桜はまだか?

hiro75

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終章「春の夢」

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 ひとりの男が、神田にある小さな一膳飯屋を遠巻きに見ていた。

 その飯屋の前には、お竹の一人娘のお滝が一人で遊んでいる。

 卯吉やお竹は、店で忙しく働いているようだ。

 男は、お滝に近づいた。

「何してるんでぃ?」

 男が訊くと、お滝は大きな瞳を向けて、

「絵を描いてるの」

 と言った。

「そうかい」

 男は、お滝に優しい視線を送った。

「そうだ、お嬢ちゃんに良いものをやろう」

 男は、袂の中から包み紙を取り出す。

 焼き味噌団子だ。

 お滝は目を丸くして、手を伸ばした。

 が、すぐに引っ込めた。

「いらない。知らない人にものをもらっちゃだめだって、おっかさんに言われてるの」

 首を振った。

「そうかい。そうだな、お嬢ちゃんは良い子だ、おっかさんの言いつけを守って。これは、おっかさんの言いつけを守ったご褒美だよ」

「ご褒美?」

「そう、ご褒美だから、もらっていんだよ」

 お滝は、にんまりと笑い、包み紙を受け取った。

 お滝は、団子をお日様に翳したあと、ぽんと口に放り込んだ。

「どうだい、美味しいかい?」

 お滝は、嬉しそうに大きく頷いた。

 男は、幼子のころころと動く頬を眺めながら、袂から包み紙とは別のものを取り出した。

 男は、手の中のそれをしばらく見つめて、お滝に言った。

「お嬢ちゃん、これをおっかさんに渡してもらえないかい」

 それをお滝に差し出した。

「それも、ご褒美?」

 お滝は躊躇した。

「これは……、いや、そうだな。これは、店で一生懸命働いているおっかさんのご褒美だ」

 男の言葉に納得したのか、お滝はそれを受け取ると、

「うん」

 と大きな返事をして、店の中に入って行った。

「おっかさん、おじさんがこれ、おっかさんにご褒美って」

 お滝は、手の中のものを、お腹の大きなお竹に渡した。

「ご褒美? おじさんって?」

「知らないおじさん」

「お滝! あれほど知らない人から、ものをもらっちゃだめだって言ってあるだろう」

 お竹は叱った。

「だって、ご褒美だって……」

 お滝の黒目勝ちの大きな目が、薄っすらと霞んだ。

「で、何をもらったの?」

 お竹は、紅葉大の手の中を覗き込む。

 それは、安産のお守りだ。

「お滝……、これを渡したのって、貞吉じゃないの?」

 お滝は首を振った。

 その拍子に、ぽろりぽろりと雫が落ちた。

「違う、黒い着物着たお侍様」

 お竹は、店の外に飛び出した。

 そこに、かの人の後姿はなかった。

「お父さん……」

 お竹は、お守りをぐっと握り締めた。

 どこからか、

「へっくしょん」

 と聞こえてきた。
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