法隆寺燃ゆ

hiro75

文字の大きさ
169 / 378
第三章「皇女たちの憂鬱」 中編

第21話

しおりを挟む
 十二月二十四日、宝大王は難波宮に行幸し、百済援軍の諸準備を開始した。

 西海を渡るための軍船は、駿河国するがのくに(静岡県)に勅をして造らせた。

 が、出来上がった軍船が、難波津に回航されてくる間に不吉なことが起こる。

 続麻郊おみの(三重県明和町祓川河口域)に停泊した軍船の艫と舳が、夜中のうちに反転してしまったのである。

 人々は、敗戦の前触れではないかと噂した。

 また、科野国しなののくに(長野県)から、『蝿の群れが西に向かって、巨坂おおさか(神坂峠)を飛び越えて行った。群れの大きさは十囲ほど、高さは天に届くほどでした』との報告があった。

 これもまた、援軍が負ける前兆ではないかと噂し合った。

「どうもいけませんな、国が纏まるどころか、百済救援に対して非難の嵐ですぞ」

 蘇我連子大臣そがのむらじこのおおおみは、鎌子を見て言った。

 彼は蘇我赤兄の兄で、一応、飛鳥派の代表ということで、中大兄の推挙により、巨勢徳太亡き後、空席となっていた大臣の坐を占めている。

 が、大して政治的能力には優れた人材というわけではない。

 事の発端の鎌子は恐縮した。

 難波宮の大殿に集った重臣たちは、百済援軍が思うように編成されない事態を憂慮していた。

「しかし、内臣殿の考えは間違ってはいないと思いますが。要は、方法の問題なのですよ」

 鎌子に助け舟を出したのが、赤兄である。

「で、赤兄には、何か良い考えがあるのか?」

「はい、よく言うではないですか、迷った時は前例に倣えと」

「前例?」

 群臣は顔を見合わせる ―― 前例とは何であろうか?

足仲彦大王たらしんがひこのおおきみ気長足姫尊おきながたらしひめのみことの故事に倣うのです」

 足仲彦大王とは仲哀ちゅうあい天皇、気長足姫尊は神功じんぐう皇后のことである。

「足仲彦大王と気長足姫尊の故事というと、大王自らが西海を渡り、百済救援に向かうというのか?」

 仲哀天皇は、自ら兵を率いて熊襲を平定しようとした天皇である。

 彼は道半ばで亡くなってしまうが、神功皇后が彼の意志を継ぎ、熊襲を平定する。

 さらに彼女は、兵を率いて半島に渡り、新羅征伐を行ったのである。

 が、これはあくまで伝説で、事実かどうかは分からない。

「大王が西海を渡るのは行き過ぎにしても、大王が援軍を率いて、我が国の最前線まで西征なされば、西国の豪族たちも恐れをなすはずです。それでも従わない豪族には、大王自ら説得なさるか、はたまた征伐なされるかすれば宜しいのです」

「確かに、大王自らが兵を率いて西征なされば、豪族に対するこれ程の効果はないでしょう。しかし、足仲彦大王と気長足姫尊といっても男大迹大王おおどのおおきみ(継体天皇)より以前の、王家の伝説上の大王の話ですよ。しかも、男大迹大王以降、大王自ら兵を率いたことはございません」

 鎌子は、赤兄に詰め寄る。

「いままでは……でしょう? いまからは、そういうこともあるのです。しかも今回は国の大事、そんな悠長なことは言っておられないのではないですか? そもそも、百済救援は国を纏める好機と、大王に進言なさったのは内臣殿ですぞ。この段階で纏まるどころか、飛鳥を非難している豪族がいるようでは、次の段階も考えないといけないのではないですかな?」

 これを聞いた鎌子は、口を閉ざすしかなかった。

 赤兄が、宝大王の西征を勧めたのには、彼が言ったとおり神功皇后の故事に倣うという意図があった。

 しかし、それは新羅征伐の故事ではなく、新羅征伐後に応神おうじん天皇を身篭ったまま難波に帰還し、彼を大王の位に就けたという故事の方であった。

 赤兄はこの故事に倣い、宝大王が百済救援後に飛鳥に帰京し、中大兄に王位を譲るという大舞台を準備しようとしていたのだ。

 そうすれば、中大兄は応神天皇のような偉大な大王のなれると考えたのである。

 結局、赤兄の言が受け入れられ、斉明天皇の治世七(六六一)年一月六日、伝説上の仲哀天皇を除き、初めて大王が西に下った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

江戸の老人ホーム(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)

牛馬走
歴史・時代
 木下弥左衛門は、隠居暮らしに淋しさを覚える暮らしをしている。彼はかつて、上意討ち代行をおこない、危険と隣り合わせの日々を送っていた。上意討ち代行は名前の通り、上意討ちを代行する。家中に仇をなして出奔した者を、当主の依頼、あるいは上意討ちを命じられた者の要請を受けて当該の者を討ち取り謝礼をもらっていた。   他方で、そんな彼はのちにいう老人ホーム、介添え長屋に住んで仲間と穏やかな毎日を過ごしている。そんな彼は、胃がんを患う。だが、死を覚悟することを習いとしていた彼は、その事実を静かに受け入れる。死ぬまでに何ができるか、と考える。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

【完結】電を逐う如し(いなづまをおうごとし)――磯野丹波守員昌伝

糸冬
歴史・時代
浅井賢政(のちの長政)の初陣となった野良田の合戦で先陣をつとめた磯野員昌。 その後の働きで浅井家きっての猛将としての地位を確固としていく員昌であるが、浅井家が一度は手を携えた織田信長と手切れとなり、前途には様々な困難が立ちはだかることとなる……。 姉川の合戦において、織田軍十三段構えの陣のうち実に十一段までを突破する「十一段崩し」で勇名を馳せた武将の一代記。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜

岩 大志
ファンタジー
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!??? そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

処理中です...