誰かこの暴君を殴ってくれ!

木樫

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第七話 先輩マゾと後輩サドの尽力

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 そう緊迫する俺の耳元に、悪魔の囁きがスルリと吹き込まれた。


「ね……さっき、二列先の斜め前の席の人が席を立ったんですけど……」

「あぁ……? は…ん……」

「その人が今、帰ってきましたよ。……あらら。こっち、見てたかも」

「ッひ……」


 含み笑いを理解した瞬間、ビクンッ、と体が震え、全身が緊張した。

 慌てて目を開くが視界は鮮明にならず、判別不能なシルエットしかいない観客にこちらを見ていた人がいるかどうかわからない。

 見られたのか。
 気づかれたのか。
 誰がそうなのか。

 羞恥心やら恐怖心やら焦燥感やらに囚われ泣き出しそうな表情のまま縮こまった俺の耳に、三初がフゥ、吐息を吹きかける。


「う、そ」

「ンぅッ、なん……っふ、ぁ……っ」


 口元を塞ぐ手がスルリと滑って顎をなぞったかと思うと、失笑が嬲った。

 コイツは稀代のサディストだ。
 うっそりとした甘い甘い声でわざわざ告げられた戯言。最低最悪の大嘘吐き。

 殺してやろうかと思ったが、三初は俺の声を吐息ごと押さえ込み、そそり勃つ肉棒を一際激しく擦る。


「っ……ふ、っ…っ……っ」


 そうされると高められた官能が絶頂に達しそうなのが、自分でもわかった。

 しかし悪質な嘘で現実を脳に叩きつけられたせいで、今の俺には消えてしまいたくなるような羞恥が帰ってきてもいる。

 金を払って映画を見に来ておきながら、俺はわざわざ誰かに見られるリスクを犯してなにをしているのか。

 頭では理解していた。
 けれど感じることをやめられない。

 やめられないから恥ずかしい。俺の耳に僅かに届くクチュクチュと粘っこい水音が、余計に羞恥を煽った。

 ダメだ、我慢できない。
 ──イき、たい……ッ。


「は…っ…、…っ……」


 三初の腕にしがみつき、ぎゅっと目を瞑りながらローターと手淫の快感に身を任せると、陰嚢の内側から欲望がマグマのように湧き上がってもう出すことしか考えられない。

 せめて人に聞こえないよう声を殺し、ただのデクになったような心地で与えられる刺激にのみ集中する。

 脳みそが茹でられている。もう、出る。もうダメだ。絶対ムリ。派手にヤる。イク。イク。イク。こんなところで、たくさんの人が映画を楽しむ背後で、俺は……──っ。


「ぃン……っァ、…っ……っ」


 腰がうねり、目の奥が一瞬弾けた。

 薄いゴムの中にビュクッ、ビュク……ッ、と何度かに分けて濃厚な白濁液が迸る。

 堪えていた欲望をドクドクと解放している間、公共の場であるまじき行為であることを、その瞬間は忘れている。

 気持ちいい、すげぇ、気持ちいい。
 それだけだ。

 絶頂の瞬間、背筋を丸めて身じろぐ癖のある俺が動いて椅子が軋まないよう、三初はいっそう力強く俺の肩を抱いて声を殺させた。

 ビクッビクッと体が小刻みに痙攣し、内ももから腰が痺れ、背筋を馴染みの熱が這い上がる。

 いつもは声を出す。
 周囲を気にせず声を出したほうが、解放感があって興奮するから。

 それがまさかこんな、密やかなイカされ方をさせられるのが、初めて知る快楽をもたらすなんて。なんかもう死にてぇ。


「……っ…ぁ……」


 全身くまなくのぼせ上がった体温が引けて冷静になる前に、体を抱えながら口元を押さえていた手を離された。

 それと共に内部で震えていたローターの振動が止まるのがわかる。

 支えを失って、ぐったりと脱力する俺の体が前のめり気味に三初の膝へ倒れ込んだ。


「……っぁ……ん……は……」


 モヤがかった映画の音声が聞こえる。クライマックスが近づいているのだろう。
 誰も俺のことなんて気づいていない。秘めやかな密事を、無事に終えたのだ。

 にも関わらず……腹の奥がジュクジュクと膿んで、物足りないと疼く。

 もう出しきってちゃんと男としてイッたくせに、ローターの振動の幻影を追いかけるようなイカレた体の中のほうが。

 三初の冷たい手が滲んだ汗でやや湿った俺の前髪をかきあげ、視界が明瞭になった。

 いたずらなネコ科じみたはちみつ色の瞳が、妖艶に細まる。


「あーあ、ドロドロ。俺ね、手ぇ洗いに行きますけど……先輩、どうします?」


 その視線に誘われるまま、余韻に浸って淫蕩する俺は、無言でコクリと頷いた。

 捕らわれてしまったら、逃げ出せない。

 それは俺が衆人観衆に晒されるスリルでスイッチが入るマゾヒストだからではなく、きっとこの大魔王が魔性の瞳を持っているからに違いないのだ。



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