新月猫ーニュームーン・キャットー

sanpo

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 昨日の朝に見た看板――銀の鎖をぶら下げた〈タルボット薬屋〉の下に一頭立ての二輪馬車カートが止まっている。
 ここまで一言も口をきかず駆け続けたエドガーが肩越しに振り返って言った。
「ヒュー、僕、あの薬屋がどうしても気になって、それで今夜はメッセージ配達中に途中で君から離れてまたこの路地へやって来てしまったんだ。そしたら」
 腕を伸ばして指差す。
「見えるだろ?」
「荷馬車が止めてある。あれか?」
「良かった、まだ動いてない。僕たちは間に合ったみたいだ」
 御者台は空っぽで人の姿は見えない。エドガーは声を潜めた。
「僕はここで隠れて見ていたんだ。そしたらあの銀色の髪の薬屋の店員が出て来て箱を馬車の荷台に積みこみ始めた。店に入っては出て……何度も行き来して箱を運び続けた。ほら、昼間、僕が天辺に黒猫を見たあの、塔のように高く積み上げてあった箱だよ。どう思う、ヒュー?」
「シッ」
 ヒューがさえぎった。
「奴が出て来たぞ」
 黒いマントに身を包んだ店員は御者台に飛び乗ると馬に鞭をくれて馬車を発進させた。
「どうする、ヒュー?」
「どうするも何も――よし、兎に角、ついて行ってみようぜ」
 テレグラフ・エージェンシー社のメッセンジャーボーイをやっていてこれほど良かったと思ったことはない。2人はつくづく思った。ローラースケートはヘルメスのサンダルのごとく地を駆ける。ヒューもエドガーも難なく荷馬車を追って行くことができた。
 銀髪の薬屋の駆る馬車はロンドンの街を抜け郊外へひた走る。
 昼間エドガーが見た夢そっくりに、空の月は雲に隠れたり出たりしながら馬車と二人について来た。

 薬屋の荷馬車が止まったのはまばらな森を背景にした古い水車小屋の前だった。
 赤スグリレッドカラントの低い茂みに身を潜めてヒューとエドガーが見守る中、店員は荷台から箱を一つ一つ水車小屋の中へ運び込む。気まぐれに顔を出す月の光に店員の銀の髪がチカチカ煌めいた。
 全ての箱を小屋に移すとそれきり水車小屋の扉は閉められてしまった。
 箱の中身は何なのか?
 水車小屋のなかで一体何が行われているのか?
「これからどうする、ヒュー?」
「うーむ、キース・ビー警部補は言ったよな? 変なモノ、怪しい光景を見たら、それが何であろうと、即、知らせろと」
 ヒューは走って来た方向――ロンドンの市街を振り返った。
「とはいえ、今からまた駆け戻るにしてはニュー・スコットランドヤードは遠すぎる」
了解ラジャー!」
 次の瞬間、飛び出したのはエドガーだ。水車小屋へ(勿論ローラースケートを履いたまま)突進する。
「あ、馬鹿、もう少し待てよ、いきなり過ぎるだろ」
 とはいえ、当然、ヒューも続いた。
 バン!
 突如荒々しく開けられる扉。飛び込んで来た二つの疾風。天井にぶら下げてあったランプが揺れて光があちこちに散乱した。
 店員は飛び上がった。いや、飛び上がったのは店員が運び込んだモノ――
 猫たちだった!
 ぎゃあぎゃあぎやあぎゃあああ……
 パニックになって床を走り回る猫、猫、猫、猫。
「落ち着け! 走り回るのを止めろ! 君たち・・・のことだ! まず、人間から――止まれ!」
 薬屋は叫んだ。
「君たちは、昨日の朝のメッセンジャーボーイだな? 頼むから、猫たちを興奮させないでくれ」
 ぎぁあぎゃあぎぁあぎやあぎゃあ……
 突然の闖入者ちんにゅうしゃに驚いて小屋中を駆け巡る猫たち。人間ふたりの方は何とか足を止めたものの猫たちは弾丸のようにヒューやエドガー、そして銀髪の店員にぶつかって来る。床だけではない。果ては、壁を蹴って、宙を舞い、雨霰あめあられのごとく降って来るのだ。これぞまさに猫嵐――
 たまらずヒューとエドガーは頭を抱えて床に突っ伏した。店員はランプの灯を消した。

 どのくらい経っただろう? 
 再びポッとランプに火が灯る。
「ふう、猫たちとの付き合いは長いが――こんな目に合ったのは初めてだ。全て、君たちのせいだからな」
 額や頬に引っ掻き傷をつけた店員が言った。
「何だってこんな馬鹿な真似をした? 悪戯にもほどがある」
「それを言うなら、君が妖しいふるまいをするからだ」
 エドガーが言い返した。
「夜中に猫を箱に詰めて運ぶなんて。しかも行き先は水車小屋と来た。誰だって黒魔術が催されていると思うさ」
 銀髪の薬屋は腰に手を当てて、
「おやおや、当世最先端のメッセンジャーボーイがこんなに夢見がちな少年だったとは恐れ入る」
 ランプを持ち上げるとグルリと小屋内を照らして見せた。
「よぉく見てみろよ。バラバラに斬り裂かれた猫や臓腑をえぐられた猫なんか何処にもいないだろ?」
 改めて光の中に浮き上がる光景は壮絶だった。別の意味で。
 床中に数十匹の猫たちがひしめいているではないか。
 だがここで、エドガーは気づいた。先刻からずっとヒューの声がしない。ヒューは何処だ? あのいつもクールで泰然自若・頭脳明晰・理路整然としたヒュー・バードが一言も言葉を発しないなんて……
 猫魔術で搔き消えた? 時空の彼方に消し飛んだ?
「ヒュー? 何処にいるんだ? お願いだよ、返事をして!」
 祈るように両手を合わせて周囲をゆっくりと見回すエドガー。すると――
 いた・・。水車小屋の隅に、夜空のような黒髪をバサリと顔に垂らしてうずくまっている。
「ヒュー、どうかしたの? 怪我でもしたのかい?」
 掠れた声でようやくヒューは答えた。
「頼むから、エド……この猫を俺の膝から降ろしてくれ……」
「?」
 なんと! しゃがみ込んだヒューの膝の上に黒猫が――例の、真夜中に猫たちの行列を引き連れていた奴だ!――が乗っていた。
 硬直したヒューとは対照的に黒猫はとてもリラックスして幸せそうだった。喉をゴロゴロと鳴らしている。
「大丈夫だよ、ヒュー、そいつ、落ち着いていて引っ掻く心配はなさそうだ。自分で抱き上げて降ろすといいよ」
「自分でだと? それができれば頼むものか。いいか? 2度と言わせるなよ? 俺はな、俺は、この世で一番猫が苦手なんだ」
「――」
「おいで、新月ニユームーン
 銀髪の薬屋が近づいて猫を抱き上げた。エドガーはポカンと口を開けたまま、
「驚いたなぁ! ヒュー、君が猫嫌いだなんて!」
 どうりで行列猫の棲家を捜そうと誘った時、乗り気でなかったはずだ。
「いや、驚いたのはこっちだよ」
 薬屋は信じられないと言う表情で首を振りながら、
「こいつがヒトに慣れるなんて……」
「慣れるだと? そいつは嫌がらせてるんだ! 俺が嫌ってるのを知ってすり寄って来る――そう言うとこも俺が、猫が嫌いな理由さ! クソッ」
 猫から解放されて自由の身に戻ったヒューが思いっきり罵倒する。
「今まで猫と関わらずに17年、無事生きて来たと言うのに。今夜一晩で、その避け続けた猫とこんなに相まみれるとは! そう、一生分、会っちまった。もうたくさんだ、猫なんてこれっきりだ」
 ひしゃげた帽子の形を整え、被り直すとヒューは薬屋に向かって指を振った。
「勿論、説明してくれるんだろうな? あんたが、何故、こんなことをやっているのか」
 黒猫を抱いたまま薬屋は肩をすくめる。
「勝手に追いかけて来て、勝手に騒動を起こして、その言い草はないだろう? とはいえ、僕のやってることについては説明しよう」
 銀髪の青年は言った。
「これは僕の奉仕活動だ」
「ほうしかつどう?」
「僕は月に一度ロンドンの哀れな野良猫や捨て猫を、こうして田舎で、猫を必要とする人々に無償で届けているのさ」
 メッセンジャーボーイたちに冷ややかな一瞥いちべつをくれて薬屋の青年は続ける。
「都会っ子の君たちは知らないだろうがな。農家では猫は貴重な働き手なんだよ。彼らは、菜園を荒らしたり貯蔵庫の穀物を狙う小動物の優秀な狩人だ。また良き話し相手、純粋な友人として猫を欲する人たちは多い。明日は、月に一度の僕のささやかな猫市なのさ」
 今一度小屋中の猫を見回して薬屋は満足げに微笑んだ。
「農家の朝は早いからね。それで僕は夜の内にやって来て、こうして準備しておくんだよ」
 目を白黒させるエドガーとヒュー。
「猫市?」
「そんなの聞いたことがない」
「疑うんなら――朝までここに残ってその眼で見て行くといい。毛布なら余分に持っているから貸してやるぜ」
「ふざけるな!」
 ヒューが叫んだ。
「こんな猫だらけの場所で眠れるものか、俺は帰る!」
 勢いよく腰を上げ――かけたのはいいのだが、立ち上がれずそのままドサッと床に転がってしまった。どうやら、腰が抜けている模様。とてもローラースケートで走れる状態ではない。
 いつもと反対にヒューに代わってエドガーが礼儀正しく申し出た。
「お言葉に甘えて僕たち今夜はここに泊まらせてもらいます。えーと、毛布を貸していただけますか?」
 薬屋の腕の中で、昨日の夢同様、こんどこそ確かに黒猫は笑った。
「ニヤーーーー」



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