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第26話 うっ血女子と血色わるい王子⑩
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霧輿総病院長は別れ際、手帳を取り出し何か記し始めた。
その頁を破るとチホへ渡した。
そこには〈仁左衛門島〉とだけ書かれていた。
「兄はその島にいるでしょう。週末はたいていそこです」
「貴様の兄は島で何をしている?」
世良彌堂が尋ねた。
「さあ、ぼくには兄の考えはわかりません。ここから先は吸血者の世界の話です。では、そろそろ退場させていただきますよ。ぼくの患者たちが待っていますので」
そう言ってまたゆっくりと階段を下りていく霧輿総病院長に、チホは協会本部で兄・霧輿龍次郎に会ったことを明かした。
難解な吸血者ジョークを披露されたことも。
「それは災難でしたな。つまらなかったでしょう」
総病院長は一頻り笑うと、静かに告げた。
「ぼくが言うのも何ですが、ああ見えて兄は油断のならない男です。お気をつけて」
* * *
二人はタクシーを拾って〈島〉を目指した。
チホが「仁左衛門島までお願いします」と言うと、車は何故か海岸線から離れ山へ向かった。
「おい、島だぞ」
世良彌堂が質すと、運転手はこれで間違いないと言う。
二人は訝りながらも従うしかなかった。
大瑠璃ダムは小櫃川の支流に造られたロックフィル式の多目的ダム。
同じ水系の亀山ダムは千葉県最大の総貯水容量を誇りブラックバスのゲームフィッシングやオートキャンプ場も複数あるなどアウトドアライフの一大拠点である。
ところが、ここ大瑠璃ダムは周囲が二キロほどの湖水の中央付近に土砂が堆積、発電施設としても農業用水としても利用できなくなってしまった。
県議会でダムを浚渫して整備し直す案が一度提出されたが費用その他の理由により否決。
それも三十五年も昔の話である。
二人は渓流に寄りそう細い林道の中ほどでタクシーを下ろされた。
林道の脇に獣道のような小道があり、徒歩五分で〈島〉だという。
運転手の言葉通り五分歩くとリング状の小さなダム湖が現れた。
直径六百メートルほどの湖水に直径四百五十メートルほどの中州が浮かんでいた。
中州にはすでに樹木が生い茂り湖水は濠のように淀んでいる。
この大きな中州が通称「仁左衛門島」だった。
鴨川市太海浜沖に浮かぶ「仁右衛門島」は新日本百景にも選ばれた南房総有数の行楽地で源頼朝の隠れ穴、日蓮聖人の伝説で有名だった。
よく似た名前の島でも、右と左でえらい違いである。
どこから乗りつけたのか湖岸に品川ナンバーの赤いジャガーが止まっていた。
きっと別のルートがあるのだろう。
「いるな……」
世良彌堂が仁左衛門島を見据て呟いた。
「見えるの?」
「邪悪な黒い影が、あの島を覆っている……」
チホの目にはただこんもりと緑が茂った中州が映っていた。
板を渡しただけの簡易な船着き場に手漕ボートが繋がれていた。
さっさとボートの後部の艫のほうへ乗り込む世良彌堂。
「ちょっと、わたしが漕ぐの?」
「おれは非力だ。力仕事はおまえに任せる」
チホはしばらく腕組みしていたが、諦めてボートに乗り込むと舳先に背を向けて腰かけた。
オールをセットしてぎこちなく漕ぎ始めた。
右のオールは何とか動かせたが、左は水中に突き刺さったままなかなか抜き出せない。
ペダルを踏めば前に進むスワンボートとは違って、普通のボートは難しい。
チホは、昔公園の池で家族三人でボートに乗ったことを思い出した。
国体の選手だった父親が漕ぐボートは水を掻く音もさせずに滑らかに池の上を滑った。
父親の膝の間に入ってチホも漕いでみた。
まだ吸血者になる前で小学校低学年の女子にはオールは重く、まったく漕げなかった。
チホの手の上から父親が大きな手で一緒に漕ぐと、忽ち周りのボートを抜き去って瞬またたく間に池を一周してしまった。
あれは爽快な気分だった。
「おい、まるでミズスマシだ。ぐるぐる回っているぞ」
世良彌堂に指摘され、振り向くと確かにボートは左旋回を繰り返していた。
世良彌堂の指示で右一回につき左三回の割合で漕ぐとボートはやっと仁左衛門島へ向かって進み始めた。
コツを掴んだ頃にはもうチホの背中に濃い緑色の島影が迫っていた。
やがてボートは遠浅の砂地へ乗り上げた。
そばに杭に繋がれた船外機つきのカッコいいボートがあった。
二人はボートを降りて灌木と叢の奥へ分け入った。
島は肥沃な土砂が溜まっているせいか、植物の成長は周囲よりかえって早いようだ。
世良彌堂は楕円軌道を描いて何度も迫ってくる大きなアブをレーザー光線でも出しそうな目で睨んでいた。
チホはいつでも撃てるように、左手にナス型オモリを握っていた。
どこからか軽快なミュージックが流れてきた。
「ふん。夏の定番大滝詠一か……」
チホはその曲に覚えはあったが曲名も歌手も知らなかった。
叢を抜けると、切り開かれた広場が現れた。
「あれか……」
世良彌堂が立ち止った。
広場の中央にテントが張られていた。
テーブルの上にラジカセやダッチオーブンや酒瓶が置かれている。
問題の人物はタープの下のデッキチェアに寝転んでいた。
赤いアロハシャツに膝丈のズボンを履き、サングラスをかけて缶ビールを飲んでいる。
チホたちに気づいたようだ。
寝そべったまま日焼けした顔をこちらに向け、缶ビールを持つ腕を上げて見せた。
「こいつなのかよ」
世良彌堂が吐はき捨てた。
「何と軽薄そうなラスボスだろう……」
二人がそばまで歩いていくと、男はデッキチェアから降りた。
「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山ぁぁァ~」(注1)
大滝詠一「君は天然色」をバックに、男は朗々と一首詠むと、つづけて言った。(注2)
「いらっしゃい、お二人さん。何を隠そう、ぼくが吸血者第1号、あの大友黒主です」
世良彌堂が怪訝な表情でチホを見上げた。
「何言ってるんだ、こいつ……」
吸血者ジョークよ、と小声で教えるチホ。
「でも、その歌は持統天皇やないかい……あれ? 吸血者には鉄板のはずだけど」
オールバックの銀髪を撫で上げながら霧輿龍次郎は笑った。
「大友黒主さんを見たという話はよく聞くのですが、実際どうなんでしょうね。まだご存命なら、ぼくも是非会ってみたいものです」
笑い声が総病院長とそっくりだった。
「黒主などに用はない。おまえがこの薬害奇病騒動の黒幕だな?」
世良彌堂が言った。
「孫がここを知らせましたか。つまりあなたたちは選ばれたお二人だ」
霧輿はサングラスを押し下げて二人を見た。
「待て。孫だと? 弟じゃないのか?」
世良彌堂が問い質す。
「戸籍上は弟ですが、あれは二度目の人生の孫ですよ。初めの人生の孫は大友黒主にも負けない優れた歌人でした。もうこの世にはいませんがね」(注3)
霧輿はそう言ってビールを呷った。
霧輿は二人に椅子を勧めたが、チホも世良彌堂も座る気はない。
テーブルを挟んで二人は霧輿と対峙していた。
テーブルの上のダッチオーブンからローストチキンの芳ばしい香りが漂っていた。
「おや、あなたとは二度目ですね」
霧輿がチホを見て言った。
「しかし、この島でのぼくは日本吸血者協会の理事長ではありません。ただの仁左衛門です」
匿名希望という意味だろうか。
チホは世良彌堂と顔を見合わせて首を捻った。
「やだなあ……まだわかりませんか? 仁左衛門は通名ですよ。ぼくの正体は元薩摩藩士、吉井友実」
霧輿はサングラスを額まで押し上げ左目でウインクした。
「よろしくね」
「貴様、血迷ったか」
世良彌堂が碧い目をぱちぱちさせた。
「吉井? 薩摩だと?」
「また吸血者ジョークよ、どうせ」
チホも信用していない。
霧輿は自分が「吉井友実」であることを立証し始めた。
吉井しか知らない西郷と大久保、薩摩の両巨頭の逸話。
吉井が日本初の民営鉄道「日本鉄道」の初代社長だった頃に揉み消した大事故について。
正直どうでもいい話だったが、チホは吉井が坂本龍馬の日本初の新婚旅行をお膳立した件だけ多少興味を引かれた。
「老人の昔話か」
世良彌堂が舌打ちして、苛立たしげに言った。
「貴様がかつて明治政府のB級高官で『坂本君』と大の仲良しだったのはわかった。それがイトマキ症の蔓延に怯える現代の吸血者と何の関係がある?」
「大ありですよ。この世の真実です」
吉井になった霧輿は嬉々として語り始めた。
「ぼくは大久保利通の側近でした。大久保が吸血者だったのはご存知ですね? 坂本君は英国の吸血商人グラバーの密使としてぼくたちに接触してきた。その窓口となったのがぼくです。ぼくたちは西洋吸血社会から入手した情報と武器で、吸血者弾圧政権だった徳川を倒そうとしたのです。また、西洋吸血社会はぼくたちを足がかりに、拠点を日本に移そうとしていました。あちらも宗教権力から随分苛められていましたからね。彼らは東洋の島国を吸血者の保護区とする計画を進めていました。それに、西洋の吸血者はフィッシュオイルが豊富な日本人の血が大好きですから。だが、徳川を追放し権力を奪取した大久保は西洋吸血社会を切り捨てようとしました。日本の将来のためには西洋そのものと向き合う必要があり、何かと口を挟んで来る碧い目の兄弟たちは邪魔になったのです。坂本君も邪魔でした。坂本君は人間でしたが、西洋吸血社会に魅入られたやつらの手先、つまり人狼です。どこかで切らねばならない男でした……」
「貴様が殺した?」
いつの間にか話に引き込まれている世良彌堂。
「ぼくが殺すべきだった。出来れば刺し違えて死にたかった……吉井友実一生の不覚……」
思い入れたっぷりに、梢の彼方の空を見上げる吉井友実。
「ストップ!」
チホは世良彌堂と吉井の間を割るように腕を差し入れた。
「ここまでイトマキ症という言葉が一度も出て来ませんけど。はっきり言って歴史の真実とか、全然どうでもいい話なんですけど」
「おい、生き証人の貴重な証言だぞ」
世良彌堂が批難がましく言った。
「そうそう。話はここから佳境に入るのですよ、ここから」(注4)
吉井も言った。
「うるさい!」
チホは一喝した。
「もう一度、前と同じことを訊くけど」
チホは一歩、吉井に近づいた。
「イトマキ症は、病気なの? 病気じゃないの? 治るの? 治らないの? わざわざここまで来てやったんだから、もう隠さずに知っていることを全部教えなさい!」
吉井は銀髪を撫で上げながらばつの悪い笑顔を浮かべた。
世良彌堂からも小さく舌打ちが漏れた。
「質問の答としては……」
改めて語り始める吉井。
「イトマキ症は病気ではない。よって治らない。そういうことになりますかな」
「ほう。病気じゃなければ何なのだ?」
世良彌堂も話の本線に復帰した。
「イトマキ症とは、日本μ吸血線虫が吸血者の肉体から離脱する現象。繭は結晶化した線虫の群体で、言わば生物学的タイムカプセル。線虫たちが時を渡って未来へ向かうための方舟です」(注5)
「ちょっと、待って。マイクロ何?」
チホは慌てて訊き返す。
「μ吸血線虫。聞き慣れない言葉だ。何だ、それは?」
世良彌堂も驚いている。
「吸血者協会のトップシークレットですよ。簡単に言うと、ぼくたちはμ吸血線虫の〝巣〟なのです」
吉井は先ほど万感を込めて龍馬を語った同じ口で事もなげに言った。
「……ス?」
チホはまだ全然ピンと来ない感じだった。
「す。って……」
「ぼくたちが飲む血液は線虫の餌になります」
吉井は淡々と語った。
「そいつは寄生虫の類か? μ吸血線虫は、人間の腸に巣食ったサナダムシが食いものを盗み取るようにおれたちから血液を横取りしている、というわけか?」
世良彌堂が重ねて質した。
吉井は残りのビールを一気に呷った。
ごくっと喉を鳴らして飲み終えるとチホを見据えた。
「失礼ですが、あなたはまだ生理がありますか?」
「貴様、レディーに対して失礼にもほどがあるぞ」
何となく馬鹿にされているような気がして、チホは世良彌堂の横顔を一瞥した。
「普通にあるけど、それが?」
「そうですか。なら、あなたはまだ生きている」
吉井は空になったビールの缶をこんっとテーブルに置いた。
「生きている? 何の話?」
またピンと来ないチホ。
吉井はチホから目を逸し、世良彌堂を見下ろした。
「残念ながら、君はもう死んでいる。ぼくもだ」
「死んでいる、だと?」
「寄生虫とおっしゃいましたか……それはぼくたちのことですよ。この肉体はすでにμ吸血線虫のもので、ぼくたちはその器官を借りて今話しています」
「何を言っている?」
世良彌堂の肌がいつかのように、青ではなく緑色に冷めている。
「貴様は、何を言っている?」
虚ろな目で吉井を見上げた。
「おい答えろ」
「ぼくたちの死について」
吉井友実はにっこりと微笑んだ。
「すでに死んでいるぼくたちについて、です」
(つづく)
(注1)小倉百人一首の二番歌
詠み人は史上三人目の女性天皇・持統天皇(645~703)。
(注2)大滝詠一「君は天然色」
作詞を担当した松本隆の死んだ妹を歌った曲だと知ると印象が変わってくる奥の深い楽曲。
(注3)吉井勇(よしい いさむ)歌人。(1886~1960)
父は海軍少佐、貴族院議員の吉井幸蔵。祖父は元薩摩藩士、伯爵の吉井友実。
黒澤明の名作『生きる』のブランコのシーンで有名な『ゴンドラの唄』の作詞者。
『ゴンドラの唄』
いのち短し恋せよ乙女
あかき唇褪せぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを
(注4)
イトマキ症には過去三回の流行期がある。わが国最初のイトマキ症患者が確認されたのは明治維新直後。それから明治十年までに三八一例が報告され、その後ぱたっと姿を消した。イトマキ症が次に現れたのは太平洋戦争末期。昭和二十五年までに七八九例が報告された。第三期にあたる現在、平成十年から今日までに四五〇〇例を超える報告がなされている。第一期は文明開化。第二期は敗戦後の米GHQによる占領。第三期はグローバル経済の進展。いずれも国が開かれる時期に吸血者の間でイトマキ症が流行している。これを偶然とはせず「開国」「かいこく」「カイコ」「繭」と連想するのが「イトマキ症言霊説」。霧輿日本吸血者協会理事長は公にはしていないが言霊説の信奉者であり、ここでもしチホが止めていなければトンデモない珍説が始まったことは言うまでもない。
(注5)日本μ吸血線虫(にほんマイクロきゅうけつせんちゅう)
別名「μシーボルト線虫」。江戸時代後期、日本の吸血者事情を調べにやってきたドイツの吸血医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが国外へ持ち出した血液サンプルから発見された線虫。ヨーロッパのμ吸血線虫の亜種と見られていたが、その後の研究で同種と認定された。
(日本吸血者協会・シークレットファイル「ドラキュペディア」より)
その頁を破るとチホへ渡した。
そこには〈仁左衛門島〉とだけ書かれていた。
「兄はその島にいるでしょう。週末はたいていそこです」
「貴様の兄は島で何をしている?」
世良彌堂が尋ねた。
「さあ、ぼくには兄の考えはわかりません。ここから先は吸血者の世界の話です。では、そろそろ退場させていただきますよ。ぼくの患者たちが待っていますので」
そう言ってまたゆっくりと階段を下りていく霧輿総病院長に、チホは協会本部で兄・霧輿龍次郎に会ったことを明かした。
難解な吸血者ジョークを披露されたことも。
「それは災難でしたな。つまらなかったでしょう」
総病院長は一頻り笑うと、静かに告げた。
「ぼくが言うのも何ですが、ああ見えて兄は油断のならない男です。お気をつけて」
* * *
二人はタクシーを拾って〈島〉を目指した。
チホが「仁左衛門島までお願いします」と言うと、車は何故か海岸線から離れ山へ向かった。
「おい、島だぞ」
世良彌堂が質すと、運転手はこれで間違いないと言う。
二人は訝りながらも従うしかなかった。
大瑠璃ダムは小櫃川の支流に造られたロックフィル式の多目的ダム。
同じ水系の亀山ダムは千葉県最大の総貯水容量を誇りブラックバスのゲームフィッシングやオートキャンプ場も複数あるなどアウトドアライフの一大拠点である。
ところが、ここ大瑠璃ダムは周囲が二キロほどの湖水の中央付近に土砂が堆積、発電施設としても農業用水としても利用できなくなってしまった。
県議会でダムを浚渫して整備し直す案が一度提出されたが費用その他の理由により否決。
それも三十五年も昔の話である。
二人は渓流に寄りそう細い林道の中ほどでタクシーを下ろされた。
林道の脇に獣道のような小道があり、徒歩五分で〈島〉だという。
運転手の言葉通り五分歩くとリング状の小さなダム湖が現れた。
直径六百メートルほどの湖水に直径四百五十メートルほどの中州が浮かんでいた。
中州にはすでに樹木が生い茂り湖水は濠のように淀んでいる。
この大きな中州が通称「仁左衛門島」だった。
鴨川市太海浜沖に浮かぶ「仁右衛門島」は新日本百景にも選ばれた南房総有数の行楽地で源頼朝の隠れ穴、日蓮聖人の伝説で有名だった。
よく似た名前の島でも、右と左でえらい違いである。
どこから乗りつけたのか湖岸に品川ナンバーの赤いジャガーが止まっていた。
きっと別のルートがあるのだろう。
「いるな……」
世良彌堂が仁左衛門島を見据て呟いた。
「見えるの?」
「邪悪な黒い影が、あの島を覆っている……」
チホの目にはただこんもりと緑が茂った中州が映っていた。
板を渡しただけの簡易な船着き場に手漕ボートが繋がれていた。
さっさとボートの後部の艫のほうへ乗り込む世良彌堂。
「ちょっと、わたしが漕ぐの?」
「おれは非力だ。力仕事はおまえに任せる」
チホはしばらく腕組みしていたが、諦めてボートに乗り込むと舳先に背を向けて腰かけた。
オールをセットしてぎこちなく漕ぎ始めた。
右のオールは何とか動かせたが、左は水中に突き刺さったままなかなか抜き出せない。
ペダルを踏めば前に進むスワンボートとは違って、普通のボートは難しい。
チホは、昔公園の池で家族三人でボートに乗ったことを思い出した。
国体の選手だった父親が漕ぐボートは水を掻く音もさせずに滑らかに池の上を滑った。
父親の膝の間に入ってチホも漕いでみた。
まだ吸血者になる前で小学校低学年の女子にはオールは重く、まったく漕げなかった。
チホの手の上から父親が大きな手で一緒に漕ぐと、忽ち周りのボートを抜き去って瞬またたく間に池を一周してしまった。
あれは爽快な気分だった。
「おい、まるでミズスマシだ。ぐるぐる回っているぞ」
世良彌堂に指摘され、振り向くと確かにボートは左旋回を繰り返していた。
世良彌堂の指示で右一回につき左三回の割合で漕ぐとボートはやっと仁左衛門島へ向かって進み始めた。
コツを掴んだ頃にはもうチホの背中に濃い緑色の島影が迫っていた。
やがてボートは遠浅の砂地へ乗り上げた。
そばに杭に繋がれた船外機つきのカッコいいボートがあった。
二人はボートを降りて灌木と叢の奥へ分け入った。
島は肥沃な土砂が溜まっているせいか、植物の成長は周囲よりかえって早いようだ。
世良彌堂は楕円軌道を描いて何度も迫ってくる大きなアブをレーザー光線でも出しそうな目で睨んでいた。
チホはいつでも撃てるように、左手にナス型オモリを握っていた。
どこからか軽快なミュージックが流れてきた。
「ふん。夏の定番大滝詠一か……」
チホはその曲に覚えはあったが曲名も歌手も知らなかった。
叢を抜けると、切り開かれた広場が現れた。
「あれか……」
世良彌堂が立ち止った。
広場の中央にテントが張られていた。
テーブルの上にラジカセやダッチオーブンや酒瓶が置かれている。
問題の人物はタープの下のデッキチェアに寝転んでいた。
赤いアロハシャツに膝丈のズボンを履き、サングラスをかけて缶ビールを飲んでいる。
チホたちに気づいたようだ。
寝そべったまま日焼けした顔をこちらに向け、缶ビールを持つ腕を上げて見せた。
「こいつなのかよ」
世良彌堂が吐はき捨てた。
「何と軽薄そうなラスボスだろう……」
二人がそばまで歩いていくと、男はデッキチェアから降りた。
「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山ぁぁァ~」(注1)
大滝詠一「君は天然色」をバックに、男は朗々と一首詠むと、つづけて言った。(注2)
「いらっしゃい、お二人さん。何を隠そう、ぼくが吸血者第1号、あの大友黒主です」
世良彌堂が怪訝な表情でチホを見上げた。
「何言ってるんだ、こいつ……」
吸血者ジョークよ、と小声で教えるチホ。
「でも、その歌は持統天皇やないかい……あれ? 吸血者には鉄板のはずだけど」
オールバックの銀髪を撫で上げながら霧輿龍次郎は笑った。
「大友黒主さんを見たという話はよく聞くのですが、実際どうなんでしょうね。まだご存命なら、ぼくも是非会ってみたいものです」
笑い声が総病院長とそっくりだった。
「黒主などに用はない。おまえがこの薬害奇病騒動の黒幕だな?」
世良彌堂が言った。
「孫がここを知らせましたか。つまりあなたたちは選ばれたお二人だ」
霧輿はサングラスを押し下げて二人を見た。
「待て。孫だと? 弟じゃないのか?」
世良彌堂が問い質す。
「戸籍上は弟ですが、あれは二度目の人生の孫ですよ。初めの人生の孫は大友黒主にも負けない優れた歌人でした。もうこの世にはいませんがね」(注3)
霧輿はそう言ってビールを呷った。
霧輿は二人に椅子を勧めたが、チホも世良彌堂も座る気はない。
テーブルを挟んで二人は霧輿と対峙していた。
テーブルの上のダッチオーブンからローストチキンの芳ばしい香りが漂っていた。
「おや、あなたとは二度目ですね」
霧輿がチホを見て言った。
「しかし、この島でのぼくは日本吸血者協会の理事長ではありません。ただの仁左衛門です」
匿名希望という意味だろうか。
チホは世良彌堂と顔を見合わせて首を捻った。
「やだなあ……まだわかりませんか? 仁左衛門は通名ですよ。ぼくの正体は元薩摩藩士、吉井友実」
霧輿はサングラスを額まで押し上げ左目でウインクした。
「よろしくね」
「貴様、血迷ったか」
世良彌堂が碧い目をぱちぱちさせた。
「吉井? 薩摩だと?」
「また吸血者ジョークよ、どうせ」
チホも信用していない。
霧輿は自分が「吉井友実」であることを立証し始めた。
吉井しか知らない西郷と大久保、薩摩の両巨頭の逸話。
吉井が日本初の民営鉄道「日本鉄道」の初代社長だった頃に揉み消した大事故について。
正直どうでもいい話だったが、チホは吉井が坂本龍馬の日本初の新婚旅行をお膳立した件だけ多少興味を引かれた。
「老人の昔話か」
世良彌堂が舌打ちして、苛立たしげに言った。
「貴様がかつて明治政府のB級高官で『坂本君』と大の仲良しだったのはわかった。それがイトマキ症の蔓延に怯える現代の吸血者と何の関係がある?」
「大ありですよ。この世の真実です」
吉井になった霧輿は嬉々として語り始めた。
「ぼくは大久保利通の側近でした。大久保が吸血者だったのはご存知ですね? 坂本君は英国の吸血商人グラバーの密使としてぼくたちに接触してきた。その窓口となったのがぼくです。ぼくたちは西洋吸血社会から入手した情報と武器で、吸血者弾圧政権だった徳川を倒そうとしたのです。また、西洋吸血社会はぼくたちを足がかりに、拠点を日本に移そうとしていました。あちらも宗教権力から随分苛められていましたからね。彼らは東洋の島国を吸血者の保護区とする計画を進めていました。それに、西洋の吸血者はフィッシュオイルが豊富な日本人の血が大好きですから。だが、徳川を追放し権力を奪取した大久保は西洋吸血社会を切り捨てようとしました。日本の将来のためには西洋そのものと向き合う必要があり、何かと口を挟んで来る碧い目の兄弟たちは邪魔になったのです。坂本君も邪魔でした。坂本君は人間でしたが、西洋吸血社会に魅入られたやつらの手先、つまり人狼です。どこかで切らねばならない男でした……」
「貴様が殺した?」
いつの間にか話に引き込まれている世良彌堂。
「ぼくが殺すべきだった。出来れば刺し違えて死にたかった……吉井友実一生の不覚……」
思い入れたっぷりに、梢の彼方の空を見上げる吉井友実。
「ストップ!」
チホは世良彌堂と吉井の間を割るように腕を差し入れた。
「ここまでイトマキ症という言葉が一度も出て来ませんけど。はっきり言って歴史の真実とか、全然どうでもいい話なんですけど」
「おい、生き証人の貴重な証言だぞ」
世良彌堂が批難がましく言った。
「そうそう。話はここから佳境に入るのですよ、ここから」(注4)
吉井も言った。
「うるさい!」
チホは一喝した。
「もう一度、前と同じことを訊くけど」
チホは一歩、吉井に近づいた。
「イトマキ症は、病気なの? 病気じゃないの? 治るの? 治らないの? わざわざここまで来てやったんだから、もう隠さずに知っていることを全部教えなさい!」
吉井は銀髪を撫で上げながらばつの悪い笑顔を浮かべた。
世良彌堂からも小さく舌打ちが漏れた。
「質問の答としては……」
改めて語り始める吉井。
「イトマキ症は病気ではない。よって治らない。そういうことになりますかな」
「ほう。病気じゃなければ何なのだ?」
世良彌堂も話の本線に復帰した。
「イトマキ症とは、日本μ吸血線虫が吸血者の肉体から離脱する現象。繭は結晶化した線虫の群体で、言わば生物学的タイムカプセル。線虫たちが時を渡って未来へ向かうための方舟です」(注5)
「ちょっと、待って。マイクロ何?」
チホは慌てて訊き返す。
「μ吸血線虫。聞き慣れない言葉だ。何だ、それは?」
世良彌堂も驚いている。
「吸血者協会のトップシークレットですよ。簡単に言うと、ぼくたちはμ吸血線虫の〝巣〟なのです」
吉井は先ほど万感を込めて龍馬を語った同じ口で事もなげに言った。
「……ス?」
チホはまだ全然ピンと来ない感じだった。
「す。って……」
「ぼくたちが飲む血液は線虫の餌になります」
吉井は淡々と語った。
「そいつは寄生虫の類か? μ吸血線虫は、人間の腸に巣食ったサナダムシが食いものを盗み取るようにおれたちから血液を横取りしている、というわけか?」
世良彌堂が重ねて質した。
吉井は残りのビールを一気に呷った。
ごくっと喉を鳴らして飲み終えるとチホを見据えた。
「失礼ですが、あなたはまだ生理がありますか?」
「貴様、レディーに対して失礼にもほどがあるぞ」
何となく馬鹿にされているような気がして、チホは世良彌堂の横顔を一瞥した。
「普通にあるけど、それが?」
「そうですか。なら、あなたはまだ生きている」
吉井は空になったビールの缶をこんっとテーブルに置いた。
「生きている? 何の話?」
またピンと来ないチホ。
吉井はチホから目を逸し、世良彌堂を見下ろした。
「残念ながら、君はもう死んでいる。ぼくもだ」
「死んでいる、だと?」
「寄生虫とおっしゃいましたか……それはぼくたちのことですよ。この肉体はすでにμ吸血線虫のもので、ぼくたちはその器官を借りて今話しています」
「何を言っている?」
世良彌堂の肌がいつかのように、青ではなく緑色に冷めている。
「貴様は、何を言っている?」
虚ろな目で吉井を見上げた。
「おい答えろ」
「ぼくたちの死について」
吉井友実はにっこりと微笑んだ。
「すでに死んでいるぼくたちについて、です」
(つづく)
(注1)小倉百人一首の二番歌
詠み人は史上三人目の女性天皇・持統天皇(645~703)。
(注2)大滝詠一「君は天然色」
作詞を担当した松本隆の死んだ妹を歌った曲だと知ると印象が変わってくる奥の深い楽曲。
(注3)吉井勇(よしい いさむ)歌人。(1886~1960)
父は海軍少佐、貴族院議員の吉井幸蔵。祖父は元薩摩藩士、伯爵の吉井友実。
黒澤明の名作『生きる』のブランコのシーンで有名な『ゴンドラの唄』の作詞者。
『ゴンドラの唄』
いのち短し恋せよ乙女
あかき唇褪せぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを
(注4)
イトマキ症には過去三回の流行期がある。わが国最初のイトマキ症患者が確認されたのは明治維新直後。それから明治十年までに三八一例が報告され、その後ぱたっと姿を消した。イトマキ症が次に現れたのは太平洋戦争末期。昭和二十五年までに七八九例が報告された。第三期にあたる現在、平成十年から今日までに四五〇〇例を超える報告がなされている。第一期は文明開化。第二期は敗戦後の米GHQによる占領。第三期はグローバル経済の進展。いずれも国が開かれる時期に吸血者の間でイトマキ症が流行している。これを偶然とはせず「開国」「かいこく」「カイコ」「繭」と連想するのが「イトマキ症言霊説」。霧輿日本吸血者協会理事長は公にはしていないが言霊説の信奉者であり、ここでもしチホが止めていなければトンデモない珍説が始まったことは言うまでもない。
(注5)日本μ吸血線虫(にほんマイクロきゅうけつせんちゅう)
別名「μシーボルト線虫」。江戸時代後期、日本の吸血者事情を調べにやってきたドイツの吸血医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが国外へ持ち出した血液サンプルから発見された線虫。ヨーロッパのμ吸血線虫の亜種と見られていたが、その後の研究で同種と認定された。
(日本吸血者協会・シークレットファイル「ドラキュペディア」より)
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