黒髪慕情

hiro75

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第2話

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 木目流れる梁を見詰めて夜が明けた。

 寝不足のまま朝を迎えるのは、これで三日目である。

 身を起す。

 流石に三日もまともに寝ていないと、背中に重石を載せられたように体がだるい。

 建てつけの悪い戸口を引き摺り開ける。東の空は青褐の闇に包まれている。

 私は、湯に入るために松明を手にして寺を下っていった。

 疲れたときは、やはり湯に限る。

 修禅寺領内は、何処彼処に湯が湧いているのでありがたい。

 ここに来て以来、湯の虜だ。

 仏像造りの気晴らしといっては、近くの湯を巡り歩くのが私の日課になっている。

 一歩、一歩参道を下りていくと、頭の奥がずきずきと痛み、一段と疲れが増していく。

 重くなった頭を抱えながら、あんな仏像など引き受けなければ良かったと、いまさらながらに思う。

 元から身の入らない仏像造りであったが、女の一件以来、ことさらに身が入らなくなってしまった。

 ある程度の形は運慶殿の仏所に図面があるのでそれに沿えばいいのだが、問題は顔である。

 仏像の顔を自分に似せて欲しいというのが、依頼主からの注文であった。

 依頼主は、尼御台様だ。

 御不幸な最後を遂げられた左金吾禅室様(源頼家)とその御台であった辻殿の菩提を弔いたいとのことで、自分の顔に似せた仏像を造り、罪滅ぼしのつもりだろうか、胎内に辻殿の髪とかもじを入れて欲しいとの注文であった。

 依頼を受けて、運慶殿の仏所から私と数人の仏師が、尼御台様からお預かりした黒髪を携えて、遥々修禅寺までやって来たわけだが、私はどうにもやる気が起きなかった。

 だいたい家のためとはいえ、己の子どもを見殺しにしておいて、いまさら何を思って息子とその御台の菩提を弔いたいと言うのか。

 全く以って、凡人の私には理解しかねるところである。

 そんな心持ちで仏像の顔を彫るものだから、おのずと目の吊り上がった不動明王のごとく憤怒の相になってしまう。

 北条のために息子を見殺しにした女の形相としては面白いし、小気味好い。

 が、流石にそんなものを造っては首が幾つあっても足らないだろう。

 己の母の顔を思い浮かべながら彫ればいいのかもしれないが、残念ながら私は母の顔を知らぬ。

 赤子のころ、運慶殿の仏所の前に捨てられていたそうだ。

 母の記憶がない男が、母の面持ちの仏像を彫るのだから、やはり鑿先に心持ちが出るものだ。

 どうにも恐ろしい形相になってしまう。

 私が顔を彫り上げないと、他の者たちも仕事ができない。

 彼らも、私が彫り上げるのを溜息混じりで見詰めている。

 それがまた、やる気をなくさせる。

 金窪らも煩い。

 アヤメの一件があってから、さらに責付くようになった。

 女を手篭めにできなかった腹いせか。

 男の嫉妬はみっともない。

 唯一、恵妙和尚だけは、「まあ、ゆっくりと造られたらよかろう」と優しく見守ってくださる。

 やはり、人ができている方は違うものだ。

 だからと言って、和尚の言葉に甘え続けるわけにもいかない。

 奮起して鑿を手にするのだが、集中できない。

 尼御台様の無茶な御依頼や、金窪らの煩い催促だけが原因ではない。

 アヤメのこともある。

 あの一件以来、黒髪の女の顔を思い浮かべながら無意識のうちに鑿を動かしている。

 気がつくと、木材には仏の顔の代わりに女の名が何箇所も掘りつけてある。

 私は赤面し、誰に見つからないように背中で覆い隠しながら女の名を削り落す。

 それを幾度となく繰り返す毎日が続いている。

 目を閉じても、瞼の裏にアヤメの凛とした顔が浮かび上がり、尼御台様の顔と比べて、同じ母でも違うものだと考え込み、まんじりともせず夜を明かす。

 そんな夜が三日と続くのだから、疲れも溜まろうというものだ。

 重い体を引きずりながら静寂の中を抜けて行くと、桂川の緩やかな水の流れが聞こえてきた。

 川岸沿いに湯が湧き出ている場所が数箇所ある。

 そのうちの一箇所が、独鈷の湯として有名な湯だ。

 その昔、弘法大師様が冷たい川の水で病気の父親の体を洗う子どもを哀れんで、独鈷杖で岩を打ち据えて湯を出したとか。

 話の真偽は定かではないが、霊験あらたかな湯のようだ。

 鎌倉だけでなく、遠くは都から下ってくる湯治客も多い。

 流石に朝方に入る者はいないようだ。

 水流の音だけが、恐ろしいぐらいに響き渡っている。

 弘法大師様の湯を独り占めである。

 私は、松明を湯の傍に立てかけ、着物を脱ぎ捨てて、白濁の湯煙を掻き分けながら紺碧の湯へと足を浸した。

 足先から痺れていく。

 ゆっくりと体を落としていくと、咽喉の奥から搾り出すように息が出ていく。

 我ながら間の抜けた声だと思う。

 が、息とともに疲れも抜け出ていくようで止められない。

 首元まで浸かり、顔を濯いだ。

 朝湯はいい。

 湯が澄み渡っている。

 力を抜くと、下半身が浮かび上がり、まるで水草のように私の体がふわりふわりと揺れる。

 そのまま清澄な湯に身を委ねた。

 湯は、私の体を犯していく。

 抜け出した疲れのかわりに、じわりじわりと私の体の中に染み込み、血に混ざり合って隅々まで温かさがいき渡る。

 禅室様も湯を楽しまれたそうだ。

 尼御台様から疎まれ、将軍の役を退けられ、挙句の果てにはご嫡男の一幡君さえも亡くされた左金吾禅室様。

 修禅寺に幽閉され、近習まで遠ざけられての暮らし。

 如何ほどの嘆き、悲しみであったろうか。

 そのような心持ちの禅室様が、湯を楽しみになさっておられたのも頷ける話である。

 しかし、湯を楽しみになさっていた禅室様が、その湯の中で亡くなられたとは皮肉な話でないか。

 表向きは急な病となっているが、北条方の者が殺害したと専らの噂である。

 尼御台様は、禅室様の急報を聞いて涙を流されたと聞くが、どこまで本当であろうか。

 禅室様の御無念を考えると、ますます仏像の顔が怒りの形相になるというものだ。

 まあ、いまはそんなことを忘れて、疲れた体を癒そう。

 仏像のことを忘れ、ひとり朝湯を楽しんでいると、水流に混じり合って、川原の石ころを踏みしめる足音が聞こえてきた。

 近づいて来た足音は二つ。

 音の大きさから、一つは女のものである。

 もう一つは、子どものようだ。

 湯に浸かりに来たようだ。

 こんな朝早くに珍しい。

 まあ、それよりも早く湯に浸かっていた私はもっと珍しいのだが。

 着物を脱ぐ音がした。

 再び石ころを踏みしめる音。

「あら」と上げた声は、案の定、女の声だ。

 声のあるじに視線を移すと、松明にあぶりだされた女の白い肌が目に飛び込んできた。

 傍らには童女の顔が。

 アヤメとその娘だった。

「この前は、ありがとうございました」

 アヤメは、腰を緩やかに屈めた。

「いやいや、私は何も」

 と、私は手を左右に振った。

「礼なら恵妙様におっしゃられよ」

「ええ、それは……。すみません。お坊様がお入りになっているとは知りませんで」

 アヤメは申し訳なさそうに言ったが、別段その裸体を隠すこともしなかった。

「私は僧侶ではない。仏師、ただの仏像彫りですから、ご遠慮なく」

「そうですか。では、遠慮なく」

 そう言うとアヤメは、娘の股間を湯で洗ってやり、己の股座も湯で濯いで、子どもを抱きかかえて湯に足を踏み入れた。

 腰の辺りまで湯に浸かると、子どもを放し、女は己のぷっくりと膨らんだ乳房へと湯をかけ始めた。

 男に裸体を見られて恥ずかしくないのだろか。

 惜しげもなく、その芳しい体を晒している。

 ああ、美しい。

 またも見惚れてしまった。

 女の裸体など男を惑わし、欲望を満たすためのものでしかないと思っていた私が、斯くも美しいと思ったのはこれが初めてであった。

 首筋から肩の線は緩やかな曲線を描き、垂れ下がった腕は若竹のごとく嫋やかであった。

 胸の膨らみは小さい。

 それでも、左右に張った乳房はみっちりと肉が詰まり、先端はあからさまに女を主張している。

 鑿で削り落としたような腰。

 若鹿のように満ち満ちた太股。

 湯雫は乳房の谷間を流れ落ち、湯面に小さな波紋を作る。

 肌は雪よりもなお白く、湯気に霞んで淡く輝く。

 松明に照らされた黒髪は湯に漂い、艶やかな光を放った。

 継ぎ接ぎだらけの、土埃に汚れた小袖の下に、これほど美しい体が隠れていたとはまさに驚きである。

 それは、女房衆のような淫らな美しさではなく、荒々しい美しさ、そう、生命力に満ち溢れた美しさであった。

 女の顔がいい。

 娘を抱き上げ、その柔らかな肩にお湯をかけてやるアヤメの目は、まさに慈母に満ち溢れている。

 金窪らに囲まれたときの、母獅子のような鋭い眼差しとは違う。

 仏が哀れな者を見つめる慈愛の眼差しなのである。

 そうだ、母だ!

 これが、母の顔であり、仏の顔なのだ!

 これこそ、禅室様の菩提を弔うのに相応しい仏様の顔なのだ。

 いまなら仏の顔を彫れるかもしれない。

 それは願望ではない。

 美しいものを造りたいという心の叫びである。

 そうである!

 燃え上がるような心の叫びこそが、仏師の力になるのである!

 東の空が静かに白ばみはじめた。

 アヤメは、「では、失礼します」と湯から上がった。

 幼子の手を引き、緩やかな尻肉を左右に揺らして、朝靄のごとく湧き上がる湯煙の中に消えていった。

 かすかに聞こえる衣擦れの音に耳を傾けながら、私は母なる大日如来の顔を思い描いた。
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