り向くと、五番組与力で例繰方与力の今井作太郎が、白い歯を見せて立っていた。
日が、俄かに照り出す。
南町奉行甲斐庄飛騨守正親の右足も、頗る調子がいい。
足を庇いながら歩く姿も、ここ最近は見なくなった。
温かな日差しを体全体に受けながら、神谷源太郎は、お七の調書を持った左手をだらりと下げて廊下に佇み、ぼんやりと庭を眺めていた。
お七の一件は、八合目あたりまで到達していた。
お七は、罪状明らかとして、大番屋から小伝馬町の牢屋敷へ移された。
しかし、正親の特別の計らいにより、女囚人たちの中には入れず、揚り屋にひとりだけで押し込められた。
小伝馬町に移されてからは、源太郎がお七を白洲に呼び出し、最終的な罪状の確認を行い、口書爪印をさせた。
町奉行所内には、町奉行自らが取調べを行うためと、吟味方与力が取調べを行うための二つの白洲がある。
事件の容疑者が小伝馬町に入れられたら、まず、吟味方与力によって白洲に呼び出され、取調べを受ける。
そこで罪状を明らかにし、囚人に口書爪印までさせる。
この口書爪印された調書は、そのまま町奉行のところには上げられず、例繰方与力に送られる。
例繰方与力は、過去に同じような事件で下した判例を調べ上げ、それに照らし合わせて本件の刑罰を定めるのである。
例繰方与力が擬律した調書は、さらに用部屋手付同心に送られ、ここで御白洲に必要な書類が全て調えられ、御奉行の下に送られた。
町奉行は、吟味方、例繰方与力、用部屋手付同心の手を経て上がってきた調書をもとに、白州で取り調べを行うのである。
いつもなら、口書爪印をさせた調書を例繰方与力に送った時点で、取り敢えずは一段落、と気持ちも軽くなる源太郎であったが、お七の一件に関しては、どうにも心が重苦しく、遣る方ない気持ちであった。
お七は、源太郎の白州においても、一言も言葉を発せず、じっと波立つ白砂利を眺めていた。
火付けの罪状について、
「おぬしに相違ないのか?」
と問うても、目を落としたままである。
源太郎には分からなかった。
何ゆえ、お七は頑ななまでに一言もしゃべらないのか。
生田庄之助や吉十郎に騙されたと言えば、白洲に手が加えられよう。
庄之助逢いたさに火を付けたと吐露すれば、同情も買えるものである。
たとえ火付けの罪は逃れられないとしても、裁く側の心情も随分と良くなり、遠島に減刑されるかもしれない。
だが、お七はそれをしなかった。
涙すら流さない。
責問い道具を持ち出して、
「これで体を痛めつけるぞ」
と脅しても、お七は顔色ひとつ変えなかった。
(どこまでも強情な娘だ)
いままで、いろいろな罪人を見てきた源太郎も、さすがに呆れてしまった。
(何ゆえ、吐かぬ。それほどまでに、生田とかいう侍との関係を隠したいのか?)
旗本の次男坊と八百屋の娘 ―― 確かに忍ぶ恋ではある。
だが、己の命が差し迫って、隠すほどの問題でもあるまい。
(それとも、生田からしゃべるなと念を押されているのか? いや、脅されているのかもしれん。しかし……)
それでも、自分の命をかけるほどのものであろうか?
通常の罪人なら、己の身可愛さに嘘をついてまで他人のせいにしたがるものだ。
罪人でなくても、責任転換をする輩を、源太郎は嫌というほど見てきている。
それに比べてお七は、まるで聖人君子のごとく座している。
(まさか、生田が上に働きかけて、自分を助けてくれると思っているのではあるまいな?)
しかし、お七の青白い顔を見ていると、そういった希望や期待は微塵も感じられなかった。
むしろ、人生を諦観した仙人の面持ちである。
「女の情念……」
と呟いてみた。
(悟りきったようなお七の顔の下に、いったいどれほどの情欲が渦巻いていたというのだ)
源太郎には分からない。
彼が、役人だから分からないのか?
それとも、堅物だから分からないのか?
はたまた男だから分からないのか?
恐らくは、それらすべてだから分からないのだろう。
「随分と考え込んでおるな」
我に返って振り向くと、五番組与力で例繰方与力の今井作太郎が、白い歯を見せて立っていた。
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