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第2章
第21話 綺麗な人
しおりを挟む「……いつから……気づいてたんですか……?」
彼女は右手を引っ込めて拳を握りしめ、かすれた声で聞いてきた。
「三ツ矢さんがおばあちゃんに絆創膏をもらった日。『手の甲から血が出てる』っておばあちゃんが言った時、それを聞いて私は三ツ矢さんの手を思い出した。一瞬もしかしてって思ったけど、まさかそんなことあるわけないって思って、その時は大して気にしなかった。だけどその後、「大丈夫です」って返すかすかな声が聞こえたの。その声は聞き間違えるはずはなかった。この何ヶ月、毎日のようにインターホン越しに聞いてた声だったから……。それで私は、迷いがありながらも振り返ったの。そしたら、三ツ矢さんがおばあちゃんから絆創膏を受け取ってた……」
黙ったまま更に下を向く彼女に私は続けた。
「でもその時ね、全てが繋がったの。どうして私はあの手をずっと拒めなかったのか、身勝手なはずのあの手から、どうして愛を感じてたのか……。それはね、言葉はなくても、あの手からあなたの想いが伝わってきてたからだと思う!」
なんとか彼女に解ってもらおうと、私は必死に想いを伝えた。都合のいいように聞こえるとは思ったけど、それは紛れもない本心だったからそのままを伝える以外に方法はなかった。
「真実を知った時私は、あの手があなただったっていうショックよりも、自分があなたから、救いようのない不埒な女だって思われてたんじゃないかっていう恐怖の方が、ずっとずっと大きかった……。私がどんなに心から好きってあなたに向かって言ったって、あなたからすれば、全て偽りにしか映らなかっただろうから……。でも、理解できなくても、どうか信じてほしいの……。あなたが欲しくても決して手に入らないという現実の苦しみから、私はあの手に逃げてたの。誰の手だかも分からないあの手を、あなたの手だと思い込んで現実逃避して……。だけど、ただ性欲を満たしたかったんじゃない!私にとってあの手はずっとあなただったの!真実を知るずっと前から……」
彼女は私を蔑むことはなかった。
私が送った、理解しがたくまとまりのない言葉を、目をつぶって一生懸命に飲み込もうとしていた。
「じゃあ中谷さんはずっと、私だけを想ってくれてたってことですか……?」
ほんの少しだけ顔を上げて、疲れ切った世捨て人のような表情で確認をする。
「うん……」
「じゃあもしあの手が私じゃなかったら……?」
「口だけじゃなんの証明にならないかもしれないけど……きっと私は、三ツ矢さんの手じゃなかったら、あの手に執着し続けなかったと思う。三ツ矢さんじゃないなら、あの手から愛は感じなかったはずだから。だからきっと、いつか勇気を出して拒んでたと思う」
「そうですか……」
彼女は私の言葉を疑っているようには見えなかった。むしろ信じ切った上で不思議なことに、がっかりしてみせた。
私には彼女の反応の意味が分からなかったけど、今はとにかく彼女が離れていくことを止めることだけに必死になって訴えかけた。
「……私たちは特殊な関係性を続けてたかもしれない。でも、きっと想いは同じだったから……だから、何があったとしても問題じゃないはずだよ……」
私が手を差し出すと、彼女はみるみるうちに青ざめていった。ただただ何かに怯え、右手を腕まで使って、庇うように頭を抱えた。
「三ツ矢さん?……大丈夫?」
虚ろな目をする彼女は今まで見てきた彼女とは別人のように思えた。
「中谷さんは私を許せるんですか……?」
彼女は私の呼びかけには返さず、そう聞いた。
「許せるよ、全部!どんなことも許すから……お願い、私の手を取って……」
とにかく彼女を安心させたくてそう言った。彼女は目を潤ませて心細そうにその場に立ち尽くしている。
たまらず抱きしめたくなり、一歩前に右足を踏み出して手を伸ばしたその時、彼女は私の手が体に触れるのを避けるように後ずさりをした。
「三ツ矢さん……?」
「……中谷さんは本当の私を知らないからそんなことが言えるんです」
「……本当の三ツ矢さんてなに?それなら教えてよ!」
「……私、自分のことを棚に上げて中谷さんのことを審査してました。今朝電車の中であなたの体に触れた時、ひどく幻滅しました。私のことを好きだって言って、昨日あんなに求め合ったのに、それでもその数時間後には簡単に別の人間に体を許すんだと思って」
いつもの配達の時の元気な挨拶とはまるで違う、注意していないと聞き逃してしまうくらいの頼りない声で彼女は話し始めた。
「……ショックで、傷ついて、もうあなたから完全に離れようと心に決めて、今日は来たんです」
今朝だけはなにがあってもやはり受け入れるべきじゃなかったと、改めてまた後悔が押し寄せる。
「……でも、今あなたの話を聞いて、真実を知って気づいたんです。本当の私は今まで、あなたを自分と同じ種類の人間だと思って、それに安心してただけだったのかもしれません……」
「どうゆうこと……?」
「だけど違った。中谷さん、あなたは綺麗です。私とは違う。私は……あなたといていいような綺麗な人間じゃない……だから、ごめんなさい……」
「そんなこと勝手に決めないで!そんなの分からないでしょ?私と違うって言うなら何が違うのかちゃんと話して!」
私が詰め寄ると、見えない鎖で体の自由を奪われているようにぎゅっと身を固め、首を横に何度も振った。
「……せめてあなたに嫌われないままで別れたい」
私は踏み出した右足の行き場を無くし、地面を擦りながら元の位置へ戻すしかなかった。
「……じゃあ、私のことを何度も好きだって言ってくれたのも、ずっと一緒にいたいって言ってくれたのも、全部嘘だったの……?」
「……そう思ってたつもりだったけど、分かりません。……嘘だったのかもしれない」
皮肉にも、そう話す時だけはしっかりと私の目の奥を見つめてきた。
その言葉は私にあまりにも残酷過ぎた。
体の力を、血を、魂のようなものを一気に吸い取って、それ以上なんにも出来ない、人間をかたどった無機質な物体にされたようだった。
「冷えますから……もう戻って下さい」
そう言った彼女の頬に、涙が伝ってゆくのを初めて見た。
思えばいつも、泣くのは私ばっかりだった。
彼女はこぼれてゆく涙の存在に気づくと、左手でユニホームのシャツをひっぱり、急いでそれを拭った。私は不謹慎にも、人前で泣き慣れていないその姿を可愛いと思って見ていた。
頭の中では、彼女との少ない思い出の写真集がパラパラとめくられていた。そんな私の横を通り、彼女は再び運転席へ向かう。
ドアを開け、高いところに足をひっかけ、手すりを掴んだ腕の力も使って運転席へと乗り込む。ドアを閉める直前、彼女が顔を出した。
彼女の顔を見上げる。
「どうかお元気で……」
そう言って頭を軽く下げ、扉を閉めた。
私が最後に見た彼女は、大きなトラックのハンドルを回してマンションの駐車場から出てゆく、綺麗な横顔だった……。
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