今日もその手を…

榊󠄀ダダ

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第4章

第53話 逃げ道

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 部屋に戻るとすぐに、お茶も出さずに待たせてしまっていた才原部長に深々と頭を下げた。


「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

「たった数分待ってただけでそんなことまでしないでよ、謝罪会見じゃないんだから!」


 気を遣わせないように笑いながらそう言ってくれた才原部長は、それでも私が顔を上げないでいると、その異変の真意をすぐに察してカバンの中からハンカチを取り出した。


「……こんな素敵なハンカチ使えません」


 頬に涙をつたわせながら両手を顔の前にかざして拒んだその時、才原部長はその両手ごと全部を包み込むように私の体を抱きしめた、


「……可哀想に。悲しいことがあったのね……無理に隠したりしなくていいのよ」


 じんわり温かい体温と落ち着いた声で、涙がさらに溢れてくる。


「……情けない姿を晒したりしてごめんなさい」


 そう言っている間も泣くことを止められないでいると、才原部長は私が受け取らなかった見るからに高級そうなハンカチで、自らその涙を受け止めてくれた。

 
「……さっきね、あなたを彼女の元へ送り出した時私、あなたが傷ついて帰ってくればいいのに……って思ったの」

 
 思いもよらない言葉にショックを受け顔を上げた。


「……どうしてそんなこと言うんですか……?」

「あなたが彼女にひどく傷つけられたら、少しでもつけ入る隙があるんじゃないかと思って……」


 言葉の意味は理解出来ても、心がついていかなかった。ただ、私の背中に触れている手の力の不器用さが、適当な気持ちじゃないことを物語っていた。

 
「……中谷さん、私じゃ駄目かしら?」


 悲しい顔でそう言って曲げた人差し指で私の涙を拭う。


「こんな悲しそうに涙を流すあなたなんて見ていたくない……」

「……でも、あのことがあった時『他意はない』って……」

「……そうね、あの時は本当にそう思ってた。あなたにあんなことをしてしまったのは悪い酔い方をしただけだって。でも……今思えばあの時の私はお酒が入ったことで素直になってただけだったのかもしれない。自分でも自覚してない本当の気持ちを行動に移してしまったんだと思う」


 いつも強気な才原部長が私の反応を伺って心細そうにしている。


「短い期間だけど、側にいてあなたがどれだけ素敵な人か、意識しなくても勝手に伝わってきたわ。同時に、淋しげで儚さげなあなたを守りたい気持ちが次第に強くなっていった……。その役目を他の誰かに渡したくないの」

「…………あの……才原部長……私……」

「分かってる。……いいの。今この場でうなづいてくれるなんてはじめから思ってないから。今のあなたの心はあの彼女のことでいっぱいだものね。分かっていたけど……それでも、どうしても私の想いをあなたにきちんと伝えたくて」
   

 地位も名誉もある大人の女の人が、プライドも羞恥心も捨てて、私なんかに真っ直ぐな想いを伝えてくれた。その気持ちに応えることは出来ないにしても、私もちゃんと返事をしなきゃいけないと思った。


「……ごめんなさい、正直に言います。部長のことをどうこうという以前に、私、まだ彼女のことを諦められていなくて……きっともう心が近づくことはないんだろうけど……だとしても、他の人を、彼女を想うようには思えないです……本当に、ごめんなさい……」


 失礼な言い方、傷つける表現になってしまったかもしれないけど、だとしても、素直な気持ちを話すことがせめてもの礼儀だと信じて出来るだけしっかりと目を見て伝えた。


 私の言葉をじっと聞いていた才原部長は、それでも自分より私を気遣った。


「悪いことしたわけじゃないんだから、そんなに何度も謝らないで。私こそ、涙を流すほど悲しんでいるあなたに別の負担をかけてしまって、ごめんなさい」
    

 何も言えず困った表情をしていると、


「もう今夜は飲む気分じゃなくなっちゃったかしら?」


 スイッチを押したように明るい表情へ切り替え、才原部長が聞いてきた。


「私はそんなことないですけど……」

「本当?ならよかった!それじゃ、せっかくお買い物してきたんだし、とにかく今は仕切り直して契約が取れたお祝いしましょうか?」

「……はい」


 きっと本当は無理をしている。無理をして笑顔を作り、空気を変えてくれた。才原部長の優しさを無下にしたくなくて、私も出来るだけ頑張って笑ってみせた。


 買ってきたおつまみを並べ乾杯をすると、私たちはさっきのことなどなかったように、ワインの味の感想を言い合ったり、今回の手柄をねぎらいあったりした。

  
 さっき見た三ツ矢さんとあの女の子のキスシーンは、何を話していても消えなかったし、心は一部が損傷したようにずっと痛かった。だけど、お酒が入ってくると痛みは消えずとも、ほんの少しだけ麻痺させることは出来た。


 才原部長も私と同じなのか、一見平常心で会話をしながらも上手に取り繕った笑顔の中にかすかに影を感じた。そんな才原部長は一つため息に似た息を吐いた後、少し真剣な顔で改まるようにまた別の話を始めた、


「実はね、今回の私の本社への赴任は短期間の予定だったの」

「どうゆうことですか?」

「そもそも私がロサンゼルスから異動する予定だった次の赴任先は、シンガポールだったの。その前に一定期間本社に籍を置くことは、突然の上からの指示でね」

「短期間だけって何のために本社に……?」

「有り難いことに、上からは私の海外事業の成果をかなり評価してもらっててね、しかも人事の面でも信頼してもらって。それで、今回本社で働く一般社員の中から、海外で活躍出来る新たな人材を選出して欲しいって言われて本社に来たの」

「……そうだったんですか。それって、ある意味第二の部長を探す……みたいなことですか?」

「そうそう。当初は二ヶ月の予定でね、それだけのための赴任だったんだけど、でも結局、その最中に取り掛かった今回のプロジェクトが思いのほか大きなものになって手間取って長引いてしまった。本来ならもうシンガポールの方へ移って、また別の向こうのプロジェクトを進めなきゃいけないスケジュールで、上は正直痺れを切らしてる状態なの。まぁ予想外の大きな契約を取ったから文句を言う気はないみたいだけど、このプロジェクトの引き継ぎが終わり次第、すぐ向こうへ飛ぶように言われてる」

「……えっ……そんな……」

「少しは寂しく思ってくれてる?」


 才原部長はわざと大げさに聞いた。


「……それは……もちろんです」


 返答に困らないわけじゃなかったけど、嘘ではないのでそのままの気持ちを言った。


「……今の話で気づいたかもしれないけど、私はあなたを第一候補者として考えてた。もちろん、あなたが了承してくれたらの話だけどね」

「……私が第二の部長候補ですか?!」

「今さら驚くことじゃないでしょう?十二分にあなたにはその力があるんだから。それに、解ってくれてると思うけど、それについては私情は一切関係ない。あなたを選んだのは、あなたに可能性を見たからよ」

「そんな……私はそこまでの人間じゃ……」

「また謙遜する。それは本当に心配することじゃない。しいて言うなら、あなたに足りない唯一のものは自分への自信ね。それさえ身につければらあなたは世界で活躍出来るほどの人間になるわ」

「……才原部長が、私のことをそこまで認めてくれるなんて、なんていうか、信じられないですし本当に光栄だと思ってます。ですけど……」

「そうね、今のあなたに日本を離れろなんて無理があるわよね。実際側にいて分かったけれど、あなたの中では仕事の優先順位はあまり高くないみたいだし。それは理解してるけど、でもね、私ってなかなか諦められない性分なの。万に一つ、いえ、億に一つだったとしても、可能性がゼロじゃない限り。……それとも、可能性は0.0%もないかしら?」


 断るならなるべく迷惑がかからないよう、出来るだけ早くきっぱりと……そう思って口を開こうとした瞬間、0.0%という数字に私の唇はそれをためらった。自分のズルさを感じた。一瞬のうちに私はすごく卑しい考えが浮かんだ。もしもこのまま彼女と上手くいかなければ、どこか遠くへ行きたい……その時赴く場所が遠く海を越えた国なら、その場所で慣れない仕事に打ち込むことが出来れば、傷の痛み方が変わるかもしれない……。なんて私利私欲にまみれた無責任な考えなんだろう。全身全霊で仕事に向き合う才原部長に、心底申し訳ないと思った。だけど、確実に存在するその0.1%の気持ちが全否定を拒んだのは間違いなかった……。


「……否定し切れないってことは、ゼロじゃないみたいね」


 それはそうだけど、私のそんなわずかな可能性で貴重な時間を費やさせるわけにはいかない。やっぱり断ろうと決意した。


「いえ、大変恐れ入りますが、私には……」

「まだ時間はあるから、せめて断るのはその期限が来るまで取っておいてくれないかしら?」

「でも……それで結局断ることになるなら部長に迷惑がかかるだけですから……」

「そんなことあなたが気にすることじゃない。言ったでしょ?どっちみち私は可能性が完全にゼロにならない限り諦められない性分だって。……あなたのこともよ?」

「えっ……でもさっき……」

「『諦めた』なんて一言も言ってないわよ?」

「……でもその、選出には私情は関係ないんですよね……?」

「ええ、それは関係ない。関係ないけど、それとは別にあなたが一緒に来てくれるなら、私は素直に嬉しい。だから、ゼロじゃないなら今すぐ答えを出さないで。 少しでも長く期待していたいわ」

「…………分かりました」


 どうであれ、私は逃げ道を残した。だけど、どうかその道へ進むことにはならないようにと、矛盾したもう一つの心で強く強く祈っていた。













 





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