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第2話 ドはドンビのド
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午後の鐘が鳴り出した。
沼崎六一郎はキーボードを叩く指を止めた。
ちょうど「序文」が書き上がったところだった。(注1)
沼崎は自作の潜望鏡〈千里眼CHIZCO〉を手に取った。(注2)
静かに窓を開き、細長い円筒の先端をカーテンの隙間に差し込み、もう片方から下を覗いた。
丸い世界が地上を捉えると、高圧送電用の鉄塔の太い鉄骨にゆっくりと頭突きをしている男が映し出された。
大家の西機氏だ。
本職は表具屋だが、沼崎が住むこのアパートも経営している。
西機氏は短く刈り込んだ白髪の頭を、ごーん、がーん、ごーんと、ゆったりとしたリズムで鉄塔の支柱に打ちつけていた。
元国体のボート競技の選手だったというだけあって、上腕二頭筋はぼこっと盛り上がり、背中には分厚い広背筋を貼りつけている。
これが潜望鏡ではなくスコープつきのライフルなら、一発で終わらせられるのだが。
沼崎は潜望鏡を左手で支えながら、右手で実在しないトリガーを引いた。
丸い視界の中でごま塩頭がパーンと赤く弾ける様子が、沼崎の脳内で映像化されていた。
一階の窓が開く音がした。
小さく「お父さん……」と呼ぶ声がして、窓から伸びた白い手がアルミのトレーに載せた丼鉢を揺らしていた。
中には茶色い物質が山盛りになっている。
頭を支柱に打ちつける運動が止まった。
西機氏は振り向くと、妻が差し出す丼鉢のほうへ歩いていった。
受け取った丼鉢にこんもりと盛られた味噌のようなものを手づかみで食べ始めた。
送電線の鉄塔が立つこの空地は、四方を家々の壁や塀や生け垣に囲まれて、ちょっとした中庭になっていた。
ドンビを放し飼いにするには打ってつけの場所だ。
西機氏は日がな一日そこを徘徊し、腹が減るとごーん、がーん、ごーんと、鐘を鳴らした。
西機氏は茶色い物質を脇目もふらず食べつづけている。
茶色い物質は、赤茶色の赤玉土と黄褐色の鹿沼土を一対一の割合で混ぜ合わせ、総合ビタミン剤を振りかけたものだ。
関東ローム層ならすぐ足下からダンプカー数台分は掘り出せそうだが、なぜかドンビはスーパーで売っている加工された園芸用の土しか食べない。
赤玉土と鹿沼土が人気で、これに砂やピートモスを混ぜて与える人もいる。
腐葉土はよくない。
土壌菌と発酵熱で内臓の腐敗が進んでしまうのだ。
〈土ンビ〉〈土ボット〉〈土―ガニック〉〈土ランク土ラゴン〉〈土砂万部〉〈ツチズン〉……
呼び方はいろいろあれど、どれもSES(土食症候群)の患者を揶揄する言葉だった。
ドンビがまだ伝達性海綿状脳症の一種で狂牛病(牛海綿状脳症)の親戚だと考えられていた頃、患者の神経細胞内に蓄積する病原体・モンパク(モンスタータンパク質)を体内から追い出すためには、動物性タンパク質を積極的に摂取させればいいというデマが流行はやった。
ある研究者の説によると、モンパクは遺伝子組み換え種子と、ある種の土壌と、ある種の農薬の「絶妙なる不適切な出会い」から生まれた「狂った果実」「狂野菜」によって人へと伝染する。
そうなると、何を食べればいいのだろうか。
穀物、野菜、果物はとりあえず全部危ない。
味噌も醤油もサラダオイルも信用できない。
魚はどうだろうか。
ダメだった。
魚類には水銀のように、田畑から溶け出して、川から海へ流れ込んだ「不適切な出会い」物質が蓄積している可能性がある。
肉は?
動物性の餌で育った家畜なら平気だろう。
肉だ。
肉を食うしかない。
牛脂で焼いたステーキなら大丈夫。
ラードで揚げた唐揚げもOK。
ラードで揚げたトンカツは、しっかり衣を外すこと。
ハンバーガーもレタス、ピクルス、パン抜きが基本。
牛丼チェーン店では「牛丼牛のみ」「牛皿ネギ抜き」が正式メニューに。
人々が肉に群がった。
食肉の値段は軒並み二倍まで跳ね上がった。
特に近江牛や松坂牛、アグー豚に東京X、名古屋コーチンなどブランド系の肉が、五倍から十倍に高騰。
逆に高麗人参、霊芝、青汁、ロイヤルゼリーなどは「不健康食品」と呼ばれ、売り上げは急落。
この「肉なら安全」が、不思議なことに、いつしか「肉が病気に効く」に変わるのだ。
狂った農産物の毒を中和するためには肉だ、肉しかないとばかりに、すでに消化能力の衰えた患者の体内に鶏・豚・牛・羊の精肉が詰め込まれた。
患者の腸内で生肉が腐敗した。
患者がバタバタと朽ち果てて、これはダメだという話になった。
見た目や動きが似ているからといって、肉食のゾンビとはやはり違うのだ。
ところが、ある患者の家族が何を考えたのか園芸用の土を与えたところ、肉よりも断然食いつきがよかった。
肉食から土食への大転換の始まりだ。
土食は消化器官のデトックスになるという説に家族も縋った。(注3)
患者はどんどん土を求め、スーパーやホームセンター、百均の園芸棚が空になる事態へと発展した。
鹿沼土や赤玉土がなぜ効くのかについては、産地で今も秘かに行われている土葬にヒントがある、などという説も真しやかに語られた。
ともかく原理は解明されないものの、土を与えておけば現状維持は可能となった。
やがて土を食べて土を排泄はいせつするのだから、患者の糞を寄せ集めてビタミンでも混ぜてまた与えればいいと気がつく無精者が現れ、患者から排出される残土に苦しめられていた家族を救うことになる。
何しろ土とは実に厄介な代物で、トイレには流せないし、自治体も通常のゴミとは認めず引き取ってくれない。
☜ここにペットやドンビさんのフンを捨てないでください
この手の貼り紙も増えすぎて違和感もなくなった。
こうなってしまうと残土を処理するため、それなりの費用をかけて業者に頼むか、自宅の庭に撒くしかなくなる。
特に土地を持たない都市生活者にとって問題は深刻で、高層マンションのベランダに意味もなく増えていくプランターや、アパートの部屋の隅に堆くなっていく土嚢に困り果てていたのだ。
患者に患者の排泄物を食べさせるというタブーを乗り越え、土サイクルに走る家族が増えるとホームセンターの土は売れ残り、高騰を見込んで園芸土を買い占めていた業者は地団駄を踏むことになった。
「……(音楽スタート)(ナレーション)美食と飽食の現代に忍び寄る土食症候群。SESはわれわれに何を訴えかけているのでしょうか。(タイトル)『土を食べる病~急増する土食症候群~』(エンドロール)……制作N〇K」
〇HKのドンビ特集は好評につき都合四回再放送された。
奇病の噂に怯おびえ、何かとんでもないことが起きているのではないかと疑っていた人々は、「SES」という難病が一つ増えただけだと知って安堵あんどした。
AIDS(後天性免疫不全症候群)、ALS(筋萎縮性側索硬化症)、AT(毛細血管拡張性失調症)、CD(クローン病)、DM(皮膚筋炎)、HD(ハンチントン病)、HHT(オスラー病)、PAN(結節性多発動脈炎)、PSP(進行性核上性麻痺)など治療困難な病はほかにも多数存在するのだった。
人々の口からドンビが遠のいていった。
穀物、野菜、果物に次々と安全宣言が出され、肉類もまた飽和脂肪酸で悪玉コレステロールだからメタボリックでほどほどに、へ戻った。
牛丼チェーン店のメニューから「牛のみ」も消え、メディアでモンパクの危険性をあれほど唱えていた学者たちも研究室から出てこなくなった。
代わりに新たな噂が蠢き始める。
山梨の廃村に造られたゴミ処分場に夜な夜なトラックがやってきて大勢の人が下ろされるのだが誰も外へ出て来ない。
それは都内を徘徊中に警察や保健所に保護されたSESの患者たちで、高名な僧侶でもあらせられる都知事猊下の裏大乗仏教的なご慈悲により最終解決されているのだとか。
逆にお隣の千葉ではドンビの政治利用が本格化、全国から患者を受け入れ、アイドル出身の県知事の土下僕として調教されているのだとか。(注4)
まだまだある。
神奈川県、横須賀軍港に停泊中の米軍マーシー級病院船が、実は金持ち専用のドンビ病棟なのだとか。
一般家庭ではリフォームで座敷牢を造るのが密ひそかなブーム、すでにドンビ専門の訪問看護サービスも営業を始めているのだとか……。
* * *
泥沼にぶくぶく涌くアブクのような情報を掻き集め、忘れっぽい人の世に抗ってきたドンビ情報まとめサイト〈ドはドンビのド〉────
ブロガー・沼崎六一郎が真相究明と警鐘を鳴らすために立ち上げ、活動の拠点としてきたウェブサイトは、嵐のようなスパムメールと冷やかしの書き込み、サイトの更新時を狙ったように接続が突然切られる謎のブロッキング現象などもろもろの「妨害活動」により、運営開始から二十か月目で閉鎖を余儀なくされた。(注5)
しかし、本日、沼崎は晴れて孤立した。
プロバイダーとのADSL契約を打ち切り、愛用のノートパソコンはスタンドアローンのワードプロセッサーへと退化した。
固定電話も解約した。
テレビもすでに地上波アナログ放送終了とともに処分してある。
携帯電話、スマートフォンの類はもとより所持していない。
大量情報通信時代の遺物はスリーバンドの小型ラジオのみとなった。
* * *
一心不乱に土食にふける西機氏がやや前屈みになって股を開くと足元へぽと、ぽと、ぼとぼとぼとっと土が垂たれ始めた。
(土ドボト民ミンが……)
沼崎は顔を顰めて〈千里眼CHIZCO〉から目を背けた。
西機氏はいつ排泄しても平気なように作業ズボンのうしろが切り取られていて常時尻を露出させていた。
ときどき夫人がホースで温水をかけた。
この家では土のリサイクルは行われていない。
常に新しい土が与えられているのがせめてもの救いだった。
(つづく)
(注1)非公開ブログ『白昼の生存者』序文
古今東西、地獄が罪人でいっぱいになると、あふれた死者が地上を歩き出すものらしい。
それ自体は理に反してはいるものの実はたいしたことではないのかもしれない。
気をつけなければならないことは、この異常な光景が日常に溶け込んでいくことだ。
誰も異変を異変と受け取らずにどんどん慣れている。
問題意識が薄れていくことこそが大問題なのだ。
おれは日本を覆おおい尽くしているこの麻痺まひの感覚に異議を唱となえようと、ネットを中心に活動をつづけてきた。
そのたびに心ない人々に嘲あざけられ嘲笑ちょうしょうされ嘲弄ちょうろうされてきた。
ネットで未来は救えない。
おれの網は目が粗あらく、やつらの網は細こまかすぎる。
世界の壁は厚くおれを阻はばみ、代わりに部屋の壁に拳こぶしの痕あとが残るだけだった。
いつまでたっても日本に夜明けは来ない。
ただ曖昧あいまいで無自覚で残酷ざんこくな朝が巡めぐってくるだけだ。
実りのない虚むなしいカナリヤ活動からおれはいっさい手を引くことにした。
人々はガスが充満した廃坑はいこうの中で幸福そうに眠りこけている。
万民の救済など土台無理なことだ。
まずは最も身近な一人を救うことに専念しよう。
エヴァンジェリストからサバイバリストへ────(*)
撤退戦には違いない。
だがこれは大きな転機だ。
逃げられる人は幸いだ。
逃げよ、逃げよ、すべての笠岡かさおかふれあい空港、尾道おのみちふれあいの里、中津川なかつがわふれあい牧場から逃げ出せ。(*)
逃げた先からまた逃げろ。
おれはぎりぎりまで踏み止まる。
誰もが己おのれの後衛しんがりを務めなければ生き延びられないこの現実を、身をもって世に示す。
おれがやるべきことはもはやこれしかない。
すべての自分よ。
自分で生きろ。
世界を救うな。
自分を救え。
いつの日か手記の最後をこの言葉で飾かざるべく、おれは新たな一歩を踏み出したのだ。
*エヴァンジェリスト 元はキリスト教の伝道者のこと。何か啓蒙活動を行う人全般を指す。
*サバイバリスト あらゆる危機から生き残ることを至上の目的とする生存主義者。
*五島勉(ごとうべん)『ノストラダムスの大予言』より
逃げよ逃げよ、すべてのジュネーブから逃げ出せ
黄金のサチュルヌは鉄に変わるだろう
巨大な光の反対のものがすべてを絶滅する
その前に大いなる天は前兆を示すだろうけれども(『諸世紀 』9章44番)
沼崎六一郎は1973年発売の大ベストセラー『ノストラダムスの大予言』を信じて1999年に地球は滅亡すると思っていたが、そうはならなかった。しかし、それは年代が少しズレて、状況も少し変わっただけだと今では考えている。
(注2)沼崎六一郎サバイバル7つ道具・その1〈千里眼CHIZCO〉
掃除機のパイプと手鏡とレンズを組み合わせた自家製の潜望鏡(ペリスコープ)。パイプを延長すれば最大一六五センチになり、高い塀の向こうも確認できる。沼崎は様々なサバイバルガジェットを自作していた。なお、ガジェット名は悲劇の透視能力者「千里眼(せんりがん)」御船千鶴子(みふねちづこ)(鈴木光司『リング』の山村貞子のモデルと言われている)より。
(注3)
例によって心ない人々は〈土テックス〉と揶揄した。〈フェア奴隷土れいど〉〈つち・土用の土土の日〉など心ない言葉は今も生産されつづけている。
(注4)
コミック版『風の谷のナウシカ』は日本の未来を予見した。沼崎はこの説を信奉していた。つまり東京都は「土鬼ドルク諸侯国」で、千葉県が「トルメキア王国」、ドンビは腐海の蟲たちというわけだ。救国乙女「風の谷のナウシカ」は風俗、おそらく渋谷か鶯谷(うぐいすだに)でデリヘル嬢をしながら出番を待っている。沼崎は自分自身を「森の人」になぞらえていた。
(注5)
沼崎はこのブロッキング現象について、ドンビ関係の陰謀ではなく、ADSLから光ファイバーへ接続サービスのグレードアップを拒んだためプロバイダーが嫌がらせをしている、という説にかなりの説得力を感じていた。
沼崎六一郎はキーボードを叩く指を止めた。
ちょうど「序文」が書き上がったところだった。(注1)
沼崎は自作の潜望鏡〈千里眼CHIZCO〉を手に取った。(注2)
静かに窓を開き、細長い円筒の先端をカーテンの隙間に差し込み、もう片方から下を覗いた。
丸い世界が地上を捉えると、高圧送電用の鉄塔の太い鉄骨にゆっくりと頭突きをしている男が映し出された。
大家の西機氏だ。
本職は表具屋だが、沼崎が住むこのアパートも経営している。
西機氏は短く刈り込んだ白髪の頭を、ごーん、がーん、ごーんと、ゆったりとしたリズムで鉄塔の支柱に打ちつけていた。
元国体のボート競技の選手だったというだけあって、上腕二頭筋はぼこっと盛り上がり、背中には分厚い広背筋を貼りつけている。
これが潜望鏡ではなくスコープつきのライフルなら、一発で終わらせられるのだが。
沼崎は潜望鏡を左手で支えながら、右手で実在しないトリガーを引いた。
丸い視界の中でごま塩頭がパーンと赤く弾ける様子が、沼崎の脳内で映像化されていた。
一階の窓が開く音がした。
小さく「お父さん……」と呼ぶ声がして、窓から伸びた白い手がアルミのトレーに載せた丼鉢を揺らしていた。
中には茶色い物質が山盛りになっている。
頭を支柱に打ちつける運動が止まった。
西機氏は振り向くと、妻が差し出す丼鉢のほうへ歩いていった。
受け取った丼鉢にこんもりと盛られた味噌のようなものを手づかみで食べ始めた。
送電線の鉄塔が立つこの空地は、四方を家々の壁や塀や生け垣に囲まれて、ちょっとした中庭になっていた。
ドンビを放し飼いにするには打ってつけの場所だ。
西機氏は日がな一日そこを徘徊し、腹が減るとごーん、がーん、ごーんと、鐘を鳴らした。
西機氏は茶色い物質を脇目もふらず食べつづけている。
茶色い物質は、赤茶色の赤玉土と黄褐色の鹿沼土を一対一の割合で混ぜ合わせ、総合ビタミン剤を振りかけたものだ。
関東ローム層ならすぐ足下からダンプカー数台分は掘り出せそうだが、なぜかドンビはスーパーで売っている加工された園芸用の土しか食べない。
赤玉土と鹿沼土が人気で、これに砂やピートモスを混ぜて与える人もいる。
腐葉土はよくない。
土壌菌と発酵熱で内臓の腐敗が進んでしまうのだ。
〈土ンビ〉〈土ボット〉〈土―ガニック〉〈土ランク土ラゴン〉〈土砂万部〉〈ツチズン〉……
呼び方はいろいろあれど、どれもSES(土食症候群)の患者を揶揄する言葉だった。
ドンビがまだ伝達性海綿状脳症の一種で狂牛病(牛海綿状脳症)の親戚だと考えられていた頃、患者の神経細胞内に蓄積する病原体・モンパク(モンスタータンパク質)を体内から追い出すためには、動物性タンパク質を積極的に摂取させればいいというデマが流行はやった。
ある研究者の説によると、モンパクは遺伝子組み換え種子と、ある種の土壌と、ある種の農薬の「絶妙なる不適切な出会い」から生まれた「狂った果実」「狂野菜」によって人へと伝染する。
そうなると、何を食べればいいのだろうか。
穀物、野菜、果物はとりあえず全部危ない。
味噌も醤油もサラダオイルも信用できない。
魚はどうだろうか。
ダメだった。
魚類には水銀のように、田畑から溶け出して、川から海へ流れ込んだ「不適切な出会い」物質が蓄積している可能性がある。
肉は?
動物性の餌で育った家畜なら平気だろう。
肉だ。
肉を食うしかない。
牛脂で焼いたステーキなら大丈夫。
ラードで揚げた唐揚げもOK。
ラードで揚げたトンカツは、しっかり衣を外すこと。
ハンバーガーもレタス、ピクルス、パン抜きが基本。
牛丼チェーン店では「牛丼牛のみ」「牛皿ネギ抜き」が正式メニューに。
人々が肉に群がった。
食肉の値段は軒並み二倍まで跳ね上がった。
特に近江牛や松坂牛、アグー豚に東京X、名古屋コーチンなどブランド系の肉が、五倍から十倍に高騰。
逆に高麗人参、霊芝、青汁、ロイヤルゼリーなどは「不健康食品」と呼ばれ、売り上げは急落。
この「肉なら安全」が、不思議なことに、いつしか「肉が病気に効く」に変わるのだ。
狂った農産物の毒を中和するためには肉だ、肉しかないとばかりに、すでに消化能力の衰えた患者の体内に鶏・豚・牛・羊の精肉が詰め込まれた。
患者の腸内で生肉が腐敗した。
患者がバタバタと朽ち果てて、これはダメだという話になった。
見た目や動きが似ているからといって、肉食のゾンビとはやはり違うのだ。
ところが、ある患者の家族が何を考えたのか園芸用の土を与えたところ、肉よりも断然食いつきがよかった。
肉食から土食への大転換の始まりだ。
土食は消化器官のデトックスになるという説に家族も縋った。(注3)
患者はどんどん土を求め、スーパーやホームセンター、百均の園芸棚が空になる事態へと発展した。
鹿沼土や赤玉土がなぜ効くのかについては、産地で今も秘かに行われている土葬にヒントがある、などという説も真しやかに語られた。
ともかく原理は解明されないものの、土を与えておけば現状維持は可能となった。
やがて土を食べて土を排泄はいせつするのだから、患者の糞を寄せ集めてビタミンでも混ぜてまた与えればいいと気がつく無精者が現れ、患者から排出される残土に苦しめられていた家族を救うことになる。
何しろ土とは実に厄介な代物で、トイレには流せないし、自治体も通常のゴミとは認めず引き取ってくれない。
☜ここにペットやドンビさんのフンを捨てないでください
この手の貼り紙も増えすぎて違和感もなくなった。
こうなってしまうと残土を処理するため、それなりの費用をかけて業者に頼むか、自宅の庭に撒くしかなくなる。
特に土地を持たない都市生活者にとって問題は深刻で、高層マンションのベランダに意味もなく増えていくプランターや、アパートの部屋の隅に堆くなっていく土嚢に困り果てていたのだ。
患者に患者の排泄物を食べさせるというタブーを乗り越え、土サイクルに走る家族が増えるとホームセンターの土は売れ残り、高騰を見込んで園芸土を買い占めていた業者は地団駄を踏むことになった。
「……(音楽スタート)(ナレーション)美食と飽食の現代に忍び寄る土食症候群。SESはわれわれに何を訴えかけているのでしょうか。(タイトル)『土を食べる病~急増する土食症候群~』(エンドロール)……制作N〇K」
〇HKのドンビ特集は好評につき都合四回再放送された。
奇病の噂に怯おびえ、何かとんでもないことが起きているのではないかと疑っていた人々は、「SES」という難病が一つ増えただけだと知って安堵あんどした。
AIDS(後天性免疫不全症候群)、ALS(筋萎縮性側索硬化症)、AT(毛細血管拡張性失調症)、CD(クローン病)、DM(皮膚筋炎)、HD(ハンチントン病)、HHT(オスラー病)、PAN(結節性多発動脈炎)、PSP(進行性核上性麻痺)など治療困難な病はほかにも多数存在するのだった。
人々の口からドンビが遠のいていった。
穀物、野菜、果物に次々と安全宣言が出され、肉類もまた飽和脂肪酸で悪玉コレステロールだからメタボリックでほどほどに、へ戻った。
牛丼チェーン店のメニューから「牛のみ」も消え、メディアでモンパクの危険性をあれほど唱えていた学者たちも研究室から出てこなくなった。
代わりに新たな噂が蠢き始める。
山梨の廃村に造られたゴミ処分場に夜な夜なトラックがやってきて大勢の人が下ろされるのだが誰も外へ出て来ない。
それは都内を徘徊中に警察や保健所に保護されたSESの患者たちで、高名な僧侶でもあらせられる都知事猊下の裏大乗仏教的なご慈悲により最終解決されているのだとか。
逆にお隣の千葉ではドンビの政治利用が本格化、全国から患者を受け入れ、アイドル出身の県知事の土下僕として調教されているのだとか。(注4)
まだまだある。
神奈川県、横須賀軍港に停泊中の米軍マーシー級病院船が、実は金持ち専用のドンビ病棟なのだとか。
一般家庭ではリフォームで座敷牢を造るのが密ひそかなブーム、すでにドンビ専門の訪問看護サービスも営業を始めているのだとか……。
* * *
泥沼にぶくぶく涌くアブクのような情報を掻き集め、忘れっぽい人の世に抗ってきたドンビ情報まとめサイト〈ドはドンビのド〉────
ブロガー・沼崎六一郎が真相究明と警鐘を鳴らすために立ち上げ、活動の拠点としてきたウェブサイトは、嵐のようなスパムメールと冷やかしの書き込み、サイトの更新時を狙ったように接続が突然切られる謎のブロッキング現象などもろもろの「妨害活動」により、運営開始から二十か月目で閉鎖を余儀なくされた。(注5)
しかし、本日、沼崎は晴れて孤立した。
プロバイダーとのADSL契約を打ち切り、愛用のノートパソコンはスタンドアローンのワードプロセッサーへと退化した。
固定電話も解約した。
テレビもすでに地上波アナログ放送終了とともに処分してある。
携帯電話、スマートフォンの類はもとより所持していない。
大量情報通信時代の遺物はスリーバンドの小型ラジオのみとなった。
* * *
一心不乱に土食にふける西機氏がやや前屈みになって股を開くと足元へぽと、ぽと、ぼとぼとぼとっと土が垂たれ始めた。
(土ドボト民ミンが……)
沼崎は顔を顰めて〈千里眼CHIZCO〉から目を背けた。
西機氏はいつ排泄しても平気なように作業ズボンのうしろが切り取られていて常時尻を露出させていた。
ときどき夫人がホースで温水をかけた。
この家では土のリサイクルは行われていない。
常に新しい土が与えられているのがせめてもの救いだった。
(つづく)
(注1)非公開ブログ『白昼の生存者』序文
古今東西、地獄が罪人でいっぱいになると、あふれた死者が地上を歩き出すものらしい。
それ自体は理に反してはいるものの実はたいしたことではないのかもしれない。
気をつけなければならないことは、この異常な光景が日常に溶け込んでいくことだ。
誰も異変を異変と受け取らずにどんどん慣れている。
問題意識が薄れていくことこそが大問題なのだ。
おれは日本を覆おおい尽くしているこの麻痺まひの感覚に異議を唱となえようと、ネットを中心に活動をつづけてきた。
そのたびに心ない人々に嘲あざけられ嘲笑ちょうしょうされ嘲弄ちょうろうされてきた。
ネットで未来は救えない。
おれの網は目が粗あらく、やつらの網は細こまかすぎる。
世界の壁は厚くおれを阻はばみ、代わりに部屋の壁に拳こぶしの痕あとが残るだけだった。
いつまでたっても日本に夜明けは来ない。
ただ曖昧あいまいで無自覚で残酷ざんこくな朝が巡めぐってくるだけだ。
実りのない虚むなしいカナリヤ活動からおれはいっさい手を引くことにした。
人々はガスが充満した廃坑はいこうの中で幸福そうに眠りこけている。
万民の救済など土台無理なことだ。
まずは最も身近な一人を救うことに専念しよう。
エヴァンジェリストからサバイバリストへ────(*)
撤退戦には違いない。
だがこれは大きな転機だ。
逃げられる人は幸いだ。
逃げよ、逃げよ、すべての笠岡かさおかふれあい空港、尾道おのみちふれあいの里、中津川なかつがわふれあい牧場から逃げ出せ。(*)
逃げた先からまた逃げろ。
おれはぎりぎりまで踏み止まる。
誰もが己おのれの後衛しんがりを務めなければ生き延びられないこの現実を、身をもって世に示す。
おれがやるべきことはもはやこれしかない。
すべての自分よ。
自分で生きろ。
世界を救うな。
自分を救え。
いつの日か手記の最後をこの言葉で飾かざるべく、おれは新たな一歩を踏み出したのだ。
*エヴァンジェリスト 元はキリスト教の伝道者のこと。何か啓蒙活動を行う人全般を指す。
*サバイバリスト あらゆる危機から生き残ることを至上の目的とする生存主義者。
*五島勉(ごとうべん)『ノストラダムスの大予言』より
逃げよ逃げよ、すべてのジュネーブから逃げ出せ
黄金のサチュルヌは鉄に変わるだろう
巨大な光の反対のものがすべてを絶滅する
その前に大いなる天は前兆を示すだろうけれども(『諸世紀 』9章44番)
沼崎六一郎は1973年発売の大ベストセラー『ノストラダムスの大予言』を信じて1999年に地球は滅亡すると思っていたが、そうはならなかった。しかし、それは年代が少しズレて、状況も少し変わっただけだと今では考えている。
(注2)沼崎六一郎サバイバル7つ道具・その1〈千里眼CHIZCO〉
掃除機のパイプと手鏡とレンズを組み合わせた自家製の潜望鏡(ペリスコープ)。パイプを延長すれば最大一六五センチになり、高い塀の向こうも確認できる。沼崎は様々なサバイバルガジェットを自作していた。なお、ガジェット名は悲劇の透視能力者「千里眼(せんりがん)」御船千鶴子(みふねちづこ)(鈴木光司『リング』の山村貞子のモデルと言われている)より。
(注3)
例によって心ない人々は〈土テックス〉と揶揄した。〈フェア奴隷土れいど〉〈つち・土用の土土の日〉など心ない言葉は今も生産されつづけている。
(注4)
コミック版『風の谷のナウシカ』は日本の未来を予見した。沼崎はこの説を信奉していた。つまり東京都は「土鬼ドルク諸侯国」で、千葉県が「トルメキア王国」、ドンビは腐海の蟲たちというわけだ。救国乙女「風の谷のナウシカ」は風俗、おそらく渋谷か鶯谷(うぐいすだに)でデリヘル嬢をしながら出番を待っている。沼崎は自分自身を「森の人」になぞらえていた。
(注5)
沼崎はこのブロッキング現象について、ドンビ関係の陰謀ではなく、ADSLから光ファイバーへ接続サービスのグレードアップを拒んだためプロバイダーが嫌がらせをしている、という説にかなりの説得力を感じていた。
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