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離したくない①
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久し振りに、菊野の笑った顔を見たような気がする。
テーブルを挟んだ目の前で、綺麗に盛り付けられたデザートに大喜びしている彼女は、まるでバースデーケーキにはしゃぐ少女だ。
皿を手に、あちこちの角度から眺め、感嘆の溜め息を吐く。
「凄い……かわいくてお洒落で美味しそうで……
これ、どうやって作るのかしら……?」
真剣に、菊野はレシピを推測しているようだった。
その様子が何とも言えず愛らしく、俺の頬はいつの間にか緩んでいたらしい。
菊野がじっとこちらを睨んでいた。
「……剛さんにまた笑われた」
拗ねる声色がやはり可愛らしくて、俺の胸の奥がうずく。
「笑っていませんよ」
「ううーーん!笑ってるし」
「じゃあ、そうなんでしょうね」
思わず笑いが込み上げてしまい、口元をナフキンで拭う振りをして誤魔化そうとしたが菊野の鋭い声が飛んできた。
「何故そんな風に笑うのよ?
剛さん?私は貴方のれっきとした保護者で母親で、十四歳上の大人なのよ?
子供の仕草を笑うみたいにしないでほしいわね~」
菊野は舌足らずに俺を責めながら、スパークリングワインのグラスに手を伸ばした。
「そろそろ止めておいたほうがいいんじゃないですか」
「ふ~ん~。
今日は飲むの~。剛さんも飲めば~?」
菊野は鮮やかな朱に染まった頬で無邪気に笑い、ワインを煽った。
彼女がここまで酩酊するのを初めて見たが、嫌悪感は感じなかった
女性が酔っぱらう姿は見ていてあまり良いものではない。真歩がたまに西本家に泊まる事があり、彼女が酔い潰れるのを何回か目撃したが、正直
「介抱する恋人は気持ちが褪めるのではないだろうか?」
と思ったものだ。
今時は女性の酒豪も珍しくないし、俺の考えは古いのかも知れないが……
菊野は、頬だけではなく首筋も胸元もほんのりと染まり、目は涙が溢れるのではないか、と思わせるように潤んで、そんな目で見詰められると心が騒いだ。
ウエイターにワインを勧められたとき、最初は躊躇っていた彼女だったが、俺が
「大丈夫です。菊野さんが立てなくなったら俺がおんぶして家まで連れて帰りますから」
と言ったら、小鼻を膨らませて反論してきた。
「な、そんなに私はお酒弱くないし、自分で歩いて帰れます!」
「そうですか?」
「そうよ‼グイグイいけるんだからっ‼」
そう言うや否やグラスを掴み、一気に飲み干してしまったのだった。
菊野は、悟志の事があってから病院と家の事で忙殺され、睡眠もろくに取れていないようだった。
今に倒れてしまうのではないかと、密かに心配していたのだ。
花野には「今日は菊野のお守りを頼むわね。こんな時だけど、あの頃もたまには羽根を伸ばさなくちゃ……
もし、お酒にでも酔ってしまったら、そのまま泊まって朝早く帰ってくれば良いわよ。
祐樹の事ならだいじょうぶよ。私はどのみち今夜は泊まるから……
剛さん、帰らないなら連絡だけちょうだいね?」
と言われたが、花野も実は可愛い孫の祐樹と居れる事が嬉しいようだった。
目をトロンとさせて小さな欠伸をする菊野の色づいた唇を、紅茶を飲みながらカップに目を落とす振りをして盗み見る。
優しく、気風の良い祖母ーー花野は夢にも思わないだろう。
俺が、菊野を女として愛していて、今すぐにでも部屋に連れ込んでその身体を思いのままにしたい、という邪な欲で一杯になっているなどーー
「そうよ……剛さんが産まれたばかりの時には……私……中学で英語検定…受けさせられたんだから……
二級……受け……」
眠そうにしながら、何処か鼻高々な口調が可笑しかった。
「ふうん……で、合格されたんですね?」
「ぶっぶーー‼落ちました~」
クスクス笑う菊野を余裕たっぷりな風を装い見詰める俺だったが、頭の中では彼女が森本に顎を触れられている場面が甦り、
「奴に何をされたんです」
と問い質したくなる。
菊野は警戒心をもたなすぎる。
俺達のような少年は彼女には子供にしか見えないのかも知れないが、実際の十五才の男が自分をどう見ているか、など考えもしないのだろう。
ーー俺に何度も襲われそうになっているのに……
この人は、もう少し疑う事を覚えた方がいい……
「落ちたのにどや顔ですか……
何なら、真歩先生に一緒に英語を習ってみましょうか?」
冗談で言うと、菊野は両手を高々と挙げて叫んだ。
「いいも~ん‼
女の子は、頭のよさよりも愛嬌だって……さと……しゃんが……」
ーー悟志?
今、二人だけの時間(とき)に耳にしたくない名前だった。
こんなことを思うのは、酷いのかもしれない。俺は菊野と悟志に養われている子供で、特に彼には感謝をいくらしても足りない程、恩を感じているのも真実だ。
だが、一方では、菊野を悟志から奪ってしまいたい欲で身も心もはち切れそうな自分が居る。
上品で静かな雰囲気のレストランで、菊野のすっとんきょうな高い声は響き、周囲の客たちがちらり、とこちらに目を向けたが彼女は全く意に介して居ない様子で、ワインを飲み干す。
テーブルを小さな手で軽く叩き、上目遣いで俺を見詰める。
いや、睨む、と言った方が正しいかもしれない。
二十九才の菊野だが、幼い顔立ちのせいか、年齢よりも大分若く見える。
彼女はそれを気にして、大人っぽく見られる事に憧れを抱いているらしい。
同い年の真歩の様に、妖艶な女性になりたかったーーと悟志にこぼしているのを見たことがある。
悟志は菊野の肩を包み込む様に抱いて、
「菊野は今のままで素敵だよ……
それ以上素敵になったら、僕はドキドキして困ってしまうよ……」
と、照れる風でもなくさらりと言っていた。
そのやり取りを見たのは、西本の家に来て間も無くの頃だった。
祐樹は両手で目を覆って呆れていたが、俺は何とも言えない苦さが口の中に込み上げたのを思い出す。
それが何なのか、あの時は分からなかった。
だが、今ならーー
俺は、あの頃既に悟志に嫉妬していたのだ……
今、身を乗り出して眉を寄せ、唇を突きだして睨み付けてくる菊野を、俺はいとおしい気持ちを募らせて見詰めていた。
可愛くて、今すぐにでもその唇を奪ってしまいたい。
そんな事を考えているとは知らない彼女は、更に顔を近付けて拗ねるような、甘えるような声で呟く。
「なによう~‼一生懸命睨んでいるのに、全然怖がってくれない……悔しい」
「ああ、やっぱり睨んでいるつもりでした?」
「……んもうっ‼
少しは怖がってよ‼」
子供が駄々をこねる様に、彼女は身体を揺する。
俺はやはり笑うのを我慢できずに吹き出してしまった。
「ああーー‼
笑った‼しかも爆笑するなんて酷いーー」
菊野は指を指して叫びむきになる。
隣のテーブルに料理を運んできたウエイターがこちらを見て僅に眉を上げるのを見て、俺は席を立つと菊野の腕を取った。
「飲み過ぎましたね……
部屋に行って休みましょう」
菊野は、イヤイヤをする仕草で首を振り抵抗するが、俺が耳元で囁くと赤い頬を更に染めて、大人しく俺の腕に掴まった。
ーー大人の女性なら、おしとやかに振る舞って下さい。
こう言ってみたのだが、効果はあったようだ。
俺は、菊野を伴ってウエイターに会釈をして、ポケットの中の部屋のキーを握り締める。
「つよししゃ……
私は……大人で……あなたの……ママなんだからあ……」
エレベーターの前で、目を擦りながら俺の腕に寄り掛かる彼女は今にも眠ってしまいそうに見えた。
「はいはい……」
俺はエレベーターが到着すると、彼女の身体を抱き上げた。
「ん~。自分で歩けるし~」
菊野はそう言いながら、腕の中で小さくため息を吐いた。
欠伸のような、呼吸のようなそれは俺の耳元を擽り、不意に身体を熱くさせる。
「だからあ……自分で歩けるもん……
赤ちゃんんじゃないんだからあ……
私……しっかりした保護者に……なるんだから……」
「今歩こうとしたら転びますよ……」
「ママは……
お母さん……息子に……抱っこ……なんてされないし……」
「何を今更……散々俺に抱っこされてきたでしょうに」
「知らない……そんなこと……
恥ずかしい……から……言わないで……剛しゃんのバカ……」
「今は、俺と二人きりです……
恥ずかしくなんかありませんよ」
「ダメ!ダメなの~!
私は……しっかりしなきゃ……だって、だってもし悟志しゃんがこのまま……んっ」
エレベーターに乗り、ぐずぐず言う彼女の唇を指でそっと指で摘まみ黙らせる。
「むっ……」
菊野はいつの間にか目に涙を溜めている。
彼女の言いたかった言葉は、推測出来た。
悟志がこのまま目を覚まさない……という事になったら、菊野は一人で祐樹の子育てやら、俺の事を背負わなければならないのだ。
だから、精一杯気を張っているのだろう。
何の苦労もない幸せな結婚生活を送っていた彼女にとって、俺の事や悟志が倒れた事は青天の霹靂の様な出来事なのだろう。
その小さな肩が微かに震えるのを見て、俺は焦れる思いだった。
……一人で背負おうとしなくていい……
もし、悟志がこのまま目を覚まさないままなら、俺が貴女を支えるのに……
だが、それは純粋に彼女を思っての気持ちではないことを自覚していた。
(俺は、悟志が、回復しなければ良いと願っているのだ……
彼が居なければ、菊野を俺の物に出来る……
そう望んでいる俺は、やはりこの家に似つかわしくない外道だ……
悟志の心配をする振りをして、祐樹の良い兄という仮面を被り、隙あれば菊野をどうにかしようと狙う飢えた獣だ……)
菊野の瞳から、遂に大粒の涙が零れ俺の指を濡らした。
本当なら、その唇を指ではなく、キスで塞ぎたい。
烈しく、熱烈に、その小さな唇を吸い、舌を絡めとりたい。
何も考えられなくなるまで、彼女をキスで、抱擁で酔わせたい……
だが、俺も理性をギリギリのところで辛うじて保っていた。
少なくとも、今はまだ。
部屋の前まで来ると、菊野はようやく今の状況を理解したようだった。
鍵を開けようとする俺を不安げな表情で見上げる。
「あ、あの……」
俺は、返事をせずにゆっくりと鍵を回してドアを開けた。
部屋の灯りを点けると、中央のダブルベッドが否応なしに目に飛び込んでくる。
俺の腕の中で菊野が息を呑んだ。
テーブルを挟んだ目の前で、綺麗に盛り付けられたデザートに大喜びしている彼女は、まるでバースデーケーキにはしゃぐ少女だ。
皿を手に、あちこちの角度から眺め、感嘆の溜め息を吐く。
「凄い……かわいくてお洒落で美味しそうで……
これ、どうやって作るのかしら……?」
真剣に、菊野はレシピを推測しているようだった。
その様子が何とも言えず愛らしく、俺の頬はいつの間にか緩んでいたらしい。
菊野がじっとこちらを睨んでいた。
「……剛さんにまた笑われた」
拗ねる声色がやはり可愛らしくて、俺の胸の奥がうずく。
「笑っていませんよ」
「ううーーん!笑ってるし」
「じゃあ、そうなんでしょうね」
思わず笑いが込み上げてしまい、口元をナフキンで拭う振りをして誤魔化そうとしたが菊野の鋭い声が飛んできた。
「何故そんな風に笑うのよ?
剛さん?私は貴方のれっきとした保護者で母親で、十四歳上の大人なのよ?
子供の仕草を笑うみたいにしないでほしいわね~」
菊野は舌足らずに俺を責めながら、スパークリングワインのグラスに手を伸ばした。
「そろそろ止めておいたほうがいいんじゃないですか」
「ふ~ん~。
今日は飲むの~。剛さんも飲めば~?」
菊野は鮮やかな朱に染まった頬で無邪気に笑い、ワインを煽った。
彼女がここまで酩酊するのを初めて見たが、嫌悪感は感じなかった
女性が酔っぱらう姿は見ていてあまり良いものではない。真歩がたまに西本家に泊まる事があり、彼女が酔い潰れるのを何回か目撃したが、正直
「介抱する恋人は気持ちが褪めるのではないだろうか?」
と思ったものだ。
今時は女性の酒豪も珍しくないし、俺の考えは古いのかも知れないが……
菊野は、頬だけではなく首筋も胸元もほんのりと染まり、目は涙が溢れるのではないか、と思わせるように潤んで、そんな目で見詰められると心が騒いだ。
ウエイターにワインを勧められたとき、最初は躊躇っていた彼女だったが、俺が
「大丈夫です。菊野さんが立てなくなったら俺がおんぶして家まで連れて帰りますから」
と言ったら、小鼻を膨らませて反論してきた。
「な、そんなに私はお酒弱くないし、自分で歩いて帰れます!」
「そうですか?」
「そうよ‼グイグイいけるんだからっ‼」
そう言うや否やグラスを掴み、一気に飲み干してしまったのだった。
菊野は、悟志の事があってから病院と家の事で忙殺され、睡眠もろくに取れていないようだった。
今に倒れてしまうのではないかと、密かに心配していたのだ。
花野には「今日は菊野のお守りを頼むわね。こんな時だけど、あの頃もたまには羽根を伸ばさなくちゃ……
もし、お酒にでも酔ってしまったら、そのまま泊まって朝早く帰ってくれば良いわよ。
祐樹の事ならだいじょうぶよ。私はどのみち今夜は泊まるから……
剛さん、帰らないなら連絡だけちょうだいね?」
と言われたが、花野も実は可愛い孫の祐樹と居れる事が嬉しいようだった。
目をトロンとさせて小さな欠伸をする菊野の色づいた唇を、紅茶を飲みながらカップに目を落とす振りをして盗み見る。
優しく、気風の良い祖母ーー花野は夢にも思わないだろう。
俺が、菊野を女として愛していて、今すぐにでも部屋に連れ込んでその身体を思いのままにしたい、という邪な欲で一杯になっているなどーー
「そうよ……剛さんが産まれたばかりの時には……私……中学で英語検定…受けさせられたんだから……
二級……受け……」
眠そうにしながら、何処か鼻高々な口調が可笑しかった。
「ふうん……で、合格されたんですね?」
「ぶっぶーー‼落ちました~」
クスクス笑う菊野を余裕たっぷりな風を装い見詰める俺だったが、頭の中では彼女が森本に顎を触れられている場面が甦り、
「奴に何をされたんです」
と問い質したくなる。
菊野は警戒心をもたなすぎる。
俺達のような少年は彼女には子供にしか見えないのかも知れないが、実際の十五才の男が自分をどう見ているか、など考えもしないのだろう。
ーー俺に何度も襲われそうになっているのに……
この人は、もう少し疑う事を覚えた方がいい……
「落ちたのにどや顔ですか……
何なら、真歩先生に一緒に英語を習ってみましょうか?」
冗談で言うと、菊野は両手を高々と挙げて叫んだ。
「いいも~ん‼
女の子は、頭のよさよりも愛嬌だって……さと……しゃんが……」
ーー悟志?
今、二人だけの時間(とき)に耳にしたくない名前だった。
こんなことを思うのは、酷いのかもしれない。俺は菊野と悟志に養われている子供で、特に彼には感謝をいくらしても足りない程、恩を感じているのも真実だ。
だが、一方では、菊野を悟志から奪ってしまいたい欲で身も心もはち切れそうな自分が居る。
上品で静かな雰囲気のレストランで、菊野のすっとんきょうな高い声は響き、周囲の客たちがちらり、とこちらに目を向けたが彼女は全く意に介して居ない様子で、ワインを飲み干す。
テーブルを小さな手で軽く叩き、上目遣いで俺を見詰める。
いや、睨む、と言った方が正しいかもしれない。
二十九才の菊野だが、幼い顔立ちのせいか、年齢よりも大分若く見える。
彼女はそれを気にして、大人っぽく見られる事に憧れを抱いているらしい。
同い年の真歩の様に、妖艶な女性になりたかったーーと悟志にこぼしているのを見たことがある。
悟志は菊野の肩を包み込む様に抱いて、
「菊野は今のままで素敵だよ……
それ以上素敵になったら、僕はドキドキして困ってしまうよ……」
と、照れる風でもなくさらりと言っていた。
そのやり取りを見たのは、西本の家に来て間も無くの頃だった。
祐樹は両手で目を覆って呆れていたが、俺は何とも言えない苦さが口の中に込み上げたのを思い出す。
それが何なのか、あの時は分からなかった。
だが、今ならーー
俺は、あの頃既に悟志に嫉妬していたのだ……
今、身を乗り出して眉を寄せ、唇を突きだして睨み付けてくる菊野を、俺はいとおしい気持ちを募らせて見詰めていた。
可愛くて、今すぐにでもその唇を奪ってしまいたい。
そんな事を考えているとは知らない彼女は、更に顔を近付けて拗ねるような、甘えるような声で呟く。
「なによう~‼一生懸命睨んでいるのに、全然怖がってくれない……悔しい」
「ああ、やっぱり睨んでいるつもりでした?」
「……んもうっ‼
少しは怖がってよ‼」
子供が駄々をこねる様に、彼女は身体を揺する。
俺はやはり笑うのを我慢できずに吹き出してしまった。
「ああーー‼
笑った‼しかも爆笑するなんて酷いーー」
菊野は指を指して叫びむきになる。
隣のテーブルに料理を運んできたウエイターがこちらを見て僅に眉を上げるのを見て、俺は席を立つと菊野の腕を取った。
「飲み過ぎましたね……
部屋に行って休みましょう」
菊野は、イヤイヤをする仕草で首を振り抵抗するが、俺が耳元で囁くと赤い頬を更に染めて、大人しく俺の腕に掴まった。
ーー大人の女性なら、おしとやかに振る舞って下さい。
こう言ってみたのだが、効果はあったようだ。
俺は、菊野を伴ってウエイターに会釈をして、ポケットの中の部屋のキーを握り締める。
「つよししゃ……
私は……大人で……あなたの……ママなんだからあ……」
エレベーターの前で、目を擦りながら俺の腕に寄り掛かる彼女は今にも眠ってしまいそうに見えた。
「はいはい……」
俺はエレベーターが到着すると、彼女の身体を抱き上げた。
「ん~。自分で歩けるし~」
菊野はそう言いながら、腕の中で小さくため息を吐いた。
欠伸のような、呼吸のようなそれは俺の耳元を擽り、不意に身体を熱くさせる。
「だからあ……自分で歩けるもん……
赤ちゃんんじゃないんだからあ……
私……しっかりした保護者に……なるんだから……」
「今歩こうとしたら転びますよ……」
「ママは……
お母さん……息子に……抱っこ……なんてされないし……」
「何を今更……散々俺に抱っこされてきたでしょうに」
「知らない……そんなこと……
恥ずかしい……から……言わないで……剛しゃんのバカ……」
「今は、俺と二人きりです……
恥ずかしくなんかありませんよ」
「ダメ!ダメなの~!
私は……しっかりしなきゃ……だって、だってもし悟志しゃんがこのまま……んっ」
エレベーターに乗り、ぐずぐず言う彼女の唇を指でそっと指で摘まみ黙らせる。
「むっ……」
菊野はいつの間にか目に涙を溜めている。
彼女の言いたかった言葉は、推測出来た。
悟志がこのまま目を覚まさない……という事になったら、菊野は一人で祐樹の子育てやら、俺の事を背負わなければならないのだ。
だから、精一杯気を張っているのだろう。
何の苦労もない幸せな結婚生活を送っていた彼女にとって、俺の事や悟志が倒れた事は青天の霹靂の様な出来事なのだろう。
その小さな肩が微かに震えるのを見て、俺は焦れる思いだった。
……一人で背負おうとしなくていい……
もし、悟志がこのまま目を覚まさないままなら、俺が貴女を支えるのに……
だが、それは純粋に彼女を思っての気持ちではないことを自覚していた。
(俺は、悟志が、回復しなければ良いと願っているのだ……
彼が居なければ、菊野を俺の物に出来る……
そう望んでいる俺は、やはりこの家に似つかわしくない外道だ……
悟志の心配をする振りをして、祐樹の良い兄という仮面を被り、隙あれば菊野をどうにかしようと狙う飢えた獣だ……)
菊野の瞳から、遂に大粒の涙が零れ俺の指を濡らした。
本当なら、その唇を指ではなく、キスで塞ぎたい。
烈しく、熱烈に、その小さな唇を吸い、舌を絡めとりたい。
何も考えられなくなるまで、彼女をキスで、抱擁で酔わせたい……
だが、俺も理性をギリギリのところで辛うじて保っていた。
少なくとも、今はまだ。
部屋の前まで来ると、菊野はようやく今の状況を理解したようだった。
鍵を開けようとする俺を不安げな表情で見上げる。
「あ、あの……」
俺は、返事をせずにゆっくりと鍵を回してドアを開けた。
部屋の灯りを点けると、中央のダブルベッドが否応なしに目に飛び込んでくる。
俺の腕の中で菊野が息を呑んだ。
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