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第5章「桜舞う中で」
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御白洲に出座するまえ、甲斐庄飛騨守正親は当番方与力中村八太郎の横に座している珍客に驚いた。
澤田久太郎である。
内与力は奉行所の玄関脇につめ、白州に顔を出すことはない。
その久太郎が、狐目を更につり上がらせて座っているのである。
隣にいる八太郎は、煙たげな目で久太郎をちらちらと見ていた。
「珍しいの、澤田が白洲に来るとは。それほど、お七のことが気になるか?」
「この澤田も、ときには殿の鮮やかな御白洲を拝見させていただきたくなりまして」
正親は、
(わしが、お七に同情しないように見張っておるのじゃろう)
と苦笑いした。
「そうか、では澤田に、わしの見事な裁き、見せてやろうぞ」
正親は、久太郎の肩をぽんと叩いて出座した。
白砂利の中央に筵を敷き、お七はその上に座って、頭を下げていた。
下男が、彼女を結わえた縄尻を確りと確保している。
後ろには、差添人である名主の仙太郎が平伏していた。
お七の前には、左右に蹲居同心が六尺棒を持って控えている。
一段高い座敷には、左に吟味方与力の神谷源太郎、右に例繰方与力の今井作太郎が座り、その隣に書役同心が机に向っていた。
中央に座すと、正親はお七に面を上げさせた。
顔を上げたお七に、ほうっと目を見張った。
お七の目は美しかった。
どこまでも透通っているように見えた。
(こんな素直な目をした娘が、火付けをするのか?)
と訝った。
(いや、あまりに素直過ぎてしまったのやもしれんな。この世は濁っておる、お七のような娘が住めるところではなかったのやもしれぬ)
御白洲は、型通りに進んだ。
吟味方の神谷源太郎がお七に問い、これにお七が、こくり、こくりと人形のように黙って頷くだけだった。
御奉行の白洲といっても、よっぽどのことがない限り、奉行自ら囚人に問うことはない。
大抵は、吟味方の確認で終わり、生命刑等の重犯罪以下ならば、その場で決済された。
お七の場合は、火罪または死罪の生命刑である。
伺い書を作成し、これを老中に上げ、老中から将軍の裁可をいただく必要がある。
この御白洲も、罪状の確認という簡単なものになるはずであった。
源太郎の吟味は終わった。
このあと吟味方から、
「御奉行、何かございますでしょうか?」
とあって、
「否」
と御奉行が答えれば、それで御白洲は一先ず終わる。
源太郎が型どおりに、
「御奉行、何かございますでしょうか?」
と正親に訊いた。
すると、正親はすすすっと前に進み出て、
「お七!」
と、白洲の人に呼びかけた。
これを見ていた源太郎や今井作太郎、そして他の役人たちは驚いた。
もちろん、隣室にいた久太郎や八太郎も驚き、久太郎なぞは思わず身を乗り出したほどであった。
御奉行は、囚人の前では、例え夏でも扇子を使わず、冬でも火鉢を使わず、威厳を正して座しているものである。
まして、膝を崩して進み出て、直接囚人と言葉を交わすことなど以ての外であった。
だが、正親は白洲間際まで進み出て、
「お七!」
と、呼びかけたのである。
その呼びかけに、お七も青白い顔を上げた。
「お七よ」
正親は、まるで自分の娘に語りかけるように言った。
「お前の心、この飛騨守、分からんでもない。恋しい人を想い、恋しい人に逢いたいという心は誰にでもあるし、それを誰も笑うことはできぬ。そうであろう?」
お七は、じっと正親の顔を見つめている。
「だがな、火を付けるのはいけねぇ。お前がその恋しい人に逢いたいのは分かるが、だがな、火付けはいけねぇよ。今回は小火程度で済んだが、もしあれが広がってたら、お前さんの親が焼け死んだかもしれないんだぜ。ここまで育ててもらった恩を、火付けで返すなんざ、人の道に反しやしねぇかい。それだけじゃねえ、風があったなら御府内に広がって、多くの人が焼け死んでたところなんだぜ。そうだろうよ。その中には、恋しい女房や夫を失う人、親を亡くす子どもだっていたかもしれん。それだけじゃねぇよ、子を亡くす親だっていたかもしれんのだぞ」
隣室の久太郎は、眉毛一本も動かさず、正親の話に聞き耳を立てている。
「お前の想いを成就させるために、その多くの人の想いを踏み躙ることはどうだろうか? お前さん、それで恋しい男と一緒になれて気持ちが良いかい?」
正親には、お七の目が淡く沈んでゆくのが分かった。
「この世は、お前さんには住みづらい世だったな。お七よ、いずれ、恋しい人と誰の目も気にせずに逢瀬を交わせる日が来るだろうよ。そんときには、その真っ直ぐな、素直な目を持って、もう一度この世に生まれてくるんだぜ、良いな」
お七の差添人であった名主の仙太郎は、ぼろぼろと涙を零した。
白洲にいた役人たちも、鼻を啜り上げている。
作太郎の御仕置裁許帳の文字は、淡く滲んでいた。
源太郎も、熱くなった涙腺をぐっと堪えた。
正親は、穏やかな口調で言った。
「それまで、ゆっくりと休むがいいよ」
お七は、ゆっくりと頭を下げた。
それは、捕まって以来はじめて見せる彼女の意思表示であった。
正親が退座すると、すでに久太郎の姿はなかった。
澤田久太郎である。
内与力は奉行所の玄関脇につめ、白州に顔を出すことはない。
その久太郎が、狐目を更につり上がらせて座っているのである。
隣にいる八太郎は、煙たげな目で久太郎をちらちらと見ていた。
「珍しいの、澤田が白洲に来るとは。それほど、お七のことが気になるか?」
「この澤田も、ときには殿の鮮やかな御白洲を拝見させていただきたくなりまして」
正親は、
(わしが、お七に同情しないように見張っておるのじゃろう)
と苦笑いした。
「そうか、では澤田に、わしの見事な裁き、見せてやろうぞ」
正親は、久太郎の肩をぽんと叩いて出座した。
白砂利の中央に筵を敷き、お七はその上に座って、頭を下げていた。
下男が、彼女を結わえた縄尻を確りと確保している。
後ろには、差添人である名主の仙太郎が平伏していた。
お七の前には、左右に蹲居同心が六尺棒を持って控えている。
一段高い座敷には、左に吟味方与力の神谷源太郎、右に例繰方与力の今井作太郎が座り、その隣に書役同心が机に向っていた。
中央に座すと、正親はお七に面を上げさせた。
顔を上げたお七に、ほうっと目を見張った。
お七の目は美しかった。
どこまでも透通っているように見えた。
(こんな素直な目をした娘が、火付けをするのか?)
と訝った。
(いや、あまりに素直過ぎてしまったのやもしれんな。この世は濁っておる、お七のような娘が住めるところではなかったのやもしれぬ)
御白洲は、型通りに進んだ。
吟味方の神谷源太郎がお七に問い、これにお七が、こくり、こくりと人形のように黙って頷くだけだった。
御奉行の白洲といっても、よっぽどのことがない限り、奉行自ら囚人に問うことはない。
大抵は、吟味方の確認で終わり、生命刑等の重犯罪以下ならば、その場で決済された。
お七の場合は、火罪または死罪の生命刑である。
伺い書を作成し、これを老中に上げ、老中から将軍の裁可をいただく必要がある。
この御白洲も、罪状の確認という簡単なものになるはずであった。
源太郎の吟味は終わった。
このあと吟味方から、
「御奉行、何かございますでしょうか?」
とあって、
「否」
と御奉行が答えれば、それで御白洲は一先ず終わる。
源太郎が型どおりに、
「御奉行、何かございますでしょうか?」
と正親に訊いた。
すると、正親はすすすっと前に進み出て、
「お七!」
と、白洲の人に呼びかけた。
これを見ていた源太郎や今井作太郎、そして他の役人たちは驚いた。
もちろん、隣室にいた久太郎や八太郎も驚き、久太郎なぞは思わず身を乗り出したほどであった。
御奉行は、囚人の前では、例え夏でも扇子を使わず、冬でも火鉢を使わず、威厳を正して座しているものである。
まして、膝を崩して進み出て、直接囚人と言葉を交わすことなど以ての外であった。
だが、正親は白洲間際まで進み出て、
「お七!」
と、呼びかけたのである。
その呼びかけに、お七も青白い顔を上げた。
「お七よ」
正親は、まるで自分の娘に語りかけるように言った。
「お前の心、この飛騨守、分からんでもない。恋しい人を想い、恋しい人に逢いたいという心は誰にでもあるし、それを誰も笑うことはできぬ。そうであろう?」
お七は、じっと正親の顔を見つめている。
「だがな、火を付けるのはいけねぇ。お前がその恋しい人に逢いたいのは分かるが、だがな、火付けはいけねぇよ。今回は小火程度で済んだが、もしあれが広がってたら、お前さんの親が焼け死んだかもしれないんだぜ。ここまで育ててもらった恩を、火付けで返すなんざ、人の道に反しやしねぇかい。それだけじゃねえ、風があったなら御府内に広がって、多くの人が焼け死んでたところなんだぜ。そうだろうよ。その中には、恋しい女房や夫を失う人、親を亡くす子どもだっていたかもしれん。それだけじゃねぇよ、子を亡くす親だっていたかもしれんのだぞ」
隣室の久太郎は、眉毛一本も動かさず、正親の話に聞き耳を立てている。
「お前の想いを成就させるために、その多くの人の想いを踏み躙ることはどうだろうか? お前さん、それで恋しい男と一緒になれて気持ちが良いかい?」
正親には、お七の目が淡く沈んでゆくのが分かった。
「この世は、お前さんには住みづらい世だったな。お七よ、いずれ、恋しい人と誰の目も気にせずに逢瀬を交わせる日が来るだろうよ。そんときには、その真っ直ぐな、素直な目を持って、もう一度この世に生まれてくるんだぜ、良いな」
お七の差添人であった名主の仙太郎は、ぼろぼろと涙を零した。
白洲にいた役人たちも、鼻を啜り上げている。
作太郎の御仕置裁許帳の文字は、淡く滲んでいた。
源太郎も、熱くなった涙腺をぐっと堪えた。
正親は、穏やかな口調で言った。
「それまで、ゆっくりと休むがいいよ」
お七は、ゆっくりと頭を下げた。
それは、捕まって以来はじめて見せる彼女の意思表示であった。
正親が退座すると、すでに久太郎の姿はなかった。
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