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第1章「夏」

1.わた雲ソフトクリーム(1)

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 宇宙の渚。地球と宇宙が溶け合う場所。30キロ先の、すぐそこの宇宙――。

 7月のとある水曜日の放課後。私、霜連しもつれみおは、いつものように屋上の天文ドームで顧問の羽合はわい先生の言葉を復唱していた。

「せんせー、やっぱりよく分からないんですけど……」

 私は首をかしげながら尋ねた。

「だから言ってるでしょ。宇宙はね、霜連が思ってるほど遠くない。ーーとにかく、身近なんだよ」

 先生は優しい口調で語りかけるように説明してくれた。
 私は脚立を支えながら、エアコンのホコリだらけのフィルターを外す先生を見つめていた。額の汗をシャツの袖で拭いながら、先生は何度もむせて涙目になっている。私はその姿を見て、クスッと笑みがこぼれた。

「たった30キロなら、東京に行くよりも近いですねー!」

 私はわざとおどけてそう言ってみた。
「ねえ先生、今年の夜の流星観測、どうするんですか?」 

 そう言いながら、慎重にフィルターを先生に手渡す。天文ドームの中央には、大きな望遠鏡がどっしりと構えている。

「はは、ダメだよ。女子高生と2人きりなんて、無理無理。職員会議で問題になるのは勘弁だからね」

 先生は苦笑しながら首を振った。

「でもぉ先生、昼の天体観測なんてもう飽きちゃったんですけど……」

 私は口を尖らせた。
 かつては10人もいた天文部の部員も、いまは私1人。最初は人助けのつもりで入部したのに、みんな次々と辞めていった。兼部に忙しくなったとか、受験勉強で大変だとか、彼氏ができたとか……私には理解できない理由ばかりだった。
 頼りにしていた2人の先輩も卒業してしまい、来春私が卒業すれば、ついに天文部は消滅してしまう。

「じゃあせめて、夏の合宿には行けるんですよね? 先生、引率してくれますか?」

 私は期待を込めて尋ねた。

「ダメだってば。合宿だともっとまずいに決まってるでしょ」
「えーっ、なんで!? 私、今年こそ八ヶ岳に行きたいんですけど!」

 私は食い下がった。

「いくらなんでも、女子生徒と男教師が2人きりで旅行なんて、ありえないでしょ。わかってるよね?」

 先生は呆れたように言葉を重ねた。

「1学期は必死に新入生の勧誘をしたのに、結局1人も入部してくれなかった。もうこの天文部は、私ひとりぼっちなんだよね……」

 横目で顔色をうかがいながらつぶやいてみるも、先生は口を閉ざしたまま。

「ちぇっ、まったく……」

 不満を口にしつつも、私はぞうきんを手に取り、エアコンを一生懸命磨き上げた。自分の頑張りが目に見える形で現れるのが、掃除の魅力だと思っている。
 額から汗がたれてきたので、私は思わずぞうきんで拭ってしまった。その様子を黙って見ていた羽合先生は、にやりと笑みを浮かべた。

「旅行じゃなくて引率」

 私は真剣な眼差しで先生を見つめた。

「あ、もしかして先生……何かまずいことが起きるのを期待してたりするんですかぁ?」

 そう言いながら私は、脚立の上で腰をくねらせ、スカートの裾をひらひらとさせてみせた。

「あのな。そんな動きしてたらパンツ見えちゃうぞ」
「えへへ、別にいいですよ。ほらほら、もっとよく見えるようにしてあげますよぉ」

 私は意地悪そうに笑って、さらにスカートをまくり上げた。

「おいおい。霜連。ちょっと、やめなさい!」
「大丈夫ですって、ほらちゃんとジャージ履いてるじゃないですかぁ」
「……白だな」

 え……? ええっ!? マジですか? あれれ、なんで今日に限って……!

「きゃああーーーっ!」
「冗談だよ、冗談。とにかくっ……」
 頭をガシガシ掻きむしる羽合先生。

 自他共に認める天文マニアなのに、そのすっきりとしたルックスから女子にも人気だ。頭脳明晰、ルックス抜群。でも事務処理能力は皆無。天は二物を与えたりしないってことね。プリントの配布を忘れたり、テストの答案をなくしたり。生徒からは心配されっぱなしだ。

「ねえ先生、職員会議は?」
「ああ、行きたくない。性に合わないんだ」
「またそんなこと言って。あはは」

 会議嫌いの先生がここを秘密基地代わりにしてるのは知ってる。

「あんまり大人をからかっちゃダメだぞ」
「だって先生、私とそんなに歳離れてないじゃないですか」
「そうかなあ」

 先生は首を傾げながら、指を折って年齢の差を数え始めた。

「ちょ、ちょっと! 先生、手、離さないで!」

 私が叫ぶと同時に、脚立がぐらつく。驚いて慌てて座り込んでしまった。

「おっと、ごめんごめん」
「たった7つしか違わないんですよ。それに、私ももうすぐ先生と同い年だし」
「えっ? 何のこと?」

 新しいフィルターを先生から受け取りながら答える。

「先生と付き合っていた頃のお姉ちゃんと」

 羽合先生は姉のあやの幼馴染で、そして恋人でもあった。

「とにかく、合宿は無理だって。第一、君のご両親に説明がつかないよ」
「えー、先生こそ、うちの親から信頼されてるの知ってるくせに」

 私の記憶をたどれば、少なくとも小学生の頃から、当時高校生だった先生はよく我が家に来ていた。宿題を教えてくれたり、家族そろって夕食を囲んだりしたこともある。姉が亡くなった後も、折に触れて家に顔を出してくれていたのだ。

「それに先生、まだお姉ちゃんのこと、好きなんでしょ? だから絶対に、先生は私には手出さないって分かってるんだから」

 私がべーっと舌を出すと、先生は苦笑いしながら頭をぽりぽりと掻いた。

「さて、先生は今日、何回『とにかく』って言ったでしょう?」

 なんておどけてから作業に戻ると、突然足元の扉をノックする音が響いた。

 「きゃっ!」

 私の悲鳴に、先生も「な、なんだ!?」と驚いて思わず手を離してしまう。

「わわっ」

 脚立が大きく揺れる。必死でバランスを取ろうとするが――

「危ない!」
「きゃあああ!」

 ドサッ――。

 先生は必死で私の体を抱きとめてくれた。2人で尻もちをついた鈍い音が、ドーム内にこだまする。その時、1人の女子生徒が身をかがめるようにして入ってきた。

「やっぱりここにいた! って、ちょっと2人とも何やってんの!?」

 私たちの目の前に、親友の雨宮あまみや陽菜ひなが立ちはだかっている。長身でスラリとした陽菜は、悲鳴を上げることも無言で立ち去ることもなく、呆れたようにツッコミを入れてきた。

「ねえ澪。仲良しなのは知ってるけど、白昼堂々と学校でってのはどうなの?」
「ち、違うの! これはその……」

 私がうろたえていると、先生はいたって冷静に、エアコンを指差して笑った。

「エアコンのフィルター交換をしてたんだ。雨宮が急に入ってきたから、霜連が驚いて脚立から足を滑らせてーー」
「え? ああ、なるほど! あははー。なぁんだ。私はてっきり……」
「ちょっ、陽菜! 変なこと言わないでよ!」
「はいはい、分かったって。ほら澪、アンタ早く離れなさい」

 陽菜は中学からの親友で、姉のような存在。今は弓道部のエースとして活躍する才色兼備の美少女――だけど恋愛に関しては奥手なところがある。

「それにしても珍しいね。陽菜がこんな所に来るなんて」
「ねえ、理科部に届いた怪しいメールの話、聞いた?」

 陽菜は黒髪を耳にかけながら、ドームの隅にあるテーブルに座った。スカートのホコリを払いながら、私は眉をひそめる。

「怪メール?」
「よくわからない数字の羅列。暗号……かな? 今、理科部で解読しようとしてるんだけど、全然意味わからくて」
「ん? 理科部? ああ掛け持ちしてるんだっけ? それで、なんで私に相談するわけ?」
「それがね……ほら、これ」

 陽菜に見せられたスマホの画面。差出人の名前を見て、私は絶句した。

「まさか……」

 メールアドレスの横には、〈Aya Shimotsure〉の文字。そう、私の姉の名前だ。動揺を隠せず先生を見る。先生もスマホを覗き込むと、苦々しい顔でうなずいた。

「雨宮。間違いない。これは霜連のお姉さんの名前だよ。この学校の卒業生で、数年前に理科部の部長を務めていた」
「そうだったんだ……だから理科部宛に送られたのね。でもさ……ねぇ、澪?」
「ありえないよね」
「どうしよう……澪、私、幽霊とかめっちゃ苦手なんだけど……」

 陽菜は肩を震わせながら、不安げな表情を浮かべる。私はそんな陽菜を見て、優しく微笑んだ。

「だ、大丈夫よ。きっと誰かのイタズラだって。ね?」
「……ねえ澪。ちょっと理科室に来てくれない?」
「え? 今から!? ……うん、わかった。じゃあ先生、後片付けよろしくお願いします!」

 先生の返事も聞かず、私は陽菜の手に引かれ階下の理科室へと急いだ。
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