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滅ぼせない恋情①
しおりを挟む「あ――っ!
ストッキング伝線しちゃった……
替えなくちゃ――っ」
四月。
剛の高校入学の朝、髪を結い、セレモニースーツを着た私はドレッサーの前で叫び、クローゼットの中を引っ掻き回す。
「きゃ――っ!
これも、これもなんか穴開きとか、伝線してるし!
無事なストッキングがない――!
どうしよ……あっ!
コンビニで買ってこうかな」
「騒がしいわねえ……
どうしたの?」
花野がドアを開け、呆れた風に言った。
「あ――
お母さ~ん!
ストッキングが……」
花野は、苦笑して溜め息を吐くと、エプロンのポケットから新品を出した。
「流石お母さん!
何でも用意してるのね~!」
「貴女はストッキングを穿くの、下手だからねえ……
こんな事もあろうかと持ってきておいて良かったわ」
花野はコロコロと笑う。
私は、母が家に居てくれる事に大きな安心を覚えていた。
悟志が倒れて病院に運ばれてから二週間が経つ。
大量に血を吐いた悟志だったが、奇跡的に命に別状は無かった。
色んな検査をしたが原因が不明で、医師も首を傾げた。
私は毎日病院へ通い、時には家族棟へ泊まる事もあった。
家の事を花野が手伝いに来てくれたり、泊まってくれるので、私は大いに助かっている。
ただ、悟志の意識は戻らないままだった。
健康にいつも気を遣い、酒は付き合い程度しか飲まず、スポーツで身体を鍛えている彼は、会社の健康診断でも引っ掛かった事も無かったのだ。
倒れたあの夜、裸で血を浴びたままの私の代わりに、剛が付き添い救急車へ乗り込み病院へ行ったのだが、私は寝室で呆然として動けないままで居た。
スマホが鳴った様な気がしたが、私は、目に映る物や聴こえる音、手に触れる総てが現実か夢か区別がつかない状態にあり、ただただ血で染まった絨毯の上に座り込んでいた。
掌を見ると、紅い色が飛び込んでくる。
――この色は、何の色なの?
禍々しい、鮮やかな紅。
その紅は、流産の記憶と痛みを呼び覚まし、悟志との思い出と共に私の中へと急速に流れ込んで来た。
初めて悟志と会ったのは、お見合いの席では無かった。
私が高校生の時だった。
二年の時、私は他校の男子から生まれて初めて手紙を貰い交際を申し込まれたが、当時の私は同じ年の異性とまともに話した事が無く、嬉しい気持ちよりも恐怖の方が遥かに勝っていた。
文化祭でクラスでは喫茶店をやったのだが、当番でウエイトレスをしていた時に友達と遊びに来て、私を見掛けたらしい。
その彼は、かなり積極的な人だった。
友達の知り合いの妹が私の通う学校に居るらしく、そのツテを辿り手紙を渡してきたのだ。
全く知らない他のクラスの子から呼び出され、
"まさか虐め?"
とビクビクしていた私だったが、その子が寄越したのは、彼からのラブレターだった。
真歩くらいにしか話していない筈だったのに、ラブレター事件は、恋に憧れる年頃の女の子達だらけの学校中に広まってしまった。
彼は、週に二、三回ペースで放課後に校門の所で私に会いに来る様になった。
彼は背が高くてがっちりとした体育会系の男子だったが、声がやたらと大きくて、言葉遣いが乱暴だった。
今思えば、彼はごく普通の明るく元気な高校生だったのだ。
だがあの頃、彼が怖くて堪らなくて、まともな会話さえ出来なかった。
それに、彼は大抵誰か友達を連れていたし、私の側にも真歩やクラスメイトが必ず居た。
"菊ちゃん、いいじゃない、背が高くて格好いいし、付き合っちゃえば――?"
クラスメイト達は、彼が来る度に面白がる様に囃し立てたが、周りが騒げば騒ぐ程に、私は頑なになった。
彼の友達も、皆身体も声も大きくて、私は怖くて仕方が無かったのだ。
同じ年の男の子の頭の中を理解する事など到底出来ないし、解りたくもなかった。
男の子は、皆乱暴で意地悪だという偏見があったのだ。
彼が友達と冗談で小突き合ったりするのを見るだけでも怖かった。
真歩には、
「菊野~
幸せなお嫁さんになるのが夢なんでしょう?
だったらさ、あの彼と付き合ってみなよ」
と言われ、私は
「だからって、なんであの人なの?
私の旦那様になる人はもっと……」
とムキになって言い返したが、真歩は呆れていた。
「あんたね……
なんで、付き合うから、いきなり結婚まで話が飛ぶのよ」
「だ、だって!
真歩がそう言ったじゃない!」
「だーかーら!
私が言いたいのはねぇ~
一度も男子とお付き合いもしないで、結婚してもいいの~?て事なのよ!
勿体無いじゃない」
「勿体無いって、意味がわかんない!
嫌なものは嫌!」
真歩は、肩を竦めて溜め息を吐いた。
「ん~……
てか、そんなに嫌なら、彼にハッキリ断ってあげなよ。
このままじゃ可哀想でしょ?」
だが、面と向かって断る勇気もないまま、ズルズルと日々は過ぎていき、周囲だけが盛り上がり、何故か私と彼は付き合っているという事にされてしまっていた。
ある日、真歩が風邪で休んだ時、彼がいつもの様に校門の塀に凭れて私を待ち構えていたが、その日は彼も一人だった。
私も、周りの友達は皆居残り勉強だとか部活で居なくて一人。
どうしよう、と躊躇したが、校門を通らなければ帰れない。
歩みを止めたまま、立ち尽くして居たら、彼が私を見付けて手を上げた。
「こんにちは!
……今日は、一人?」
「……ひ、一人じゃありません」
「え?」
首を傾げ、彼は周りを見るが大笑いする。
「誰もいないだろ――!
菊野ちゃん面白いな――!ハハハハ」
その大きな声に私はまたビクリと震えた。
――ハッキリ断らないと、彼も可哀想でしょ?
真歩の言葉が過るが、見上げる程に大きくて、見るからに強そうで、どんな硬い物でも噛み砕いてしまえそうな丈夫そうな白い歯を覗かせて豪快に笑う彼を、可哀想などとは思えなかった。
私だって、ハッキリと言える物なら、言いたい。
でも、もし彼が逆上したら?
怖くてとても出来ない――
いつもフォローしてくれて、私の代わりに彼の相手をしてくれる真歩は居ない。
私は咄嗟に、嘘を付いた。
「ごめんなさいっ!
た、体調が悪くて!
だから――急いで帰りたいのっ!
さ、さようなら――!」
棒読みな上に、声を元気に張り上げてしまい、彼はツボに嵌まったらしく、急ぎ足で歩く私の後を笑いながら付いて来た。
「菊野ちゃん……
本当面白いなあ……
ねえ、今度さ、休みの日に二人で何処か行こうよ」
「用事があって無理ですッ!」
「じゃあ、次の休みは?」
「無理です」
「その次は?」
「無理です」
駅前の賑わう通りをズンズン進んで居たが、いきなり後ろから手を掴まれ、壁に押し付けられた。
「きゃ……」
恐怖で小さな声しか出ない。
「なあ、それってどういう意味だよ」
彼は、顔を近付けて来て私を真っ直ぐに見る。
「やっ……
は、離してっ」
「菊野ちゃんさあ、俺と付き合う気があんの、ないの?
ハッキリ言わないなら、分かんないぜ」
彼は、大きな掌で私の顎を掴み、顔を近付けて来る。
呼吸がかかる程の距離に彼の顔が、唇があって私は怖くて何も言えず、思わず目を瞑ってしまった。
すると、手を掴んでいたゴツゴツした感触が忽然と消え、恐る恐る瞼を開けると、彼の肩を見知らぬ大人の男性が掴んでいた。
男性は、私の父よりも少し若い程の年齢に見えるが、もっと若いのかも知れない。
シャンとした背筋、こざっぱりと短いスポーツ狩りに、整った男らしい眉。
彼に負けない程の体格と背の高さだ。
黒いスーツ、黒いネクタイだが、堅苦しくなくラフに着こなしている印象だった。
「……君、嫌がる女の子に無理強いしたらダメじゃないか」
男性が、にこやかに彼に言う。
「何だよオジサン、関係無いのに口出すなよな!」
オジサン、と言われ、スーツの男性はずっこけるが、人の良さそうな笑みを浮かべた。
「か、関係無くない!
この人は、私のパパなの!」
私は咄嗟に叫び、男性の背中に回り込んだ。
「へっ?」
男性は目を丸くしたが、直ぐに真顔になり、彼に向かい父親風に話し始める。
「ん――まあ、そういう事なんだよ……オホン!
うちの娘にはまだ男女交際は早いと思うんだ……
悪いが君、諦めてくれたまえ。
まあ、まだ若いんだ、これから幾らでも出会いがあるさ!
はっはっは!」
男性は、呆気に取られる彼にペコリと頭を下げ、私に手を差し出した。
「さあっ!
娘よ!
帰ろうか、マイホームへ!」
私は迷わずその大きな浅黒い手を取る。
「は、はいっ!お父様っ!
か、帰りましょ――!」
「おうっ!
娘よ!
帰ろうか――!
今夜はカレーだってママが言ってたぞ――!
では、若者よ、さらば!頑張れよ――!」
男性は、彼に向かいもう一度芝居がかった口調で言うと、私の手を握り締め歩き出した。
何故、咄嗟に知らない男性に頼ってしまったのか、私にも分からなかった。
ただ、男性の、キラキラ輝く瞳が、私の父に似ている様な気がしたから――
つい、何も考えずに男性と手を繋ぎ歩いてしまっているが、駅までの一本道、彼がまだ私達を見ているかも知れない。
親子の演技を続けなければ……
歩いている間、私達は何も話さなかったが、男性の広い背中が何故かとても安心出来た。
――パパの背中みたい……
と思った。
駅のコンコースまで辿り着き、男性は大きく息を吐き、私を振り返るといきなり爆笑する。
「な……なんで笑う……んですっ」
男性は、涙まで流し、ポケットからハンカチを出して――ぴしっとアイロンがかけられた青い布は、彼の清潔感そのものに見えた――
目尻を拭う。
「いや、だって君、お父様とか~!
ハハハハ……
何処のお嬢様とお父様なんだか……ひっ……」
「う……
な、なんか、口から勝手に出てきてしまって……」
(この人の演技も相当わざとらしいと思うけど……)
恥ずかしくなり俯く私の手を、男性は握り締めたまま言った。
「ねえ、お家は何処?
僕、車をこの近くに停めてるから、送ってあげる」
「え……」
「いや、だって君、相当怖かったんじゃない?
このまま一人で帰すの、オジサン心配だからさ」
「……」
言われてみて、私は初めて自分の指先が小刻みに震えているのに気付いた。
私は、急に怖かった気持ちを思い出し、涙が込み上げて来た。
「あ~……
泣かしちゃったなあ……う~ん、これじゃあまるで僕が悪者……」
「ひっ……こ、怖かった……うっ……」
男性は、身を屈め優しく私の頭をそっと叩く。
「あ――、僕、怪しい者じゃないからね?
……そうだな、信用して貰う為に~
はいっ!
これ、車を取ってくる間預けるから!」
男性が私に渡したのは革の財布だった。
「え……ちょ、これ」
驚く私に、男性は何故か敬礼し、
「僕は、西本悟志!
三十六歳!
ちなみに一応独身ね!
……後で、君の名前も教えてよ?」
元気にそう言うと、私に財布を預けたまま走って行ってしまった。
――それが、私と悟志の出会いだった。
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◆◇◆◇◆◇◆
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