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カーネーション
しおりを挟む――そして、翌年。
剛の中学入学に間に合うタイミングで、西本の家に彼を迎え入れ、一緒に生活を始めた。
家裁とのやり取りや、私の両親、友人の真歩など、ごく親(ちか)しい人達にも事前に引き合わせ、彼がなるべくスムーズに西本の家で暮らせる様に準備を進めた。
養子になる事を渋っていた様に見えた剛だったが、遊園地の一件で、決心をしたらしく、私がお騒がせした謝罪に施設を訪れた際に、彼の方から頭を下げて申し出てきたのだ。
「僕は……
ごく当たり前の家庭を知りません。
もしもおかしな事を言ったり、した時には、遠慮なく叱って下さい。
……祐樹君とも、仲良くして行きたいと思っています。
宜しくお願いします」
剛は、ぴしっとした姿勢で私の目を真っ直ぐに見て、綺麗な形のお辞儀をした。
遊園地での失敗に落ち込んでいた私は、今度こそ彼に、
"金輪際関わらないで下さい"
位の言葉を言われるのでは無いか、と覚悟して施設にお詫びに来たのだが、今、起きている事が直ぐには理解出来なくて、暫し口を開いたまま彼を見つめていた。
頭を上げた剛は、私を見て困った様に瞳を揺らした。
横に居た園長が、私の肩を叩いて優しく言い聞かせる。
「西本さん、剛君は、あなたのお家へ行きます、と言っているんですよ?
……ようやく、思いが通じましたね」
「え……え……」
私は、ふらついて脚に力が入らなくなり、その場に崩れてしまう。
「西本さん!」
園長が手を差しのべるよりも早く、剛が私の身体を抱き留めていた。
「よく転びますね……」
至近距離にある彼の目に、私は心臓が飛び出しそうになる程ときめいたが、必死にそれを隠す様に笑顔を作る。
「ご、ごめんなさい」
剛は、私から手を離すが、私は心の中で叫んでいた。
(出来るなら……
ずっと貴方に触れていたい……)
でも、彼はまだ子供なのに、そんな事を思う私は、やはりどこか狂っているのだ。
彼とこの先同じ家で過ごして、自分は正気で居られるのだろうか、と思うと恐ろしくなる。
「さて、そうなると……
色々と忙しくなりますね!
私も出来る事を精一杯協力させて貰いますよ?
……西本さん?
それでいいんですよね?」
園長の言葉に、私はハッと現実に引き戻され、剛と目が合った。
剛は、穏やかな笑みを浮かべて私を見ている。
また、心臓が苦しい程に跳ね、私の目には涙が滲んで来た。
剛は、目を見開いて唇を僅かに歪める。
園長は、私が感激して泣いたと思ったのだろう。
ボックスティッシュをササッと目の前に差し出して豪快に笑った。
「ハハハ……
やっぱり泣いちゃいましたか!
いや実はね、他の職員と、西本さんが泣くかどうか賭けてたんですよ~!
……て、すいません」
園長は、茶目っ気たっぷりに言ったが、剛に軽く睨まれて舌を出した。
私はティッシュを受け取り涙を拭い、剛と園長に交互に頭を下げた。
「い、いいんです……
わ、私……
う、嬉し……っ……
うっ……」
嬉しい、という気持ちには嘘は無かった。
彼への気持ちを自覚してから、思い止まった方が良いのか、と葛藤もあるのも事実だが、それ以上に彼を手元に置きたいという気持ちの方が大きいのだ。
剛の困った様な、呆れた様な瞳を見て、私は唐突に思った。
――そうだ、これからは……
彼が大人になるまでの間は……
ずっと一緒に居られる……
朝も……夜も。
それに、園長の言う通り、やる事が盛り沢山待っているのだ。
泣いている暇は無い。
切なさに涙を流すのは、やる事が終わってからだ。
「――剛さんっ!」
私は、自分に気合いを入れる様に叫ぶが、また声が裏返った。
「はい」
剛は、もう慣れた、とでも言わんばかりに私を苦笑いして見ている。
私は拳を握り締めて、涙を堪えて彼に語りかけた。
「……い、一緒に、暮らしてくれますか?
私……と、祐樹と……
悟志さんと……っ」
「……はい」
剛は、静かに、だがはっきりと返事をする。
泣かない、と決心をしたばかりなのに、剛のその言葉に、涙腺が再び決壊してしまい、私は馬鹿みたいにしゃくりあげる。
「うぐ……っ」
園長が笑いを噛み殺しながら、背中を擦ってくれているが、私の涙は収まりそうになかった。
「つ……剛さんっ……
わ、わだじ……
こんなんだけど……
つ、剛ざんを……し、じあわぜにじますがらっ……ぐっ……」
「幸せにするって……
西本さん、プロポーズじゃないんだから……」
園長が笑いを噛み殺して、同意を求める様に剛を見た。
剛も、優しい眼差しの中に戸惑いの色が見えたが、私を真っ直ぐに見て頷いている。
「じ……じゃあ……
まずはっ……
わ、わだじを、ママっで呼んで!ねっ?」
涙や洟を、ティッシュで拭いながら、剛に言ったが、剛は面食らった様に口を開けている。
「え……
それは……」
遠慮がちに言葉を選び言う剛に、私はショックを受け、しゃくり上げながら叫んでしまう。
「だ、駄目なぼっ?
じゃあ……お母さんでもいいし!
ほんどーは、ママって呼んでぼらいだいげどっ……」
「いやいや、剛君の年齢でママ呼びはキツイでしょう……」
園長が宥める様に言うが、私は剛に詰め寄った。
剛はたじろいで一歩下がる。
「……ひっく……
まずは、形がら入りまじょ――!
ほらっ!
おがーざん、て、呼んで?」
剛は首を振り苦笑する。
「ごめんなさい……
ちょっとまだ……」
「ええええ」
ガーンと落ち込み脱力して座り込む私を、園長と剛が起こした。
「や……やっばり私が……ごんなんだから……
おがーさんとも……ママとも呼んでぼらえだいぼべっ!?」
私がうぐうぐ泣きながら剛を見ると、彼は涼やかな目元を緩ませて笑った。
その笑顔を見た時、私の胸の中で何かが弾け、彼から目を離せなくなってしまう。
(剛さんが……
笑ってる……)
今まで私が見た事の無い笑顔だった。
整っているけれど彫刻の様に堅い笑みを、彼はよく浮かべている事が多かった。
目の前の剛は、少なくとも作り笑いでは無く、私を見て笑っている――
「西本さん?
百面相ですか?」
園長の飽きれた声で私は我にかえる。
いつの間にか、私はニヤニヤ笑っていたらしいのだ。
「えっ!?」
私は目に残る涙を拭い、頬を押さえて園長と剛を交互に見たが、二人は笑いを噛み殺し肩を震わせていた。
剛がとうとう吹き出すと、園長も釣られて大笑いした。
私は急に恥ずかしくなり、その場から逃げ出したくなってしまうが、お腹を抱えて笑う剛の姿が嬉しくもあり、二人と一緒に笑い合った。
ひとしきり笑い、溜め息を吐いた私に、剛が静かに言った。
「……呼び方は……
努力します」
「えっ……い、いや……
そんな改まって頑張る宣言しなくても良いのよ?」
剛は、澄んだ目でじっと私を見て、ポツリと呟く。
「菊野……さん」
不意に名前を呼ばれ、身体がフワフワ舞い上がる程に高揚してしまう私だったが、何とかそれを表に出さない様に努め、精一杯のしかめっ面を作った。
だが、顔をひきつらせている様にしか見えないのかも知れない。
園長が、私の顔を見てまた笑っているのだ。
私は構わず、顔面に力を込めたまま剛にキッと向き直った。
「な……名前は止して欲しいのっ」
「え?」
剛は意外そうに目を見開いた。
私は拳を握り締め力説する。
「き、菊野って、何だか地味な名前じゃない?
私、花の名前なら、もっと可愛いのが良かったのよ!」
園長が、掌を打った。
「ああ~
例えば、薔薇とか牡丹とかツツジとかですかっ?」
剛も腕を組み真剣に呟いた。
「……花……
シクラメン……に……
マーガレット……マリーゴールド……」
二人の出した突拍子も無い例に私はずっこけそうになりそうだった。
「いやだから……
桜、とか、カスミ、とか……桃とかあるでしょうっ?」
二人は私の言葉に、大きく頷いた。
「成る程~」
園長が納得した様に言う横で、剛が考え込む様に腕を組み、ボソリと呟く。
「……菊……
菊野、菊野……」
「――っ!」
私は、呼び捨てされたかの様に恥ずかしくなり頬が熱くなってしまう。
「綺麗だと……思います」
涼やかな瞳が真っ直ぐに私を見て、信じられない台詞を彼が言ったので、足にまた力が入らなくなりへたり込んでしまった。
(き、綺麗って……
綺麗って――!?)
口をパクパクさせる私を、可笑しそうに剛は見ながら付け加える。
「綺麗な――名前だと思います」
「……」
私は、更に全身から力が抜けてしまい、うなだれてしまった。
(そ、そうよね……
私ったら、馬鹿みたい……もうっ!)
私は、剛さんに、特別な感情を抱いている。
好きだとか、恋だとか、憧れとか、そんな簡単な言葉で言える気持ちではなかった。
――彼を、自分の息子の様に慈しみたい。
恋人の様に、焦がれながら見つめていたい――
相反する二つの気持ちが自分の中に存在している。
でも、隠さなければ……
これからずっと、隠して行かなければ。
(そう、だから私……
彼に
"ママ"て呼ばれていたら、段々と母親の気持ちになれるかもって……)
「西本さん?大丈夫ですか?」
園長がまた笑いを噛み殺しながら声を掛けてくる。
(……いつまでも、グルグルと考えた所でこの気持ちが急に萎んでいく訳ではないのだから、もうどうしようもない)
私は、両腕を壁に突いて膝を立て、何とか立ち上がる。
「し、失礼しました……
凄く嬉しくて、錯乱したみたい……です」
私は、恥ずかしさを堪え、今更かも知れないが、精一杯大人らしく振る舞おうと、ゆっくり話す。
「……呼び方は、剛さんの好きにしていいけど……でも……いつか、いつか……」
「……はい、菊野さん」
私の言葉の先を、聞くまでもなく了解した、とでも言う様な、大人びた笑みを剛は浮かべて頷いた。
――――――
「……ふう」
私は、一年前のそんなやり取りを思い出しながら我が家のキッチンで、オーブンの前に椅子を置き、そこに座って溜め息を吐いた。
剛が西本の家で暮らす事になってから、あっという間に三ヶ月近く過ぎようとしている。
剛は中学に入学し、祐樹は小学校に上がった。
剛の制服姿を見た時には、ときめきを抑える事が出来ず、ハンカチを目元に宛てて頬が熱いのを私は誤魔化したのだ。
彼と出逢ってから一年以上が経つが、彼の姿を見るだけで浮き立つのは変わらない。
家族としてこれから一緒に時を過ごすうちに、この胸が鳴る事もいつか無くなるのだろうか?
自問してみるが、全く分からない。
「自分で自分の心が分からない、なんて、おかしいなぁ……」
私は思わず呟き、時計を見た。
天気の良い、風の気持ち良い昼下がりだった。
今日は祐樹も剛も帰りが早いから、その時間に合わせてパイを焼いていた。
芳ばしい薫りがキッチンに立ち込める。
「……レモンパイ、剛さんが好きなのよね……」
私は、彼が無心にパイを頬張る姿を想像して頬が緩む。
――この家で生活する前に、剛の食べ物の好みをリサーチせねばと思い、訊ねた事があるが、彼は真剣にメモを取る私を見て苦笑した。
「食べれる物ならなんでも大丈夫ですよ」
意気込んでいた私は、ガクッと応接のソファからずり落ちそうになる。
「い、いや……
でもこれだけは食べられない!とか、これさえあればご飯三杯行けちゃう!
とかあるよね?
私はねえ、パンも大好きなんだけど、やっぱり白米がだーいすきなの!
白い炊きたてのご飯なら、おかずが無くてもどんどんいけちゃう!
……でもねぇ、祐樹を妊娠してた時には悪阻が酷くて、大好きなご飯が炊ける匂いがダメだったの……
あの時は悲しかったわあ……」
ベラベラ喋る私を、彼が静かな眼差しで見て笑ってるのに気付き、私は恥ずかしくなり黙ったが、彼はクスリと笑い、言った。
「どうぞ、もっと話して下さい……
僕は、菊野さんの話を聞くのが好きですから」
「そっそそそそそうっ!? よ、良かったわあっ! 」
私は、彼の口から
"好き"という単語が出てきて舞い上がり、どもる。
彼は私のバカな仕草を見て何と思っているのだろうか。
静かな微笑みを湛えながら上品な仕草で紅茶を飲んでいる。
私は時々不思議に思っていた。
小さな頃にまともな教育も、愛情も受けていなかった彼が、ここまで大人びて成長するには、余程この施設の職員や園長が心を砕き、手を掛けたのではないかと。
彼の何気ない立ち居振舞いや話し方、お茶の飲み方に至るまで、そこはかとない優美さが感じられる。
ここでの教育の成果なのか、本来彼が持つ素質なのか、どちらなのだろう?
(でも凄いよね……
ここの職員さん達は……
私には、そんな仕事、出来ないなあ……)
「――菊野さん?」
物思いに耽っていたら、剛が私の顔を覗き込んでいて、危うく紅茶を彼の顔に吹き掛けてしまう所だった。
「ゲホ……ゲホッ」
「大丈夫ですか?」
「ら、らいりょうぶ……
つ、剛しゃん、これ食べてみでっ?
作ってきたの!」
私は、口に袖口を宛てて赤面しているのを隠し、カップケーキを差し出した。
「いつもすいません」
礼儀正しく頭を下げる剛に、私は手をヒラヒラ振る。
「もう~っ!
だから畏まらなくていいのよ!
春からはお家で一緒に暮らすんだからっ!
……時間が無くてカップケーキになっちゃったけど、次はもっと凝ったもの作るわね!」
「そんな……悪いですよ……
いただきます」
彼は、紙を剥いてケーキを口に含んだ。
私はドキドキしながら、彼の顔を穴の開くように見てしまうが、こんなにガン見されたら食べにくいよね、と思い顔を逸らした。
「……美味しいです、とても」
「――ほんとっ!?」
私は勢い好く振り返り、手を叩いて喜びを表してしまう。
「……好きな物の事ですけど」
「え?」
剛が、ふと真顔になり、私は身を乗り出した。
剛は、カップケーキの殻を見詰めながらも、何処か遠い処を見るような目をしていた。
「僕は……
両親と暮らしていた頃、食事を与えられたり与えられなかったりで……」
「――」
私は、ズキンと胸が痛むのを感じながら、彼の話を聞き逃すまいと耳を傾けた。
剛がこんな風に昔の事を私に語るのは初めてだ。
(ちゃんと、聞かなきゃ……)
私は、緊張に顔がひきつるのを感じながら、平静を装うが、それがいつまで持つのか自分にもわからない。
「――母親は、料理をしない人でした。
菓子パンを一つ僕に与えたきり、父と出掛けて暫く帰って来なかったりした事もありました」
「……っ」
酷い、という言葉が喉元に込み上げるが、口にしたら怒りが収まらなくなってしまう。
私が今、ここで激情に任せて彼の親を責めたとしても、彼が失った子供時代は取り戻せないし、時が戻り、私がその頃の彼を助けに行ける筈もないのだ。
「……家中のありとあらゆる所を探して、食べ物が無くなると、外の草とか木の実だとか取って食べてました」
「え、ええっ!」
私はつい叫んでしまう。
剛は微笑し、窓から見える庭の花壇を指差した。
「ほら、その赤い花なんか、吸うと甘い蜜が出てくるんですよ?
……まあ、中にはとても食べられたものじゃない草もあって……
不味いだけで済めばいいんですけど、食べた後で身体中が痺れて寒気が止まらなくなったりとか、たまにありました」
彼は淡々と語るが、私はただただ驚きの連続だった。
「だ、だ、大丈夫だったの?」
「その時は、死ぬかと思いましたけどね。
まあ、なんとか持ち直したから、こうして生きてます」
剛は笑うが、私は胸が詰まって何も言えなくなってしまい、俯いた。
「だから基本僕は、ちゃんと食べられる物、要するに腐った物だとか、石ころとか紙屑とかで無ければ充分なんです……
ここに来たばかりの頃は、食べ物の味だとか、よくわかりませんでしたし、食べられればなんでも良かったんです」
「……っ」
淡々と話す彼の顔を見る事が出来ず、私はついにしゃくり上げてしまうが、温かい感触が背中を包み、ドキリとして顔を上げると彼の首が目の前にあった。
「つ……剛さんっ」
剛は、私をぎこちない手付きで抱き締め、頭を撫でていた。
私は、涙がいっぺんに引っ込んでしまい、頬が焼ける程に熱くなり、思わず彼の胸を押し戻した。
すると、彼は一瞬傷付いた色をその表情に浮かべ、目を臥せた。
「……すいません、つい……」
「や、やややっ!
違うの違うの!
謝る事じゃな、ないのよっ!?
ただ、ちょ、ちょちょっとビックリして……」
私は、バクバク鳴る心臓を何とか宥めようと胸に手を当てるが、彼の悲しげな瞳を見ると、益々胸が高鳴り苦しい程だった。
「……家族が泣いたら、抱き締めたり、手を握る物なんですよね」
剛は、中庭の向こうでドッジボールに興じる施設の子供達に視線を移してポツリと言った。
「――え?」
「僕は……
僕だけじゃなくて、ここにいる子供達は、目の前で誰かが泣いたり、悲しんだりしている時に、どうやって振る舞っていいのか分からないんです。
……自分達が、抱き締められた事がないから……
分からない」
私は、立ち上がり、外を眺める剛の背中を見詰めた。
「――祐樹……
祐樹君が、いつか、菊野さんが泣いていた時、抱き締めて居たのを見て……
そういう時には、そうするのがいいのかなって思ったんです……
けれど、驚かしてすいません……
僕は、あなたの子供じゃないのに……」
「剛さん――」
気が付くと私は、彼に駆け寄り、後ろから抱き締めて居た。
剛は、身体をビクリと震わせた。
いつの間にか背が伸びた彼は、私と同じ位の身長になっていて、鼻先に彼の真っ直ぐな襟足の髪が当たり、ムズムズして大きなくしゃみをしてしまった。
「ごっ……ごめんなさい」
剛はこちらに向き直り、その澄んだ瞳に吸い込まれそうになり、また私は何も言えなくなってしまう。
彼の瞳が一瞬潤んだ様に見えてドキリとしたが、彼はいつもの静かな微笑を浮かべて言った。
「ありがとうございます……
菊野さん」
「――……っ」
私は、涙がまた込み上げ、ハンカチを探すが、どうやら今日忘れてしまった様だ。
またやってしまった。
大人の女性のたしなみとしてハンカチを持つのは常識だというのに、よく忘れてしまう自分の間抜けさに嫌になる。
察した彼が笑いながらボックスティッシュを差し出して来て、私は受け取り胸に抱いたまま涙やら洟を拭った。
剛は、鼻をかんではゴミ箱に捨て、また涙が溢れ、拭いては鼻をかみ丸めて捨てる動作を繰り返す私を見て口元を歪め、ついには笑い出した。
(ま、また、笑われちゃったよ…)
大人の女には程遠い自分を思い知り、私は別の意味で悲しくなり新たな涙が浮かんで来るが、剛が右手をギュッと握り締めて来て、息が止まりそうになる。
「……好きな食べ物が今、分かりました」
「……」
私は、ドキドキしながら彼の目を見た。
彼は、静かに笑いながらこう言った。
「――菊野さんが作ってくれた物が、好きです」
――――――
パイが焼けた事を知らせる電子音が鳴り、いつの間にか椅子の背にもたれ掛かり眠っていた私はハッと瞼を開ける。
目尻にいつの間にか涙を浮かべていた私は、指で瞼を擦るが、膝の上にハンカチが載せてある事に気付き、手に取る。
(誰かが、置いてくれたの……?
昔の夢を見て寝ながら泣くなんて恥ずかしい……)
ハンカチを握り締めてぼうっと座っていたが、リビングの奥からボソボソと話し声が聴こえてきた。
「……似てないじゃないか……もっとこう」
「え――っ
剛のも……ここがさあ……」
「これでどうだ……?」
「う~ん……
もう少し可愛く描いた方が……」
「……だな」
剛と祐樹の声だ。
私は思わず寝たふりをして聞き耳を立てた。
剛がこの家に来る前も施設から外出を一緒にしたり、週末に一泊して慣らしたりした成果か、二人はかなり打ち解けた様に見えていた。
年齢が離れているのがかえって良いのかも知れない。
祐樹も小学生になると、同い年の友達と遊ぶ事が増え、その影響かしばしば覚えたての生意気な言葉をわざと使う事もあった。
そして、好きな女の子も出来たらしく、剛に相談しているのを見かけた事もある。
私が心配して祐樹に聞き出そうとすると、祐樹は悪戯な笑みを浮かべて
「ママにはヒミツ!」
と、絶対に教えてくれない。
ついこの間までは私に何でも話してくれたのに、寂しい気持ちになるが、剛がそんな私の心情を知ってか知らずか、こっそりと教えてくれる事もあった。
「……同じクラスの真理亜ちゃんに、付き合って、と言われたらしいです」
と、耳打ちされた時にはあまりの衝撃に叫んでしまった。
(小学生の癖に告白とか付き合うとか……
今の子ってませてるのね……
じゃあ、剛さんも、大人っぽくてハンサムだから、学校でラブレターとか貰うのかしら……
今度聞いてみようかしら……
でも、教えてくれなさそうね……
はあ……切ない……)
私は椅子に凭れ、目を瞑り色んな事を思い出しながら二人のヒソヒソ話を盗み聴いた。
「……ほっぺはピンクに塗って……
口も!」
「はいはい……」
祐樹が少し威張った様に指示し、剛は多分苦笑しながらも小さな義理の弟の言うことを聞いてあげているのだろう。
私は、なんだか二人のそんなやり取りが嬉しくて寝た振りをしながら頬が緩んだ。
「うんうん、なかなか巧いんじゃないの?
ゴウカク――!」
祐樹が拍手しながらはしゃぐ声がする。
「……ここに、赤いリボンをつけて……
どうだ?」
「うん、可愛い可愛い!
ママ、喜ぶよ――!」
「……誕生日祝いと、母の日と一緒にするってどうなんだ……?
別々にお祝いした方が良くないか?」
私は、ハッとする。
そうだ――
今日は私の26歳の誕生日なのだ。
明後日は五月の第2日曜で母の日なのだが、祐樹が生まれてからは毎年母の日に私の誕生日祝いをしている。
「それは勿論!
パパがね、今日は仕事で遅くなるから、僕と剛でお祝いしてあげてねって言われてるんだよ。
日曜は、改めてパパがママと二人きりでお祝いするって~」
(え……
そうなの?)
私は、日曜に二人きりで、という悟志の企みに若干不安になる。
だが、お祝いしてくれるという気持ちを無下には出来ない。
有り難い幸せと思わなくては……
「だから、僕と剛でサプライズするんだよ!」
「成る程……」
「て事で、ママのお膝の上にそ~っと置いておこうよ」
「……サプライズ、てそんな簡単な感じでいいのか?」
「いいんだよこの位で。
あんまり凄い事をやるとママ、倒れちゃうから」
(う……確かに)
二年前、私の誕生日祝いをしてくれた時は、私は真歩と映画を観に行って真っ暗の家に帰り、電気を点けた途端に悟志と祐樹、私の父と母が飛び出して来て特大のクラッカーを鳴らしたのだが、大きさも特大だが、音も正に特大で、しかも四人が揃って引いたものだから爆発音の様な凄まじさだったのだ。
本気で驚き過ぎた私は、その場で卒倒してしまったのだ――
(はあ……
なんか私、びっくりして倒れたりとか、ろくな事してない……)
「そうなのか……フフフ」
剛が笑うのを聞いて、私は恥ずかしくて堪らなくなる。
「そうそう!
ママ、可愛いでしょ?」
「……そうだな」
祐樹に相槌をうった剛の言葉に心臓が跳ねた。
「でもダメだよ~剛。
ママはパパの物なんだから!」
無邪気な祐樹の軽口に、私の胸が益々圧迫される程鳴る。
「ハハハハ……
さて、じゃあ菊野さんが起きない内に、そ~っと置いてくるか……」
「うん!」
私は、目をぎゅうっと瞑り、一生懸命寝たふりを続行する。
二人が近付いて来るのが衣擦れや、フローリングの軋む音でバレバレなのだが、彼らの期待通りの反応をしなくてはならない。
変なプレッシャーをひしひしと感じながら、いつ瞼を開けて驚いてみせようかと、ぐるぐると考える。
ふと、石鹸の香りが鼻腔を擽り、それは剛の纏う香りなのだと直感し、頬が熱くなる。
今、彼は、私のごく近くに居るのだろうか?
祐樹のクスクス笑いも聞こえてきて、つい私も吊られそうになる。
「ママ、おめでとう」
囁き声と小さな吐息が、頬にかかり、チュッと冷たい感触を感じる。
どうやら、祐樹がキスしてきたようだ。
(小学生になってお兄さんになったと思ったのに……祐樹ったら……)
私は内心嬉しくてたまらないが、顔に出してはいけない。
引き続き寝ている振りをしていたら、剛の呆れ声がする。
「……おい、そんな事をして起こしてどうするんだよ」
「え――いいじゃない!
お祝いのチューだもん!
そうだ、剛もママにチューしてよ!」
「えっ?」
(――えええええええ――っ!!)
剛が戸惑った声を出したが、私はもっと大変な事になっていた。
「ほら!剛もする!
早くしないと起きちゃうよ~!」
祐樹が剛を急かすように言うが、剛は今どんな顔をしているのだろうか?
私は、胸をバクバク鳴らしながら、彼の表情を見たくて堪らなかった。
「いや……けど」
「剛はもうここのお家の人でしょ?
パパだって、ママにお早うのチューとか行ってきますのチューしてるんだよ!
だから剛も――!」
「え……けどそれは……」
剛がかなり困っているのが声色で分かる。
(そ、そうだよね……
剛さんからしたら私なんておばさんだし……
親でも何でもないんだから、したくないよね)
少し傷付きながら、私は彼を窮地から救うには、自然に目覚める演技をするしかないと思い付いた。
(良いタイミングで起きなくちゃ……)
そう思っていたら、祐樹が命令口調で剛に言った。
「ママにチューしないと、もう剛と口利かないよ」
(祐樹――!
何を無茶苦茶言うのよ!)
私は寝たふりを続けながら胸の中で喚くが、剛が愉快そうに低く笑うのが聞こえてドキリとした。
剛は、いつの間にか声変わりをしたらしい。
男の子は不思議だ。
いつまでも少年かと思っていたら、ある日突然大人を感じる事がある。
剛の学生服姿を見た時にも、これから彼がどんどん大人の男性に変わっていく予感がして、ドキドキしたが、今こうして側で低い声を聞くと、身体の奥がぞくぞくしてしまう。
(やだ……
私、これじゃあ変態みたい……)
「剛……笑ってないで早く~!
王子のキスは女の子を幸せにするんだからねっ」
祐樹は大真面目に言っている。
(女の子向けの本ばかり読ませ過ぎたかしら……)
「王子って……
ハハ……分かったよ」
(分かったよって……
ええ――っ!?
ち、ちょっとちょっとちょっと待って――!)
剛の石鹸の香りが鼻腔を擽ると同時に、椅子の背に彼が手を掛けたのか、ギシリと小さい音がする。
私は心臓がドキドキするどころか、身体中の血管の中の血が三倍速で流れているのではないかという程に気が逸る。
(う、嘘でしょ――!)
小さな吐息が耳にかかった瞬間、私は瞼を開けてしまった。
びっくりした様な剛の見開かれた瞳が目の前にあり、呼吸が止まる。
彼の唇が、頬に触れる寸前だという事が分かると、私は激しく動揺して椅子から転げ落ちた。
「マ、ママ――! 」
祐樹が飛んで来て、剛と二人がかりで私を起こしてくれた。
「いたあ……」
落ちた時に、肘を付いて擦りむけてしまい、血が滲んでいた。
「わ――っ!
大変だ――!
救急箱取ってくる――!」
「祐樹……大丈夫だから」
止めるのも聞かず、祐樹は二階へ上がっていってしまった。
「……驚かしてすいません」
剛が、私の腕の血を見て顔を歪ませている。
「い、いいのよ……
私がドジだから……アハハ」
ふと、側に転がっているリボンで包まれた画用紙と、赤いカーネーションが目に入った。
「……祐樹と僕で、菊野さんの絵を描いたんですけど……
気に入らなかったらすいません」
「そんな事ないわよ……
ありがとう……」
私がそう言うと、剛は目を細め
「血が……」
と小さく呟いたかと思うと、私の肘を掴み、唇を近付けそっと舐めた。
「――っ」
それはほんの一瞬の出来事だったが、私の胸に、彼が肘を舐めた時の唇と舌の悩ましい動きと妖しい表情が焼き付いてしまった。
勿論彼は何も意識をしている筈はない。
分かっているのに、早鐘の如く胸が鳴り出して、痛い程だった。
「菊野さん……?」
押し黙った私を、訝しげに彼が覗き込むが、私はつい顔を逸らしてしまう。
今、顔を見られたら、彼に抱いている想いを見抜かれてしまいそうな気がした。
頬が熱くて、火傷を負ったかと思う程だった。
鼻の奥がツンと痛み、泣いてしまうのではないか、と慌てた時、祐樹が二階から降りてきた。
「ママ――救急箱何処だっけ~」
「祐ちゃんありがとうね!ママ、自分で出して手当てするから……
あ、お花ありがとうね?
花瓶に生けてくるわね~!」
私は、ガバッと立ち上がり、剛の顔を見ずに画用紙とカーネーションを胸に抱き締め、花を生けに行く振りして洗面所に駆け込み蛇口を捻った。
胸が苦しくて、嗚咽が後から後から込み上げ止まらなかった。
「はあっ……はあっ……うっ……ひっ……」
私の啜り泣きを、水の音が掻き消して、墜ちた涙は流れて行く。
この想いは、いつか日常に薄まり、これから過ぎ行く日々と共に流れて消えるのだろうか。
こんなに苦しいのなら、そうであって欲しい。
カーネーションの赤は、私の中で燃えている焔と同じ色だと思った。
掌で目を覆い、見えない様に固く瞼を閉じた。
私は、誕生日が来る度、この花を見る度に今日の事を思い出してしまうのだろうか。
あと何度、こんな苦しい想いをするのだろう……
――しかし、私も剛もこの時には分かって居なかった。
二人が家族としてこの家で一緒に暮らす時間(とき)は、そう長くない運命にある事を。
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