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第2章
第12話 ひとときの夢
しおりを挟む車に戻った私はハンドルに突っ伏して泣いた。
常に背を向けた朝とは違い、正面から私を求めるあの人と対峙した時、あの人も自分と同じ同性愛者なんだと初めて気づいた。
女とのキスもセックスも少ないとは言えないほどの経験がある。あの人の柔らかい体に触れ、舌で味わい、埋もれながら、私はそう思っていた。
そんなあの人の素肌に触れている時は確かに幸せを感じられたのに、あの人と私の限界点へ到着してしまった今は、喪失感の底へと沈んだような気持ちだった。
知らないから知りたい。
触れないから触りたい。
重なれないから重なりたい。
私に許される範囲の全ての願望が叶い、唐突に幕は降ろされた。もう本当にこれ以上先へ進むことはない。あれ以上進めばあの人は、朝のあの手と私のこの手が同一人物であると気づいてしまうだろう。
もしも私が電車の中、あの人の体をこの手で愛する行為をしていなかったら、私たちには違う未来があったんだろうか。
あの人は私の体だけでなく、心でも繋がろうとしてくれたのだろうか。
でも、きっとそんな未来は存在はしなかっただろう。
あの人があの夜私を求めたのは、寂しさを埋めてくれそうな人間だと悟ったからだ。私の中にある欲を無意識に感じ取って、利用出来ると本能が働いたからだ。あの時、現れたのが私じゃなかったとしても、その相手が何かを与えてくれそうだと察したら、あの人は同じことをしただろう。
私だからじゃない。
涙が枯れるのを待って、車にエンジンをかけた。あの人の部屋を見上げずに、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
***
次の日の朝、私は自分の愚かさに怒りすら覚えながらも、それに蓋をして駅までの道を歩いていた。
無意識でもすっかり迷うことのない慣れた手順であの車両に乗る。
表情を無くした私の視線の1m先には、昨晩あんなに求め合ったあの人が窓から流れる景色を見ていた。
いつものようにゆっくりと縮まる距離が皮肉な気がした。
あの人の背中に到着した時、本当はまさぐるよりもその華奢な体が折れてしまうほど抱きしめたかった。
そんな気持ちのまま背中に手を置く。
性欲に溺れる不埒なあの人の背中がまだこんなにも愛おしい。
どうしたら私はあの人を嫌いになれるんだろう。諦められるんだろう。
そんなことを考えながらも私の手はいつもの手順で腰へと下りてゆく。
ここも好き……
あの人の体はどこも好き……
出口のない籠の中で右往左往するこの気持ちと同じように、私の手は細い腰の上で行ったり来たりを繰り返した。
あの人の背中と腰に触れていただけで、自分の体に変化が起きる。どんなに虚しくても悔しいくらいに反応してしまう。
荒くなる呼吸を整えながら、もっと下へと手を下ろす……
その時だった。
私の手は無惨にもあの人の手に払いのけられた。
その瞬間、酸素を奪われたように私の息は止まった。あの人から見放された手をぶら下げ、私はただ、あの人と同じように流れる景色を眺めていた……。
***
普段は余裕を持って早めに出勤している私だけど、その日は出勤時間ギリギリにタイムカードを押した。
「お、みっつん珍しいな。こんなギリギリなんて」
「あ、小松さん、おはようございます。ちょっと寝坊しちゃいました……」
重い体で事務所から積み込み場所へ移動すると、すでに積み込みを終えた様子の小松さんが話しかけてきた。小松さんは私の隣の地域を担当しているおじさんだ。
「なんか疲れてる顔してるなぁ。大丈夫かー?昨日も帰り遅かったんだろ?」
「まぁ……」
「なんだ、具合でも悪いのか?」
「いえ、ただ少し疲れが溜まってるだけです」
「たまには俺、みっつんとこの夜便代わってやるよ」
「そんな、いいですよ!小松さんは早く帰れるようにって夜便が少ないとこのコース回ってるのに、そんなこと頼んだら意味ないじゃないですか!起きてるお子さんに会えなくなっちゃいますし!」
「でもなぁ、今まで何度もみっつんには夜便代わってもらってるからさ、たまにはお返ししたいんだよ。あんま調子良くないんだろ?その分だけ俺に任しなよ。今日くらい早く帰って少しはゆっくりしろって」
そう言いながら小松さんはちょうど私が手に持っていたあの人当ての荷物をひょいっと取った。
私は小松さんの手に渡った荷物を見つめながら、
「じゃあ……お言葉に甘えて今日だけいいですか……?」
とお願いした。
「オッケー!」
小松さんは笑顔で承諾してくれた。
数年前に奥さんに先立たれ、男手一つで三人の子どもを育てている小松さんは、何よりも早く帰ることを目的として仕事をこなしている人だった。
そんな小松さんには本当に申し訳ない気持ちだったけど、結局私はあの人の荷物をわたしてしまった。疲れが溜まっていたというのは嘘じゃないけど、体調は全く悪くなかった。ただ、あの人に会いに行く勇気が持てなくて逃げただけたった。
次の日の朝、馬鹿みたいに私はまたホームに立っていた。
昨日拒絶された時、もう朝のあの人に会いに行くのはやめようと決意したはずだった。
もう一度拒絶されたとしたらそのショックに打ち勝てる自信はないのに、あの人に触れたいこの手を私は止めることが出来なかった。
ホームにいつもの電車が乗り入れる。大きな音を立てて扉が開いた。
いつもの車両へ乗り込み、すぐにあの人を見つけた。今日は窓の外の景色ではなく、手すりを掴んだ自分の手に視線を落としている。
昨日の夜私が配達に行かなかった時、あの人は何を思ったんだろう。少しでも寂しさを感じてくれただろうか。
ゆっくりと近づき、定位置に到着する。
しかし、ここまで来て私はその背中に手を置くことが出来なかった。
思った以上に私の心は昨日の出来事に傷ついているらしい。
後ろからあの人の様子を見る。
決して振り向きはしないけど、手の主がいるのかいないのか、少し後ろを気にしているように見える。
腕時計を見る姿がどうしようもなく悲しげに映る。
昨日私の手を拒絶したことを今になって後悔してる……?
また払いのけられる恐怖を抱えたまま、あの人がもしも胸を痛めているなら、自分の痛みよりもそれを取り除いてあげたいと、私はあの人へ手を伸ばした。
腰に手を当て心の中で、「私が守ってあげますから……」とあの人に話しかけた。
今この瞬間は欲にかられた行為をするつもりはなかった。あの人も同じ気持ちでいるような気がした。目をつぶり、触れることの出来る幸せに浸っていると、突然冷たい手が私の手を握った。
すぐにあの人の手だと気づき一瞬躊躇したけど、逃げることはしなかった。
例え手だけだとしても、あの人と繋がれることが嬉しかった。せめて手だけでもあの人を包んでいてあげたかった。
あの人の生活の中に一体どんな苦しみがあるのか、私は知らない。だけどきっと、あの人は人には言えないことを抱えて毎日戦っている。それに心が疲れて、逃げたくなって、この手にすがってしまうんだ。この手を失ったらとても独りで歩いてはいけない。繋がれた手からそんな心細さが伝わってきた。
この手だけは絶対に離しちゃいけない……
あの人と別れる次の駅までの間、私はそう考えていた。
***
出勤すると、小松さんの姿を見つけてお礼を言った。
「小松さん、おはようございます!昨日はありがとうございました!お陰様でだいぶ良くなりました!」
「おーそりゃ良かった!良かった!」
「あの、お子さんたちが起きてる時間に間に合いましたか……?」
「間に合ったよ!思ったより全然早く帰れてさ!」
「よかった……」
「遠慮しないで調子悪い時はまたいつでも言ってきなよ。お互い様なんだからさ」
「ありがとうございます……」
「あ、そう言えばあの夜便のお客さん、中山さんって言ったっけ?」
「中谷さんのことですか?」
「あーそっかそっか!中谷さんか!あの人さ、みっつんのことすごい心配してたよ。お大事に伝えて下さいって伝言頼まれた」
「中谷さんは?!元気そうでしたか?!」
あの人からの意外な伝言を聞き、私は食い気味で聞き返した。私の鬼気迫る様子に不可解そうな顔をしながら、小松さんは答えた。
「……あぁ、普通に元気そうだったよ?」
「よかった……」
自分が望んで行かなかったくせに、小松さんの返事を聞いて安心していた。
「もし今日もまだ完全じゃないなら行こうか?」
「いえ、本当にもう元気ですから。ありがとうございます!」
あの人宛ての小さな荷物を抱きしめながら、私は答えた。
今日この荷物を持ってあの人に会ったら、ちゃんと伝えよう。
もうあんなことは出来ないということを。
あの人に一番必要な朝のこの手を守るため、配達員の私は配達員の枠から決して出てはいけない。すべての関係を失ってしまうような危険は、二度とおかしてはいけない。
ほんのひととき夢見たあの人との未来を、私は一人静かに捨てた。
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