87 / 87
終章「春の夢」
5(完)
しおりを挟む
卯月の月番は、北町である。
神谷源太郎は、久々に丸一日休みを取って、娘幸恵と遊んでやった。
一ヶ月近くもまともに顔を合わせていなかったので、はじめはぶすっとしていた。
だが、そのうち顔も綻び、いつもの甘えん坊の幸恵に戻った。
久々の父のお馬に、幸恵は頬を上気させて喜び、くたくたになるまで遊んだ。
昼過ぎには、遊び疲れと初夏の温かさが重なって、すやすやと寝入ってしまった。
幸恵から解放された源太郎は、ぐっと背伸びをした。
体中の筋肉が解されていくようで、気持ちが良かった。
「あなた、お疲れでしょう、お茶が入りました」
妻の多恵が、茶とお茶請けを持って来た。
源太郎は、それを美味そうに啜った。
「お七さんの一件、終わりましたわね」
ぼそりと多恵が呟いた。
「うむ、今度ばかりは、わしも気が重かったわ」
「本当に……」
「しかしお七は……、幸せだったのだろうか? 好いた男に騙された形になったのだから」
「その件は、お七さんには?」
「いや、話してはおらん。御奉行が、『男の裏切りを知ったならば、お七は死んでも死に切れんだろう。最後は、心安らかに死なせてやろう』と申されてな」
「そうですか……」
源太郎は、ふっと溜息をつく。
「多分……、幸せだったのですわ」
と、多恵が呟いた。
「ん?」
「お七さんです。きっと幸せだったはずです。一生懸命に、ひとりの人を想うことができたのですから。ひとりの殿方を想い続けることができたのですから。例え一時でも、春の夢を見ることができたのですから」
「春の夢か……、そうだな。多恵、お前は春の夢を見たことがあるのか?」
源太郎が訊いた。
多恵は、豊かな頬を桜色に染める。
「いま、見ております」
とたとたと、たどたどしい足音がする。
「父様、もっと遊んでください」
眠い目を擦りながら、幸恵がやって来た。
「おう、そうか、そうか」
源太郎は幸恵を抱きかかえた。
柔らかい匂いが、源太郎の鼻を擽る。
(春の夢か……、そうかも知れんな)
源太郎は、幸恵を抱いて縁側に出た。
多恵は、初夏の日差しに映える源太郎と幸恵の後ろ姿を、優しく見守っている。
江戸は、まもなく夏である。
(『桜はまだか?』 完)
神谷源太郎は、久々に丸一日休みを取って、娘幸恵と遊んでやった。
一ヶ月近くもまともに顔を合わせていなかったので、はじめはぶすっとしていた。
だが、そのうち顔も綻び、いつもの甘えん坊の幸恵に戻った。
久々の父のお馬に、幸恵は頬を上気させて喜び、くたくたになるまで遊んだ。
昼過ぎには、遊び疲れと初夏の温かさが重なって、すやすやと寝入ってしまった。
幸恵から解放された源太郎は、ぐっと背伸びをした。
体中の筋肉が解されていくようで、気持ちが良かった。
「あなた、お疲れでしょう、お茶が入りました」
妻の多恵が、茶とお茶請けを持って来た。
源太郎は、それを美味そうに啜った。
「お七さんの一件、終わりましたわね」
ぼそりと多恵が呟いた。
「うむ、今度ばかりは、わしも気が重かったわ」
「本当に……」
「しかしお七は……、幸せだったのだろうか? 好いた男に騙された形になったのだから」
「その件は、お七さんには?」
「いや、話してはおらん。御奉行が、『男の裏切りを知ったならば、お七は死んでも死に切れんだろう。最後は、心安らかに死なせてやろう』と申されてな」
「そうですか……」
源太郎は、ふっと溜息をつく。
「多分……、幸せだったのですわ」
と、多恵が呟いた。
「ん?」
「お七さんです。きっと幸せだったはずです。一生懸命に、ひとりの人を想うことができたのですから。ひとりの殿方を想い続けることができたのですから。例え一時でも、春の夢を見ることができたのですから」
「春の夢か……、そうだな。多恵、お前は春の夢を見たことがあるのか?」
源太郎が訊いた。
多恵は、豊かな頬を桜色に染める。
「いま、見ております」
とたとたと、たどたどしい足音がする。
「父様、もっと遊んでください」
眠い目を擦りながら、幸恵がやって来た。
「おう、そうか、そうか」
源太郎は幸恵を抱きかかえた。
柔らかい匂いが、源太郎の鼻を擽る。
(春の夢か……、そうかも知れんな)
源太郎は、幸恵を抱いて縁側に出た。
多恵は、初夏の日差しに映える源太郎と幸恵の後ろ姿を、優しく見守っている。
江戸は、まもなく夏である。
(『桜はまだか?』 完)
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
2
この作品は感想を受け付けておりません。
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる