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蒼い覚醒

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―剛が家に来てから三年が経とうとしていた。


雪がちらつく曇天の三月のある日、私はキッチンでスポンジケーキに生クリームをデコレーションしながら、心ここに在らずだった。


ヘラで綺麗に塗ろうとしても上手く行かず、首を振り一旦作業を中断して椅子に座り深呼吸する。


今日は、剛の高校受験の合格発表なのだ。


剛は、学校の授業と簡単な復習だけで充分に学習に付いて行っていたが、週に一度の真歩の家庭教師も真面目にやっていた。


中学で、他の生徒達と普通に仲良く出来るのか等心配をしたが、そつなく勉強も行事もこなし、寧ろどちらかと言うと剛は人気者らしかった。


剛が風邪で学校を休んだ時は必ずクラスの生徒が何人か訪ねてきてお見舞いだと言い手紙を置いていったりしたものだ。


そしてやはり、彼は女子にモテた。


大人びた剛は、他の子供達とは違う雰囲気を常に醸し出していたし、ピアノを流麗に奏でる姿に一目惚れする女の子達も多かった。


休日に女の子達が剛に会いに来る事も時々あったが、彼は面倒がり、祐樹に居留守を頼んだりしたのだが――


祐樹を見た女の子達は皆一様に


「剛君って、弟にそっくりなんだね~!
美形兄弟って素敵――!」

と騒いだ。



そう言われる度に剛は静かな笑みをたたえ、

「まあね」


と言い、男子には


「うっわ~嫌な奴!」


と冗談混じりに爆笑され、女子達はますます彼に憧れの眼差しを向けたのだ。


だけど私は、複雑な心境だった。


祐樹とそっくりな男の子が欲しくて剛を引き取り、兄弟仲睦まじく、悟志とも良い関係に一見は見える。



人に、祐樹とそっくりだと言われる事があまりにも多いのだが、その事で嫌な気持ちになったりしないだろうか?


剛はいつも落ち着いた物腰を崩さず、私が慌てたりドジをした時にも彼はクスリと笑い、


「菊野さんは、子供みたいですね」


と言った。



最初、彼にその台詞を言われた時には激しく落ち込んだが、何故だろうか。
言われる回を重ねる毎に、甘いときめきが胸の中に積もっていくのだ。


今ではそれを言われる度に心臓が跳ねてしまう。




私は頭をブンブン振り、椅子から立ち上がり拳を握り締め気合いを入れた。


「あ――!
物思いに耽ってる場合じゃないし――!
今夜はじーじとばーばもお祝いにくるし、御馳走の用意をしなくちゃ!」



剛の高校合格発表の今日、悟志も早めに帰る事になっていた。



実家の父と母も久し振りに来るので、おばあちゃんが大好きな祐樹は昨日から楽しみにしている。


私は頭の中で今日の献立と、作業の流れをざっとおさらいして一人で何度も頷いた。


(サラダはもう冷蔵庫に入ってるし、チキンは仕込んであるから後は焼くだけ、シチューも完璧……
あとはパエリアを炊いて……)



「そうだっ!
ケーキ!
頑張って仕上げちゃおう!」



私は再びヘラを持ち、表面に滑らかに白いクリームを塗り、今度は食紅で色付けしたピンクのバタークリームを細いヘラを使い花弁の形を作っていく。


白いケーキの上に、ピンクの薔薇がいくつも咲いた様な仕上がりに私は大満足しながら一人悦に入っていた。


「うんうん!素敵!
……でも、少女趣味っぽいかなあ……
ま、いいか!」



私は、チョコレートの小さなプレートにデコペンでお祝いメッセージを描こうと考えていたが、いざやろうとすると、これが中々難しい。


"合格おめでとう"

と描きたいが、字が多すぎて無理だと断念し、シンプルに
"おめでとう"

と描く事にしたが、それでもやはり難しかった。


「う――ん……
でもやっぱり、ケーキの真ん中にメッセのプレート置きたいなあ……
五文字描くって結構大変……」



何か他に良い言葉はないかと考えてみるが、一向に良いアイデアが浮かばず、私はリビングのピアノにぼんやりと目を向ける。



剛が優美に弾く姿が浮かび、ひとりでに頬が緩んでしまう。



「メッセージかあ……」



――好き……
て、言えたらいいのに……



ふとそんな思いが沸き上がり、直ぐ様否定する。



「もうっ……!
何をバカなこと考えてるの!」



デコペンを手に、剛がこの間、訪ねてきた女の子に門の外で告白されていたのを目撃した事を思い出してしまった。


休日の朝、私はパジャマのまま欠伸をしながら新聞を取りにドアを開けたのだが、そこに可愛い女の子が佇んでいた。


欠伸しかけた口を掌で覆い、
「えっと……うちに、何か?」


と聞くと、女の子は恥ずかしそうに俯いた。


剛と同じ位の年頃だろうか、清楚な水色のワンピースに、肩まで伸びた髪はサラサラと輝き、唇はうっすらとピンク色をしていた。
多分、お化粧はしていなくてリップクリームだけ塗っているのだろう。

(若い子って、それだけでもグンと綺麗になるのよね……
羨ましい……)


思わず彼女の抜ける様な白い肌に見とれていると、後ろから剛が顔を出した。



「……菊野さん、そんな格好で……新聞なら僕が」



すると、彼女は頬を紅く染めて小さく微笑み、剛も彼女を見て目を見開き言った。




「清崎……さん?
どうしたの」



清崎さんと呼ばれた女の子は、赤と白のギンガムチェックの紙袋を胸に抱くように持っていたが、剛に向かって勢いよく差し出して90度のお辞儀をした。



「あ、あの……
チョコレート、作ったの……
美味しくなかったらごめんなさい!」


私はその時、今日という日がバレンタインだった事を思い出したのだ。



(まずい……
邪魔者は消えなきゃ……)


と思いながら、私はコソコソと玄関のドアを閉めようとしたが、閉じられる寸前、清崎さんの



「す、好きです……」



という言葉が耳に入ってしまい、動揺した私はドアで指を挟んでしまった。



「い、いた――いっ」



指を押さえ絶叫すると、何事かと祐樹と悟志が飛んできた。



「ママ!?どうしたの?」

「菊野――!大丈夫か!」




人差し指を抑えて涙目の私は、二人に
「うん……だ、大丈夫……」


と言うが、みるみるうちに鬱血する指を見て悟志は青くなりオロオロする。



「わっ……た、大変だっ」


「手当てするね!」


祐樹の方が冷静で、素早く救急箱を持ってきてくれて湿布を巻いてくれる。



「ありがとう……祐ちゃん」


「も~ママはそそっかしいんだから」



「うう……」



私は、痛みに耐えながら、ドアを隔てた向こうの二人の様子が気になって仕方がなかった。



(剛さん……
その子と、付き合うの……?)


指がズキンと疼くと同じに胸も痛む。



不意に頭を撫でられて顔を上げると悟志が苦笑している。



「暫く家事はしない方がいいな……
今日は店屋物か、それとも僕がたまにはご飯作ろうか?」



「悟志さん……」



「――菊野?」


悟志が吃驚した顔をしている。
私は、いつの間にか泣いていたのだ。


「よしよし……余程痛いんだね可哀想に」


悟志は、顔を歪め私を抱き寄せて頭を撫でた。



涙腺の決壊した私は、そのまま胸で泣いてしまったのだ。



「も~そういう事は寝室でやってね~」



祐樹は、呆れてそう言ってリビングへ行ってしまった。



何気無く言われた祐樹の言葉に私はドキリとする。


祐樹はまだ小学三年だけど、もうそういった事がわかる年頃なのだろうか。


ずっと何も知らないまま大人になる訳はないのだし当たり前なのだが、私はショックを感じていた。



「ハハハ……
祐樹は、おませだな」


悟志が笑いながら私を抱き締めている。



「……」



「大丈夫かい……?本当に」


涙が止まらずにしゃくり上げていると、顎を掴まれてキスされた。


その時、ドアが開き剛が入って来て、反射的に私は悟志を突き飛ばしてしまった。



剛は切れ長の瞳を一瞬揺らした様に見えたが、その表情を確認する前に彼は俯き


「……邪魔してすいません」


と呟き、私達の側をすり抜けて行ってしまった。



「……っ」


――見られた……剛さんに……



心臓がバクバク嫌な音を立て、挟んだ指が更に痛んだ。


「思春期の剛には刺激が強かったかな……ふふ」


悟志は頭を掻くが、私は曖昧に笑うしかなかった。



その夜、剛と清崎さんという女の子がどんな会話を交わしたのかが気になって仕方がなくて、私は眠れずに何度も寝返りを打っていた。



隣の悟志の鼾が大きくて寝付けないせいもあった。


時々こうして大きな鼾を掻く事があるけれど、何処か身体が悪いのではないだろうかと心配になる。


いくら悟志が若く見えても、実際は私より20も歳上なのだから、そろそろ健康の心配をした方が良いのかも知れない。



時計を見ると、日付が変わろうとする時刻だった。



私は何か飲もうと思い、静かにベッドから降りてキッチンへ行ってみた。




ティーポットに茶葉を入れ、お湯を注ぐと二階から剛が眠そうな顔で降りてきた。


私はドキリとしたが、平静を装い彼に話し掛ける。



「剛さん、眠れないの?良かったらお茶をいかが?」



「はい……いただきます」



剛は微かに微笑み、キッチンのカウンターの椅子に座った。



私は俄に緊張していた。

この家に一緒に暮らす様になってから、剛と二人きりになる事はたまにあったが、こうして真夜中に顔を合わせるのは初めてだった。


(何か羽織ってくるべきだったかな……でも、別に私に関心無いだろうし平気よね)



私はその日、たまたま薄い生地で胸元が空いているパジャマを着ていたのだが、今更気にしても仕方がない。



剛の目線が泳いでいる様な気がするが、私は気に留めずにカップに紅茶を注いだ。



「――指、大丈夫ですか」


「え?……う、うん。
朝から騒いじゃってごめんなさいね……
腫れてるけど……二、三日すれば痛みもひくと思う……」


剛は包帯を巻いた私の指をじっと見て唇を歪めた。


「すいません……菊野さんの叫びが聴こえて、心配だったんですけど……あの時は友達が来てて……」



――やはり、私の情けない叫びはまる聴こえだったのか。

あの女の子にも聴かれたんだろうな……



私は、彼女の恥じらいに染まる頬と、華奢な手が差し出したギンガムの紙袋を思い出して切なくなった。



「――菊野さん?」



剛が訝しげに見ていたが、切れ長の瞳を見返す事が出来ずに私は、ついとんちんかんな事を言ってしまった。



「つ、剛さん、他にも沢山チョコ貰った?祐樹もね、学校で貰ったらしいのよ……あ~、剛さんも祐樹もモテるから、ホワイトデーが大変ね!」




「モテないですよ」



剛は真面目な顔をして言ったが、私は全力で否定する。



「い――え!滅茶苦茶モテてるし!朝の女の子にだって告白されてたじゃないっ!」



軽口のつもりが、最後は怒った様な言い方になってしまい、私はハッとする。


剛は戸惑った様に、私を覗き込む。



「……菊野さん?」



「……わ、私っ……剛さんに……毎年バレンタインのお菓子を作ってたけど……か、可愛い彼女が出来たなら、もう、私のなんか要らないでしょっ!」



(わあっ……私ったら何を言ってるのよ!剛さんが困るじゃない……)



理性では、自分がいかに愚かなのか充分分かっている。
私は血が繋がっていないとは言え、彼の保護者なのだ。
彼を邪な目で見ている私がいけないのだ。

想う資格も無いのに、勝手に嫉妬するなんて――


「わ……私」


喉の奥に痛みが走り、紅茶の中に涙が落ちて沈んだ。



「――菊野さん?」


剛が顔色を変えて立ち上がるが、私も弾かれた様に席を立ち、涙を拭い無理矢理笑ってみた。



「ち、ちょっと頭が痛いみたい……変な事を言ってごめんなさい……お休みなさい」


これ以上彼と居たらいけない、と思った私は寝室へ戻ろうと一歩踏み出すが、腕を剛に掴まれた。


剛は戸惑った様に、私を覗き込む。



「……菊野さん?」



「……わ、私っ……剛さんに……毎年バレンタインのお菓子を作ってたけど……か、可愛い彼女が出来たなら、もう、私のなんか要らないでしょっ!」



(わあっ……私ったら何を言ってるのよ!剛さんが困るじゃない……)



理性では、自分がいかに愚かなのか充分分かっている。
私は血が繋がっていないとは言え、彼の保護者なのだ。
彼を邪な目で見ている私がいけないのだ。

想う資格も無いのに、勝手に嫉妬するなんて――


「わ……私」


喉の奥に痛みが走り、紅茶の中に涙が落ちて沈んだ。



「――菊野さん?」


剛が顔色を変えて立ち上がるが、私も弾かれた様に席を立ち、涙を拭い無理矢理笑ってみた。



「ち、ちょっと頭が痛いみたい……変な事を言ってごめんなさい……お休みなさい」


これ以上彼と居たらいけない、と思った私は寝室へ戻ろうと一歩踏み出すが、腕を剛に掴まれた。


「――っ?」


振り返ると、剛は困った様な優しい笑いを浮かべている。



「……彼女とは、友達から、て事になりました」



「そ、そうなのね、おめでとう!
お休みなさいっ」


私はキレた様に叫び、腕を振り払おうとしたが、剛が離さない。


私は胸の高まりが頂点に達して、掴まれた手からも激しい脈が彼に伝わってしまいそうで焦る。



剛は私の怪我した指を見て目を臥せると、小さな声で言った。



「――指が治ったら、また作って下さい」



「――!」


私が涙目で彼を見上げると、剛は自分が着ていたパーカーを私に羽織らせ、二階へ上がって行ってしまったのだ。


―――――――――――




「――また作って下さい……て……
あ――っ!もうっ!
剛さんたら――!」


私は、チョコレートのプレートを手に一人悶絶していた。



バレンタインの出来事をまざまざと思い出すと、顔から火が出る程恥ずかしい。


剛からすれば、
"何を訳のわからない事でヒステリーを起こしてるんだこの人は"

と思うだろう。



「はあ……
いつか、剛さんだって結婚してここから出ていくだろうし……
今からこんな調子で私どうするのよ……」



左の薬指に光る指輪を見て私は、溜め息を吐いた。


私は、悟志の物。
それはわかっている。


この想いを抱えながら、隠し通してでも剛を引き取る事を決めたのは私。


一番に願うのは、彼が幼い頃に得られなかった幸せを取り戻して、心から笑って生きていける様になる事――


私が、その手伝いを出来たら、と――


それでも、ふと思ってしまう。


もしも私が、彼と違う形で出逢えていたら。

もしも私が彼と同じ位の年齢なら。



あの清崎という女の子の様に、想いを告げる事が出来たのかも知れない。



「……いや、いやいや無理無理……私が中学生の頃なんて、男の子と口を利いた事も無かったし……
もし私が剛さんと同じ中学生だったとしても……私に手に負える男の子じゃないだろうなあ……はああ……」



不毛な物思いに沈みながら、私は無意識にデコペンでプレートに



"すき"


と描いてしまっていた。



眺めながらぼんやりと呟いてみる。



「……すき……」




その時、玄関のドアが開き、私はまさに飛び上がって驚いてしまった。



「ひいいっ」


「……ただいま」



剛が顔を出し、吃驚している。



「お……おかえりなさいっ」



私はへどもどしながら笑う。



剛は学生服を脱ぎ、ソファに掛けシャツの第一ボタンを外しながらキッチンのケーキを見て頬を緩めた。



「美味しそうだね……お祝いのケーキ?
それとも、それが菊野さんからのバレンタインかな?」



「うっ!……うううん、両方かな?
て、剛さん……どう……だったの?」



私が相当不安げな顔をしていたのだろうか。

剛はプッと吹き出し、笑って言った。



「受かりましたよ」



「ああ――!良かったあ……!私実はずっと胃がキリキリしてて……
剛さんなら大丈夫って、真歩も太鼓判押してくれたんだけど、私心配で何度も
"本当に?絶対?"
て繰り返し聞いたら、しまいにはキレられちゃって~
あの子にも報告しなくちゃね!」



私はウキウキとした気持ちで、電話をしようとキッチンを離れリビングのテーブルの上のスマホを取るが、剛がケーキの側に寄り感嘆の声を上げるのを見て、内心得意になってしまう。



「凄い豪華ですね……
あれ?このチョコって……お誕生日おめでとうとか描くアレですか?」



「――それは、ダメッ!」

私は目の色を変え、スマホを放り投げキッチンへ走り、剛からチョコのプレートを奪い取るが、彼は呆気に取られた顔をした。



「……し、失敗しちゃったから……」


私は背中にチョコを隠して誤魔化そうとするが、剛はニヤリと笑い、にじり寄ってくる。



私はドキリとする。
彼のこんな悪戯な目は見た事が無い。


ずっと見ていたら捕まってしまいそうな魅力的な眼差しだ。



「菊野さん、嘘が下手だって自分で知ってます?」



「う、ううう嘘なんて付かないもん!」


私は首を振り、下手な言い訳をするが、彼の方が一段も二段も上手だ。



ニッコリと笑い、首を傾げながら近付いてくる。


「それ、僕へのでしょう?」


グッと詰まった私に、剛は悩殺する様な甘い瞳を向けて――
彼は無意識なのだろう――

手を差し出してきた。



「菊野さんからのバレンタイン、貰いますよ……」



「こ、これは違うから!」


私は絶叫して、剛に背を向けてリビングから逃げようとするが、カーペットの端に足を取られてしまいよろけてつんのめった。



「あああ」


「――危ない!」



剛が素早く腕を出したが、微妙に間に合わず、結局二人してひっくり返ってしまった。



「ん……っ」


「……」


床に頭をぶつけ、痛みに呻いた私は、唇に何か当たっているのに気付き、瞑っていた瞼を開けると、すぐ其処で澄んだ剛の瞳が私を捉えていた。


「――!」


彼の瞳が、何故こんな近くにあるのか、真っ直ぐな髪が何故頬に触れているのか、唇が塞がれているのは何故なの――?

と軽くパニックになりかけたが、彼が私の上に覆い被さる形になり、偶然唇が当たってしまったのだ、とようやく理解する。


普段は意識しない時計の秒針が二人だけのリビングに響き渡る。


お互いの唇が合わさったまま、見つめ合う。


唇が熱を持ち、媚薬が仕込まれた様に、身体が熱く焼けていく。


彼も、瞬きもせずに私の目を見ていたが、僅かにその唇を動かして何かを呟いた時、それが甘い刺激になり私はつい声を漏らしてしまった。



「あっ……」



「――」



剛は、目を見開いた。



私は、我にかえり、身体を起こし、後退りながら彼から離れる。


立ち上がって、寝室に逃げたい。



けれど、腕も、足も、指先一つでさえ、思うように動かないのだ。



甘い痺れで、力が入らない。



「菊野さ……」


彼が何かを言う前に、私は必死に喋る言葉を頭の中で探す。




――取り繕わなくてはいけない。


まさか、貴方と唇が触れあって、ときめいた事を悟られる訳にはいかない。


だって、だって私は、貴方を愛してはいけないんだから……!



床にポタリ、と温かい涙が堕ちる。



剛は瞳を揺らし、近付いてくるが、私は、首を振り更に後ずさった。



「……すいません……
驚かして……」



剛は小さく呟くが、前にもこんな事を言われた様な気がして、私は唐突に笑いが込み上げてきた。


「あ、アハハ……
ふふ……ゴメンね……
ふ、ファースト……キスが……
こ、こんなおばさんで……っ」


笑いながらも涙は止まらず私は口を押さえてしゃくり上げる。



剛が今どんな顔をしているのか怖くて見る事が出来ずに、私はただフローリングに涙が堕ちる様を見詰めた。



「……いえ、初めてでは、ないですから……」



剛のその言葉に、抉られた様な痛みを目の奥に感じ、私は呻いた。



「……い、痛いっ……」


「菊野さん――?」


剛が肩に手を掛けてきた時、私は飛び退く。


「……だ、大丈夫……
少し休めば、治るから……」


私は、這うように剛の側をすり抜け、寝室のドアを開けベッドへ倒れ込んだ。




枕に顔を埋めて、目を強く瞑るが、浮かんでくるのは彼の眼差しばかりだった。


至近距離で、お互いの唇が触れあいながら見つめ合ったあの瞬間(とき)の前に時計の針を逆戻ししたかった。



世界中の時間が狂ってしまったとしても、戻りたい――



知らなければ良かった。

彼とのキスなんて。




好きな人とのキスはきっと胸が踊って甘酸っぱいに違いない、と私は未だに少女の様な幻想を抱いていた。



震えて、激しい嗚咽が止まらず、私は、俯せになったまま身体をくの字に折りながら泣いた。



苦しいだけ。


彼と唇を合わせたら、嬉しい処か、もっと欲張りになる自分が居た。



唇を合わせたら、抱き締めて欲しい。


抱き締めたなら、熱い眼差しで見詰めて甘く囁いて欲しい。



「ふ……ふふ……ふ……
アハハハ……アハハハハハ!」



私は、ヒステリックに泣きながら笑った。



――彼の幸せを一番に願う、その力になれたら、なんて……
何を言っているんだろう……

私は、剛さんに抱き締めて欲しいから……

だから、側に置いているんだ……



こんな不純な事を想っているのに、保護者ぶって、馬鹿みたい……!



シーツをくしゃくしゃにして掴み、私は咽び泣いた。


泣くだけ泣いたら、気持ちを切り替えて、いつもの自分に戻らなくてはならない。


夜には、父も母もやって来るし、悟志も帰ってくる。
祐樹も、敏感な子だから私の様子がおかしい事を察してしまうだろう。


こんな乱れた心では、皆の前に出ていけない――



私がそうして寝室に籠ってしまい、剛は差し出した手を降ろし、その拳を固めて溜め息を吐いていた。



剛は、違和感を感じながらも、西本の家に馴染もうと努めているつもりだった。


この家の空気は好きだった。


菊野のとぼけた大人らしかぬ振る舞いや、時に見せる然り気無い優しさには救われていたし、祐樹も生意気になっては来たが自分の後をいつも付いて回り、可愛いとも思う。
悟志は、父親風を吹かす事は無く、最初から剛を一人の大人として尊重してくれた。

朗らかな悟志は、家の中をいつも明るくしている。

祖父母も、剛が西本家に来た事を非常に喜び、特に花野は剛に熱心にピアノを教えていた。


家庭教師の真歩も、剛を弟の様に可愛がり、だが甘やかしたりはしなかった。

勉強に於いては決して妥協せず、ビシビシ指導してくれて、そのお陰で第一希望の公立に合格出来たのだ。



ここの人達には、本当に感謝しかないのだ。


だが――



ふと、この家の中の光景に自分は似つかわしくない、と思ってしまう瞬間がある。


剛は、家に友達の男子達が遊びに来る度に、よくこう言われたのだ。



「なあ剛、お前の母ちゃんて若くね?」


「てか、可愛いよな~
いいよな~!」


「あんな母ちゃんなら、俺間違い犯すかも~
ハハハ~!」


「あ~そうだな、起こしに来たらそのまま押し倒すとか?」


「うっわ~たまんね――!」




それはいつもの軽口だったが、ある日、剛の中で突然黒い嫌悪が込み上げ、気が付けば同級生の胸ぐらを掴んでいた。



周りの同級生達は呆気に取られ口をポカンと開け、胸ぐらを掴まれた友達は蒼白になり唇を震わせていた。



「……じ、冗談だよっ……そんなに、怒るなって……」



剛は、我にかえり手を離したが、 自分の胸が早鐘を打ち、呼吸が荒くなっているのに今更気付き、愕然としたのだ。



(俺は、今何をして――?)



そして、この間――


同じクラスの清崎が訪ねてきた日だ。


菊野が家の中で叫んでいて、様子が気になりながらも彼女と話し、彼女が帰るのを見届けてからドアを開けたら、悟志に抱き締められて身体を預けている菊野。


その光景が目に飛び込んで来た時に、自分の中に説明しようの無い、激流の様な感情が押し寄せた。


何故なのか自分にも分からない。


菊野を見ていると、気持ちが凪いで心静かで居られる。

だが、ふとそんな彼女を滅茶苦茶に乱したくなる衝動に駆られる事があるのだ。


滅茶苦茶に乱す――


いつもの、少女の様なあどけない菊野でなく、別の顔の菊野を見たくなる。


剛は、それがとんでもなく邪悪な欲望だと自分で分かっていた。



幼い頃に、自分の両親が目の前で獣のように身体をぶつけ合って吠えていた光景が未だに目に、耳に焼き付いて居るが、剛はある時に、菊野をその光景に当て嵌めて想像してしまったのだ。


菊野も、あんな風に乱れ叫び、獣のように男を求めるのだろうか?


毎日の様に、甘いケーキやクッキーを焼いては剛に

「ねえ、甘すぎない?
くどくない……?
こういうの、剛さんは好き?」

と、真剣な眼差しで尋ねる菊野に剛は静かな笑顔を向けながら、密かに頭の中で彼女のそん な姿を思い描いた。


――見てみたい……が、やはり、見たくない――
という矛盾した感情が同時に湧く。


穢れのない、聖女の様な彼女でいて欲しいという想いと、乱れた彼女を見てみたいという欲望がせめぎ合う。



いつからこんな事を思うようになってしまったのだろうか。



剛はそんな邪心に溺れそうになりながら、時にはそんな自分を恥じた。



菊野は、未だに
"ママ"と呼ばせたがっているが、剛はどうしても彼女を母親とは思えなかった。


母、と呼ぶには――
思うには、彼女は余りにも自分から見れば小さく、頼り無く、そして可憐だった。



母親とは思えなくても、彼女は自分に取っての恩人であり、大切な存在なのだと認識していたが、時に沸き上がる不可解な衝動をもて余す時には、自分が分からなくなった。


同級生の女子にはあまり興味をもてなかったが、清崎晴香は何処と無く菊野に雰囲気が似通っていた。


放課後二人で図書室で勉強をしていた時に、彼女に口付けをせがまれ、剛はその唇に触れてみた。

思っていたよりも柔らかく、甘い香りがして心地が良かった。



女の子と付き合ってみるのも悪くはないと思い始めた矢先に、菊野の様子がおかしくなり始め、剛の心を少なからず乱した。



剛は、菊野の唇が触れた自分の唇をそっと指でなぞり、彼女の戦慄く表情と流した涙を思い浮かべ、胸が痛むのと同時に身体がゾクリと震えた。


清崎とキスした時とは、まるで違った――


偶然とは言え、唇が触れ合いそのまま見詰め合ってしまったが、菊野は嫌だったのだろうか?


"こんなおばさんと……
ファーストキスだなんて……ゴメンね"


剛は首を振る。



「そんな風に……
思うわけ、ないじゃないか……
俺は――」


俺は、と言い掛けてその次の言葉が見付からず、溜め息を吐き、剛は喉を潤そうとキッチンへ足を向けた。


すると、オーブンの側に騒ぎの元凶となったチョコレートが置いてある。

無惨に二つに割れてしまって居たが、剛は手に取ってその欠片を合わせて見て、描かれた文字を読み上げ、瞳を揺らした――


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