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第5章「桜舞う中で」
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貞吉は、酔いつぶれて寝てしまった。
小次郎は舐めるように酒を飲み、源太郎は蕎麦掻がなくなっても席を立とうとはしなかった。
小次郎は、涎を垂らして眠る貞吉を見ながら、源太郎に福田屋のことを語った。
「市左衛門が、倒れたか……」
「へえ、逆におさいのほうが元気になりまして。いや、女は強えですね」
小次郎は、苦笑いしながら言った。
「なるほど、ならば、お七のあの我慢強さは、母親譲りかもしれんな」
「やはり、一言もしゃべりませんか?」
源太郎は頷いた。
「あら、それって強いんじゃないと思いますけど」
二人の話を黙って聞いていたおかつが、口を挟んだ。
「どういうことだ?」
「お七さんが何もしゃべらないのは、我慢強いからじゃなくて、何ていうか……、諦めというか……、燃え尽きたというか……」
おかつは、首を傾げながら言う。
「もう未練はないんだと思います」
「未練はない? 何に?」
「この世にです」
男二人は、眉を顰めた。
「三度も火付けに失敗した。もう恋しい人には会えない。燃え上がった火が消えていくのを見て、神様からも、仏様からも見放されたんだと思ったんでしょうね。彼女の中の恋しい炎も消えてしまった。恋しい人と一緒になれないのなら、この世に生きていても無駄だ。そう思ったんじゃないでしょうか? だから……、もう生きる気力もなくして……」
「そんなことで、生きる気力をなくすのか、女は?」
おかつは、呆れたように小次郎を見た。
「嫌ですよ、これだから男は。女ってぇのは、頭で生きてるんじゃないんですよ。ここで生きてるんです」
おかつは、胸に両手を当てる。
「おめえも、そんなことがあったのかい? 男のことで死にてぇと思ったことが?」
小次郎が問うと、おかつの頬がほんのりと染まった。
「あら、あたしだって、恋のひとつや二つはありますよ。でも、あたしはまだそんな激しい恋をしていないんですよ。ああ、何だろうね、いい年して、こんな話、恥ずかしいったらありゃしない」
おかつは、顔を隠すようにして奥へと入っていった。
その姿を、小次郎と源太郎は笑って見ていた。
一膳飯屋を出たあと、小次郎は屋敷に戻るため、八丁堀に足を向けた。
ふと立ち止まると、自分の足が八丁堀ではなく、神田のほうへ向いているのに気が付いた。
(こりゃいかん。俺は何をやっておるのだ)
踵を返したが、二、三歩行ったところでまた足を止め、振り返った。
「そういう親もあるか……」
と呟いた。
(俺は、あの子にとって、どういう親だったんだろうか?)
その日、小次郎には、神田から吹く風が幾分冷たく感じられた。
小次郎は舐めるように酒を飲み、源太郎は蕎麦掻がなくなっても席を立とうとはしなかった。
小次郎は、涎を垂らして眠る貞吉を見ながら、源太郎に福田屋のことを語った。
「市左衛門が、倒れたか……」
「へえ、逆におさいのほうが元気になりまして。いや、女は強えですね」
小次郎は、苦笑いしながら言った。
「なるほど、ならば、お七のあの我慢強さは、母親譲りかもしれんな」
「やはり、一言もしゃべりませんか?」
源太郎は頷いた。
「あら、それって強いんじゃないと思いますけど」
二人の話を黙って聞いていたおかつが、口を挟んだ。
「どういうことだ?」
「お七さんが何もしゃべらないのは、我慢強いからじゃなくて、何ていうか……、諦めというか……、燃え尽きたというか……」
おかつは、首を傾げながら言う。
「もう未練はないんだと思います」
「未練はない? 何に?」
「この世にです」
男二人は、眉を顰めた。
「三度も火付けに失敗した。もう恋しい人には会えない。燃え上がった火が消えていくのを見て、神様からも、仏様からも見放されたんだと思ったんでしょうね。彼女の中の恋しい炎も消えてしまった。恋しい人と一緒になれないのなら、この世に生きていても無駄だ。そう思ったんじゃないでしょうか? だから……、もう生きる気力もなくして……」
「そんなことで、生きる気力をなくすのか、女は?」
おかつは、呆れたように小次郎を見た。
「嫌ですよ、これだから男は。女ってぇのは、頭で生きてるんじゃないんですよ。ここで生きてるんです」
おかつは、胸に両手を当てる。
「おめえも、そんなことがあったのかい? 男のことで死にてぇと思ったことが?」
小次郎が問うと、おかつの頬がほんのりと染まった。
「あら、あたしだって、恋のひとつや二つはありますよ。でも、あたしはまだそんな激しい恋をしていないんですよ。ああ、何だろうね、いい年して、こんな話、恥ずかしいったらありゃしない」
おかつは、顔を隠すようにして奥へと入っていった。
その姿を、小次郎と源太郎は笑って見ていた。
一膳飯屋を出たあと、小次郎は屋敷に戻るため、八丁堀に足を向けた。
ふと立ち止まると、自分の足が八丁堀ではなく、神田のほうへ向いているのに気が付いた。
(こりゃいかん。俺は何をやっておるのだ)
踵を返したが、二、三歩行ったところでまた足を止め、振り返った。
「そういう親もあるか……」
と呟いた。
(俺は、あの子にとって、どういう親だったんだろうか?)
その日、小次郎には、神田から吹く風が幾分冷たく感じられた。
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