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眼差しのテンプテーション②

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 柳は礼儀正しくお辞儀をして、高く結ったポニーテールを揺らした。


「おはようございます!……あの、相談がありまして」



「なんだい?」



 日比野は、イヤホンを外し優しい上司の顔を向けた。


 柳は、躊躇いがちに目をふせるが、少し頬を染めて言う。



「あ、綾波様……のお部屋へ、今後のスケジュールに関してのご連絡をしたいのですが……そ、その……いつ、どのタイミングでお電話を入れたら良いのか……」



 柳は、昨日夕食も頼まずに部屋に籠りきりの二人を心配していたのだが、一晩明け、ルームサービスを届けた時に、ふと寝室の奥のドアが開いていて、くしゃくしゃに乱れたシーツと、物憂げに横たわる美名の姿が見えてしまい内心慌てたのだった。


 そう言えば、綾波もバスローブ姿のまま、何とも言えない色気を漂わせていた。



(お式を決めた熱々のお二人は、一晩じゅうお部屋で……?……ひ、ひょっとしたら、昼間でも……っ。うわあ……下手にお電話とかして、邪魔したらいけないわ……)


 柳は、綾波と、今日の天気だとかニュースの事など当たり障りのない会話をしながら、頭の中では妄想を爆発させていた。








 日比野は、目尻を下げ、やかに言う。


「……柳君。確かに電話のタイミングによっては失礼にあたる場合もあるかもしれないが、我々にも仕事の段取りというものがあるし、最低限の所は押さえておかなくてはいけませんからね……
まあ、色々なお客様がいらっしゃるが……綾波様達に関しては、柳君とちゃんと信頼関係が出来ているようですから、柳君の考える匙加減で良いと思うけどね……」



「は、はい……そうなんですけど……」


 自信が無さげに口ごもる彼女の頭に、日比野はそっと掌を置き、撫でた。

 途端に彼女の頬が仄かに紅く染まる。



「君は頑張っている……確かに、あれだけの有名人の挙式を任されてプレッシャーもあるだろう。だが、どんなお客様であれ、我々がすべき仕事は同じだよ……自信を持って、君の思うようにやりなさい。いつでも相談に乗るからね」



「……は、はいっ……ありがとうございます!」


 柳ははち切れそうな笑顔を向けお辞儀して出ていった。






 日比野は、ドアが閉まるのを確認すると、再びヘッドフォンを装着してみるが、美名の矯声が聴こえてこないのが分かるとフッと笑みを溢した。


「朝のメイクラヴは取り敢えず終了ですか……」



――昨日顔を合わせた時の綾波の鋭い瞳――

 彼はどうやら私を怪しんで居るのだろう。

 美名が話したのか、それとも彼の推測かどうかは分からないが。

 ほど良い加減の嫉妬心は、恋愛の極上のスパイスになる。

 あの口付けが、より二人を強く結び付けるきっかけになったのだとしたら面白くはないが、これからのやり様でそれはどうとでもなる……

 彼女を揺らし惑わせて、そしてこの腕の中で淫らに啼かせてみせる――



 日比野は、口付けた時の美名の身体の柔らかさや甘い吐息、白いうなじを思い浮かべ、瞼を閉じて呟いた。



「今は、せいぜい幸せに酔うといい……どうせ長続きはしない……」








 綺麗にサイドが編み込まれた栗色の髪を指で撫で、胸元のボタンがちゃんと留められているか、ストッキングが伝線していないか、美名はドレッサーの鏡の前で後ろ姿や、正面、斜めから、何度も確認するが、ソファで脚を組みじっと見ていた綾波がクツクツ笑う。



「大丈夫だ……どこから見ても可愛い、厭らしい姫様だぞ」



 美名は、キッと彼を睨みつけた。



「い、厭らしいは余分だし!厭らしいのは剛さんでしょうっ?」



「……怒っても全く怖くないぞ……寧ろ、ゾクゾクする……もっと怒ってみろ……」




 綾波は、ソファからゆっくり立ち上がり美名に近付くが、美名は思わず後ずさる。




「つ……剛さんっ……来ないで!」


「来ないでってお前」


「だ、だだだだって!また私を襲うでしょ――!」


 美名は、真っ赤になり彼から逃げ回る。





 美名は、床の上で彼に攻められ、その後バスルームでシャワーを浴びながら何度も果てさせられた。


 バスルームでは立ったままで烈しく求められ、足腰が限界を迎えてしまうかと思った程だ。


 現に、腰やら身体のあちこちが痛む。


 ようやく綾波に解放されたと思えば、彼はおもむろに紙袋から黒の総レースのランジェリーを出して当然の様に「これを着けろ」と言った。


 しかも、洗面所へ行く事を許されなかった。



「ここで、俺の前で着るんだ……」と彼に命じられ、美名は勿論全力で拒否したが、鬼畜悪魔モードの綾波は泣き落としにも眉ひとつ動かさなかった。


 美名は涙目で恥ずかしさを堪えながら、彼が優雅に脚を組み見物する前でセクシーな下着を着け、彼に「着ろ」と言われた黒に白の花柄のミニワンピースを着たのだ。







「そうだな……着る姿を堪能した後、一枚一枚脱がして行くのもいいか……」



「やっ……やだあっ……剛さんの意地悪っ!」


「ふふ……さて、どうしようかな」



 綾波は、狼が兎を追い詰めるが如く少しずつ近付いて追い詰め、その鋭い眼光は美名の身体の自由を奪う。


 美名は、彼と出会って恋人同士になり結婚を決めた今でも、この鋭い眼差しに慣れる事が出来ない。


 身がすくんでしまう程怖いかと思えば、ふと堪らなく甘い色をその瞳の中に滲ませたりして、美名を混乱させ蕩けさせる。






 美名の今日のワンピースは襟が大きく開き胸元と鎖骨を綺麗に見せている。


 要所要所に施されたフリルは美名の愛らしさにぴったりで、フレアーになった短いスカートの部分は際どい部分までレースで透けている。


 黒のワンピースに合わせたゴスロリ調のフリルと小さなリボンが沢山付いたストッキングが美脚を引き立て、擦れ違う人を振り向かせるだろうと思う程にセクシーでキュートだ。


 美名は、彼の眼差しに囚われてしまい足が進まなくなり、同時に力が抜けて崩れ落ちそうになるが、素早く綾波が抱き留めた。



「おいおい……転んだら台無しだぞ……姫様」



 綾波の甘く低い囁きに、美名は頬を染め彼を見詰め、咎める様に言う。



「つ、剛さんが……一杯……エッチな事するからっ……ふらついたんじゃないっ!」






 綾波は、額を軽く小突いた。


「おい、今は何もしていないだろうが」



 美名は、頬どころか首や胸元まで紅く染め、どもりながら抗議する。



「な、何もしてなくないっ!……そんな目で見るから私っ……」


 
 綾波は首を傾げ眼鏡を外し、喉を鳴らし笑った。



「俺の目がどうした……ん?」



「――っ!ほ、ほら――!そんな風に眼鏡外すなんて、反則――!ズルイッ!」



 美名は、裸眼の彼の目の輝きに胸をズキュンと撃ち抜かれ、絶叫する。



 綾波は耳を押さえ顔をしかめたが、尚も叫びそうな勢いの美名の唇を奪い、黙らせた。



「ん……んん……」




 キスした途端に腰くだけになる美名を綾波はきつく抱き締め、その唇と咥内を甘く蹂躙していった。







 綾波がようやく唇を離す頃には、美名の瞳は蕩け、その眼差しは彼の身体を疼かせた。



「……全く……お前は」



綾波は、軽く咳払いすると、美名の鼻を指で摘まみ豚鼻にした。



「ふがっ」



 目を白黒させる美名を見てニヤリと笑い、綾波は彼女の頭をポン、と撫でた。



「……姫様が欲情してしまったようだが、続きは帰ってきてからにするか」


「よ、よよ欲情って!」


「そろそろ、三広と桃子を送ってやる時間だろ」


「あ……そ、そうでした……ね」



美名は、今思い出したという風に口を掌で押さえる。




「ほらな。ムラムラ来て妹を送る大事をすっかり忘れてたじゃないか」


「よ、欲情とかムッ……ムラムラだとか、人を変態みたいに言わないで――!」



 美名は真っ赤になり喚くが、綾波はフフンと鼻を鳴らし、彼女に黒いレースとリボンの帽子を持たせ、エスコートする騎士の如く右肘を突き出した。



「さあ姫様、お手をどうぞ」




 美名は、ドギマギしながら彼の腕を取った。






 美名達が下へ降りると、桃子と三広はラウンジでテーブルを挟み何やら言い合いをしていた。

 
 言い合いといっても、桃子の方が優勢のようで、目を吊り上げて三広に怒鳴っている。


 二人の醸し出す不穏な雰囲気に、周囲の客達もお茶をしながらチラチラと視線を向けている。


「ど、どうしたのかしら」

「まあ、犬も喰わない夫婦喧嘩ってヤツだろうよ……しかしまあ、三広も女と喧嘩するようになるとはな……デビューしたての頃には、女を見ればビビって硬直していた奴が……」


 感慨深げに頷く綾波だったが、美名は気が気ではない。



 静かなラウンジに、桃子の高い険を含む声が響き渡り、明らかにこれは迷惑ではないだろうか。

 迷惑もそうだが、あんなに三広に会うのを楽しみにしていた桃子が……一体何があったのだろう。







 桃子の目には、涙が滲んでいた。



「桃子っ……」



 駆け出そうとする美名を、綾波が止める。



「犬も喰わないって言うだろうが……放っておけ」



「で、でも……」



「あいつらも大人なんだ。もう少し様子を見よう」



「……とか言って、剛さん、何だか面白がってない?」



「……バレたか」


 舌を出し悪戯に笑う彼を美名が睨み付けた時、一際大きい桃子の声が響いた。



「三広のバカ――!浮気でもなんでもすれば――っ!?」



 桃子が、飲み物の入ったグラスを三広にぶちまけようと手を上げた。



「も、桃子っ!」



 美名が綾波の腕をすり抜け駆け出した時、桃子と三広の間に割って入った人物がいた。



「なっ……」

 

 美名と綾波は同時に絶句する。



 日比野が三広の代わりに頭から水を被り、そして優雅な笑みを浮かべていた。


「……お客様、どうか、お静かにお願いいたします……」


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