353 / 378
第五章「生命燃えて」 後編
第21話
しおりを挟む
その時だ。
「お待ちください!」
中臣鎌子の声が響き渡った。
彼は、葛城大王の前に進みで、平伏する。
「葛城大王、これは間違いでございます。手が滑ったのでございます。大海人様は酔い過ぎておられて、それで手が滑っただけでございます」
鎌子は、呆然と立ち尽くす大海人皇子に向き直り、
「そうでございますよね、大海人様。手が滑っただけでございますよね」
必死の形相で問いかけている。
問うというよりも、「手が滑ったとおっしゃってください!」と、お願いしているようだ。
そこに、蘇我赤兄も進み出る。
「葛城大王、内大臣(鎌子)の言葉どおりです。これは座興の一種。その場で、たまたま手が滑っただけのこと。それで処罰など、逆に大王の名を汚します。大海人様も、本日の狩りで大変お疲れになったのでしょう。そこで余興をされたものだから、少々よろけられたのですよね。そうですよね」
赤兄も、葛城大王と大海人皇子から「そうだ」の一言を導きだそうと必死だ。
中臣鎌子、蘇我赤兄………………政権の中枢を担う二人が、それこそ政権を崩壊させかねないような葛城大王と大海人皇子の仲を取り持とうと必至だ。
これは、大伴氏にとっては絶好の機会なのだが、大海人皇子の予定外の行動と、鎌子、赤兄の想定外の必死の執り成しに、その場を制する機を喪失してしまった。
鎌子と赤兄の必死の仲介で、その場は何とか治まりそうな雰囲気になったのだが、やはりどうしても重苦しい空気が漂う。
―― この空気、どうすれば………………
安麻呂も、いまにも飛び出そうとしていた態勢を解いて、席に戻りたい。
だが、いま動くと空気が弾けて、また雰囲気が変わりそうだ。
みんなも、どうすればいいか分からず、まるで時が止まったようにじっとしている。
―― 誰か、この空気を変えてくれ!
と思った時だった。
涼しげな声が、一帯を包み込んだ ―― 額田姫王である。
あかねさす 紫野行き 標野行き
野守は見ずや 君が袖振る
(紫草が生える野を、狩りの標を張った野を行きながら、
そんなことをなさって……、見張りが見ておりますわ、あなたが手を振るのを)
(『萬葉集』第一巻)
詠い終り、額田姫王は唖然としている周囲の人たちを見て、にこりと微笑んだ。
「こういう余興もまた、面白いのでは? いかがですか、大海人様?」
振られた大海人皇子は、一瞬戸惑ったような表情を見せたが、額田姫王の意図を理解したのか、すぐさま歌を返した。
「うむ、では……」
紫の にほへる妹を憎くあらば
人妻故に 吾恋ひめやも
(紫草のように美しいあなた、憎いわけがないでしょう、
憎かったら、人妻と知りながら、これほど恋い焦がれたりはしませんよ)
(『萬葉集』第一巻)
その歌のやり取りを切っ掛けに、また場の雰囲気ががらりと変わった。
「これは面白い、では私が……」
と、歌自慢たちの歌詠みが再び始まり、それを肴にまた酒が振る舞われた。
安麻呂は、ほっと席に着いた。
兄の御行や叔父の馬来田たちも、仕方なく自分の席へと戻り、また酒を飲み始めた。
結局、今回の事案はこれで治まった。
大伴氏の政変は失敗に終わった。
まあ、失敗して良かったのだろうと、安麻呂は思っている。
―― 葛城大王と大海人皇子の仲も、これ以上拗れることもないだろうし………………
うむ、それにしても、やはり歌というのは、その場の雰囲気を変えるほど、大きな力があるのだな
やはり、私は歌に生きよう!
と、やけ酒をくらって大騒ぎする大伴氏の中で、安麻呂はひとり強く決心した。
「お待ちください!」
中臣鎌子の声が響き渡った。
彼は、葛城大王の前に進みで、平伏する。
「葛城大王、これは間違いでございます。手が滑ったのでございます。大海人様は酔い過ぎておられて、それで手が滑っただけでございます」
鎌子は、呆然と立ち尽くす大海人皇子に向き直り、
「そうでございますよね、大海人様。手が滑っただけでございますよね」
必死の形相で問いかけている。
問うというよりも、「手が滑ったとおっしゃってください!」と、お願いしているようだ。
そこに、蘇我赤兄も進み出る。
「葛城大王、内大臣(鎌子)の言葉どおりです。これは座興の一種。その場で、たまたま手が滑っただけのこと。それで処罰など、逆に大王の名を汚します。大海人様も、本日の狩りで大変お疲れになったのでしょう。そこで余興をされたものだから、少々よろけられたのですよね。そうですよね」
赤兄も、葛城大王と大海人皇子から「そうだ」の一言を導きだそうと必死だ。
中臣鎌子、蘇我赤兄………………政権の中枢を担う二人が、それこそ政権を崩壊させかねないような葛城大王と大海人皇子の仲を取り持とうと必至だ。
これは、大伴氏にとっては絶好の機会なのだが、大海人皇子の予定外の行動と、鎌子、赤兄の想定外の必死の執り成しに、その場を制する機を喪失してしまった。
鎌子と赤兄の必死の仲介で、その場は何とか治まりそうな雰囲気になったのだが、やはりどうしても重苦しい空気が漂う。
―― この空気、どうすれば………………
安麻呂も、いまにも飛び出そうとしていた態勢を解いて、席に戻りたい。
だが、いま動くと空気が弾けて、また雰囲気が変わりそうだ。
みんなも、どうすればいいか分からず、まるで時が止まったようにじっとしている。
―― 誰か、この空気を変えてくれ!
と思った時だった。
涼しげな声が、一帯を包み込んだ ―― 額田姫王である。
あかねさす 紫野行き 標野行き
野守は見ずや 君が袖振る
(紫草が生える野を、狩りの標を張った野を行きながら、
そんなことをなさって……、見張りが見ておりますわ、あなたが手を振るのを)
(『萬葉集』第一巻)
詠い終り、額田姫王は唖然としている周囲の人たちを見て、にこりと微笑んだ。
「こういう余興もまた、面白いのでは? いかがですか、大海人様?」
振られた大海人皇子は、一瞬戸惑ったような表情を見せたが、額田姫王の意図を理解したのか、すぐさま歌を返した。
「うむ、では……」
紫の にほへる妹を憎くあらば
人妻故に 吾恋ひめやも
(紫草のように美しいあなた、憎いわけがないでしょう、
憎かったら、人妻と知りながら、これほど恋い焦がれたりはしませんよ)
(『萬葉集』第一巻)
その歌のやり取りを切っ掛けに、また場の雰囲気ががらりと変わった。
「これは面白い、では私が……」
と、歌自慢たちの歌詠みが再び始まり、それを肴にまた酒が振る舞われた。
安麻呂は、ほっと席に着いた。
兄の御行や叔父の馬来田たちも、仕方なく自分の席へと戻り、また酒を飲み始めた。
結局、今回の事案はこれで治まった。
大伴氏の政変は失敗に終わった。
まあ、失敗して良かったのだろうと、安麻呂は思っている。
―― 葛城大王と大海人皇子の仲も、これ以上拗れることもないだろうし………………
うむ、それにしても、やはり歌というのは、その場の雰囲気を変えるほど、大きな力があるのだな
やはり、私は歌に生きよう!
と、やけ酒をくらって大騒ぎする大伴氏の中で、安麻呂はひとり強く決心した。
0
あなたにおすすめの小説
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜
岩 大志
ファンタジー
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!???
そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助
蔵屋
歴史・時代
わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。
何故、甲斐国なのか?
それは、日本を象徴する富士山があるからだ。
さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。
そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。
なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。
それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。
読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる