76 / 378
第二章「槻の木の下で」 前編
第8話
しおりを挟む
鎌子が、旻の講堂に通うようになって数週間が過ぎた。
飛鳥で勉強したいと言い出した時には、父も母も喜んだが、それが司祭の勉強でなく、仏教や大陸の学問だと知ると、彼らは肩を落とした。
特に父の御食子は、仏教や大陸の学問を退廃的な思想で、我が神国には馴染まないと考えて毛嫌いしていたが、息子が少しはやる気になったのを考慮して、これを認めてやった。
彼は、ひたすら勉強した ―― いままでの遅れを取り戻すために。
それだけではない。
彼は、初めて気が付いたのだ。
新しい知識を得ることが、どれほど楽しいことであるかということを。
彼は、ありとあらゆるものを学んだ。
それは、仏教から周易、孔子から孫子まで多岐に渡った。
人一倍、勉強した。
だからと言って、彼が飛切り優秀であるかというと、そういう訳でもなかった。
多くの人が、鎌子が一生懸命勉強する姿を見て、こうからかった。
「あいつ、木簡の海に溺れてるぞ」
しかし、彼にはこの海を渡り切る自信があった。
俺には、旻様がいる。
溺れ掛かったら、必ず助けてくれる。
彼は、そう信じていた。
旻の講堂に来て、話相手もできた。
鎌子は、誰よりも遅くこの講堂に入ったために、席は一番後ろであったが、その隣は大伴吹負連が陣取っていた。
吹負の父は大伴咋子連で、鎌子の母、智仙娘は彼の姉にあたる。
即ち、彼らは年の近い、叔父と甥の関係であった。
因みに、大伴長徳連は吹負の兄である。
吹負とは、難波にいた時に挨拶をする程度であったが、ここに来て急に親しくなった。
そして、飛鳥の大伴の屋敷も頻繁に訪れるようになり、酒の共をするまでになった。
鎌子はいける口である。
難波津の盛り場で鍛えられた。
そして何より、酒宴の雰囲気が好きであった。
しかし、その鎌子にして、大伴家の酒宴で絶えられないことがあった。
それは大伴家が、いい出来具合になると歌を詠いだすことであった。
これには、鎌子は参っていた。
それまで心地よく酔っ払っていたのが、誰からか一節が始まった途端、彼の酔いは一遍に醒めてしまうのである。
彼は、歌が苦手である。
他のことなら如何とでもなりそうだが、歌だけは持って生まれた才能が必要だ。
漢詩も、教養として覚えさせられた。
倭言葉の歌もやってみた。
しかし、彼が詠い出すと、決まって周囲の者たちは笑い出すのだ。
大伴家の酒宴の席上でも、毎回、
「お前は、相変わらず下手だな」
と、吹負の一言がある。
長徳からも、
「俺の息子たちの方が、まだ、上手いぞ」
と言われ、最近では、その馬飼の息子の御行と安麻呂からも、
「鎌子兄さん、全然成長しないね」
と、笑われる始末であった。
鎌子も、如何して武人のこの人たちがこんなに歌が上手くて、俺は駄目なのだろうと思うのだが、その実、自分の才能に半ば諦めているのであった。
飛鳥で勉強したいと言い出した時には、父も母も喜んだが、それが司祭の勉強でなく、仏教や大陸の学問だと知ると、彼らは肩を落とした。
特に父の御食子は、仏教や大陸の学問を退廃的な思想で、我が神国には馴染まないと考えて毛嫌いしていたが、息子が少しはやる気になったのを考慮して、これを認めてやった。
彼は、ひたすら勉強した ―― いままでの遅れを取り戻すために。
それだけではない。
彼は、初めて気が付いたのだ。
新しい知識を得ることが、どれほど楽しいことであるかということを。
彼は、ありとあらゆるものを学んだ。
それは、仏教から周易、孔子から孫子まで多岐に渡った。
人一倍、勉強した。
だからと言って、彼が飛切り優秀であるかというと、そういう訳でもなかった。
多くの人が、鎌子が一生懸命勉強する姿を見て、こうからかった。
「あいつ、木簡の海に溺れてるぞ」
しかし、彼にはこの海を渡り切る自信があった。
俺には、旻様がいる。
溺れ掛かったら、必ず助けてくれる。
彼は、そう信じていた。
旻の講堂に来て、話相手もできた。
鎌子は、誰よりも遅くこの講堂に入ったために、席は一番後ろであったが、その隣は大伴吹負連が陣取っていた。
吹負の父は大伴咋子連で、鎌子の母、智仙娘は彼の姉にあたる。
即ち、彼らは年の近い、叔父と甥の関係であった。
因みに、大伴長徳連は吹負の兄である。
吹負とは、難波にいた時に挨拶をする程度であったが、ここに来て急に親しくなった。
そして、飛鳥の大伴の屋敷も頻繁に訪れるようになり、酒の共をするまでになった。
鎌子はいける口である。
難波津の盛り場で鍛えられた。
そして何より、酒宴の雰囲気が好きであった。
しかし、その鎌子にして、大伴家の酒宴で絶えられないことがあった。
それは大伴家が、いい出来具合になると歌を詠いだすことであった。
これには、鎌子は参っていた。
それまで心地よく酔っ払っていたのが、誰からか一節が始まった途端、彼の酔いは一遍に醒めてしまうのである。
彼は、歌が苦手である。
他のことなら如何とでもなりそうだが、歌だけは持って生まれた才能が必要だ。
漢詩も、教養として覚えさせられた。
倭言葉の歌もやってみた。
しかし、彼が詠い出すと、決まって周囲の者たちは笑い出すのだ。
大伴家の酒宴の席上でも、毎回、
「お前は、相変わらず下手だな」
と、吹負の一言がある。
長徳からも、
「俺の息子たちの方が、まだ、上手いぞ」
と言われ、最近では、その馬飼の息子の御行と安麻呂からも、
「鎌子兄さん、全然成長しないね」
と、笑われる始末であった。
鎌子も、如何して武人のこの人たちがこんなに歌が上手くて、俺は駄目なのだろうと思うのだが、その実、自分の才能に半ば諦めているのであった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる