吸血王子 と 吸血事務員 が 土食・オブ・ザ・デッドの世界を旅するはなし

aonuma seiya

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第14話 うっ血女子とその母親と血色わるい王子 後編

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 チホは母親とお金の話をした。

 父親がああなってしまい、実家の収入が心配だったのだ。
 と言っても自分が出せる額は知れている。

 困っているなら、この際〈にしはた荘〉を売ってしまう手もある。
 協会を通せば相場より高く買ってくれるだろう。

「蓄えが多少あるし、家賃収入も毎月入るからね。高い医療費を払っているわけでもないし、心配しなくて大丈夫よ」と母親。

「家賃収入って……今、誰か住んでいるの?」
 オンボロ風呂なしアパートにまだ住人がいるとは思わなかった。

「二階に一人だけだけど」
「中国人? 何さん? ホンさんだっけ? ワンさんもいたよね」
「沼崎さんよ」
「あいつ、まだいるの!? だって、もう二十年以上いるじゃない」
 ちょっと、声が大きいわよ、と母親が天井を指さした。

 沼崎はチホが幼稚園に通っていた頃から住んでいる超古顔だ。
 何をして暮らしているのかよくわからない人で、ジーパンで数か月通勤したかと思うと急に部屋から出て来なくなり、次に見た時はスーツを着て通勤していた。
 それも数か月で終わるとまた部屋に引きこもった。
 今になって思えば非正規の仕事をしていたのだと推測できるが当時は謎だった。

 新聞の拡張員やNHKの集金人と口喧嘩したり、盛りのついた野良猫を手製の鞭ムチで追い払ったり、ゴミ出しで近所の人とトラブルになったり、沼崎についてチホには碌ろくな記憶がなかった。
 目が合って挨拶しても五回に四回は無視された。

「こいつ、今何やってるの?」
 チホは天井を指さして言った。

「チホ。やめなさい」
 母親は眉をしかめた。
「あの人は入居以来一度も家賃を滞納していないのよ。こっちは助かってるんだから」

 沼崎に好意的な母親にチホは釈然しゃくぜんとしないものを感じた。
 あんな人がずっと健康に生きていて、理科斜架リカシャカ蜘蛛網クモアミサエ、父親が病に倒れるのは納得がいかない気がした。

「あなたのほうはどうなのよ? リカちゃんとクモちゃん、調子悪いんでしょう?」
 逆にかれてしまった。
「うん。まあ、何とかね。今日もその件で行って来たんだけど……」(注1)

 家の中を見回っていた世良彌堂せらみどうが居間へ戻ってきた。
 庶民の暮らしを堪能たんのうしたようだ。

「また来るね。何かあったら知らせて」

 チホと世良彌堂は家をあとにした。
 世良彌堂は往来で手を振る母親にさも嬉しそうに手を振り返した。

「おまえの母は、いい女だ」
 駅へ向かって歩きながら世良彌堂が言った。
「あの尻は金を生む尻だ。かなりくたびれてはいるが、おれがきたえ直せばまだ十分に……痛い! やめろ。やめてくれ!」

 チホは世良彌堂の耳から左手を離した。

「今度言ったら、右手で、つねるからね」
 チホは拳を握って見せた。
「わたしの右手の握力ね、450キロなの」

「数値がおかしい」
 抓られた耳を押さえる世良彌堂。
「45キロの間違いだろう? それでも結構な数値だが」

「450キログラム。協会で測ったのは中三の時だから、今は600キロくらい?」
「ほう。なるほど。おまえはシオマネキなのだな。用心しよう」(注2)

 狭い商店街を並んで歩く世良彌堂の手には、チホの母親から持たされた袋詰めの菓子がぶら下がっていた。

「しかし、おまえの母は少しおかしくなりかけているな。台所がマッドサイエンティストの実験室みたいだったぞ」

 テーブル一面に白い小皿が並べられ、白や青や赤い何かの粉末が入っていた。
 コンロには異臭のする黒い物質を煮詰めた鍋が置かれ、棚には植物の根を漬け込んだ瓶詰がずらっと並んでいたという。
 これで料理研究家でも日本画家でもないとすると、答は限られてくる。

「あんた、そんなところまでのぞいてたの。失礼なやつ」

 チホも気づいていた。
 実家の台所はアコーディオンカーテンで隠されていたが、部屋の中には漢方薬の匂いが残っていた。
 覚えのある匂いだった。

「別に見たくて見たわけじゃない。紙一枚ほどの隙間から見えたのだ」
 世良彌堂はキャスケットのつばを人差し指で押し上げた。
 夕暮れの商店街、江戸前寿司の店先で青い目が妖しい光を放った。
「おれの〈万物を丸裸にする目セラミッド・アイ〉は、五キロ先の女性剣士の剣道着の下のB・W・Hを正確に言い当てることができる」(注3)

「何でもいいよ、もう」

 チホは小学五年の時、保健室の先生に「あなたは吸血者です」と告げられた。
 チホの体が弱いのは血を飲まないせいなのだと。
 日本養護教諭連絡協議会は日本吸血者協会の下部組織の一つ。
 吸血者を早期に発見し入会させるため、日本吸血者協会は、全国の小中学校の保健室を押さえているのだった。

 吸血者と判明したチホは、母親に手を引かれて、いろいろな病院を連れ回された。
 母は娘の「血の病気」を治療しようとした。
 医療機関が役立たずで、効果的な民間療法もないとわかると、今度は母親自ら調合した薬を飲まされた。

 ハーブのうちはまだよかった。
 効かないとわかると、本格的に生薬しょうやくによる人体実験が始まった。
 絵筆を洗った水のような酷い色の、苦く渋い薬湯の入ったハローキティのマグカップを手に、お面のように固まった笑顔で追いかけてくる鬼女から小さなチホは逃げ回った。
 人生で一番怖い鬼ごっこだった。

 チホは協会に助けを求め、協会は母親にカウンセリングを行った。
 協会の勧めに従い、チホは高校卒業と同時に家を出て、吸血者のコミュニティーで生きることに決めたのだ。

「ピアノ、英語、硬式テニス」
「何の暗号だ?」
西機にしはた家、理想の娘の習い事」

 チホが触れたピアノは調律師が首を傾げるほど音が狂った。
 弾きつづけるとすぐに壊れた。
 鍵盤が沈んだままになってしまうのだ。

 テニスのラケットは一打でガットが切れた。
 打ったボールはコートの駐車場の向こうのビルの上を越えて消えた。
 手からすっぽ抜けたラケットも回転しながら家々の屋根を越えていった。

「テニスの先生に言われた。陸上に行ったほうがいいって。砲丸投げとか、円盤投げとか」
「まあ、そっちなら逸材だろうな」
「うちの家さ、ドアがないでしょう? 全部、引戸とアコーディオンカーテン。何でか、わかる?」
「想像はつくさ。おまえが壊したのだろう」
「ドアノブってもろいよね。今まで何個もぎ取っただろう。ドアは左手で開けるように言われていたけど、急いでいるとさ、そうもいかないよね」

 チホは無言でドアを引戸につけ替えていた父親を思い出した。
 お父さん、ごめんなさい、と小さな声で広い背中に向かって言ったが、父親はやはり無言のまま黙々と家中を引戸に替えていった。

 中学に入ってからは、右手に包帯を巻いた。
 高校二年まで、箸はしもメールも握手も左手。
 おかげで左手はずいぶん器用になった。
 右手を自在に制御できるようになるのは、理科斜架と蜘蛛網に出会ってからだ。
 それまではびくびくしながら世界に触れてきた。

「うちのお父さんにはね、夢があったみたい」
「夢?」
「わたしのピアノを聞きながら仕事をすること」
「哀しいほど、ささやかだな。庶民だから仕方がない」
「お父さんの理想は、わたしには難しかった。血を飲むとやたら元気になる自慢の娘って、開き直ってくれるとよかったんだけど。英語教室は、単に英語が嫌いだったからサボったんだけどね」

「それは正しい判断だ。おれが知る限り、YMCAのキッズ英語で英語が話せるようになった者はいない。ECCジュニアでも結果は同じだ」
「え、まさかだけど、彌堂君て、英語……できるよね?」
 世良彌堂が下を向いている。
 チホの耳にかすかに舌打ちする音が届いた。

「これで、わたしのことはだいたいわかったね。次は、彌堂君の番だよ。あんたは何者? ただの詐欺師さぎし? イトマキ症が怖いから、調べているの? それだけ? お父さんやお母さんは?」

「いい質問だ。だが、その前に……」

 世良彌堂はパチンコ店の前の電信柱の陰に回り込むと、チホに告げた。

「今からおれの言う通りにするんだ」



(つづく)










(注1)
「吸血者ではない人が、吸血社会について理解することはかなり難しいことです。たとえ実の親や子供、友人であっても、吸血者以外の人と吸血社会の話をすることはできるだけ避けることが賢明です」
日本吸血者協会発行『救血ハンドブック』「救血の心得② 親しい人との会話について」より

(注2)シオマネキ
スナガニ科のカニ。オスは片方のハサミが巨大化する。

(注3)万物を丸裸にする目(セラミッド・アイ)
プロビデンスの目。万物を見通す目(ピラミッド・アイ)のパクリ。アメリカ1ドル札の裏の図案が有名。古代から使用されてきた宗教的シンボル。
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