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揺れる夜③

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「だって……アンソニーっておかしいだろ」



 由清は桃子の小さく柔らかい手を時には強く、時には優しく握り締めながら、彼女の白い首筋に視線を向け、その肌の薫りと感触はどんなだろうか、と邪な想像をする。今の自分はどんな表情をしているだろう。少なくとも、桃子の理想の『アンソニー』では無いに違いない――と思う。

 隙あらば取って食べようとする飢えた狼――そんな風に見えているだろうか?

 それでも構わないと由清は覚悟していた。時には本性を見せないと、舐められる。

 いつまでも、彼女の都合の良い優しいアンソニーでいるのなんか、真っ平だ。





「てかさ、俺の名前、ちゃんと知ってる?桃子」



 掌の中にスッポリと収まるだろう桃子の手を強く握り、こんな風にその華奢な身体を抱き締めたい――と由清は切なく思う。

 また名前を呼ばれた桃子は狼狽え、視線をカウンターの後ろに並べられている色とりどりの瓶に泳がせた。



「しっ、知ってるよ!当たり前じゃない!」



 気まずさを誤魔化すようについ大きな声を上げてしまったが、由清はやわらかく笑って首を傾げた。




「ふうん、そうなんだ。なら、俺の名前を呼んでごらん」

「っ……」

「読んでくれないなら、俺はこれからずっと桃子って呼ぶけど?……アイツのいる前でもそう呼ぶけど?いいの?」

「――っ」



 桃子は何かの塊を飲み込むように大きく息を吸ってから咳払いすると、上目遣いで目の前の綺麗な顔の男を睨む。




「……アンソニーがこんなに意地悪だって、知らなかった」

「意地悪じゃないよ。真剣に好きな女の子を口説こうとしてるだけだよ」

「アッ……ンソニ――!」

「次にその呼び方したら、またキスするよ」

「――!」



 面白い程に顔中真っ赤になる桃子の手を更に強く握り、由清は甘く囁いた。



「俺の名前を呼んでごらん?」






「たっ、立花……さん」

「いきなり他人行儀だね……却下」

「ぐ……じゃ、じゃあ、よ、よよよ」

「落ち着いてゆっくり呼んでごらん」

「よっ!」

「ふふ、何かの掛け声なの?」



 由清は熱を持つ桃子の頬をいとおしげに見詰めながら低く言う。桃子はその声にある種の迫力を感じて気圧されて、ついに彼の名前を口にした。



「よ……よ……よしき……」

「――」




 小さな花弁のような唇が自分の名を小さく呼ぶのを見て、由清は胸の奥を重くて鋭い弾丸を撃ち込まれたように衝撃を受け、絶句した。






 今まで女の子に名前を呼ばれた事は何回も、何百回もある。深い関係になった女の子だって全く居なかった訳じゃない。でも、今まで女の子達に名前を呼ばれてこれ程までに心が浮き立ち、身体中が熱くなる事などあっただろうか。

 由清は、今までの余裕しゃくしゃくな態度が嘘の様に胸が早鐘を打ち、指先が震える。

 桃子にもそれが伝わったのか、彼女までが手を震わせ、その頬はひきつっていた。

 桃子は大きな由清の手をほどこうと懸命に腕を動かすが、由清は強引に彼女の腰を抱き寄せて、頬にキスした。

 
「やっ……!」



 桃子が反射的に彼の顎目掛けて頭突きをかまそうとした時、マスターが無言でキッチンからやって来て二人の前に熱々のピザと飲み物を置き、また奥へ引っ込んだ。

 桃子はこれ幸いとばかりに由清の拘束から逃れ、椅子を素早く彼から1メートル程離して座り、出されたお絞りで手を拭いて彼から目を逸らす。



「あ――!スッゴく美味しそう――!さ、食べよ食べよ!」



 白い大皿に載ったマルゲリータのピザは、ソースが満遍なく塗られ、もったりとしたチーズがふんだんに生地からはみ出しそうにかかっている。

 視覚と嗅覚で完全に食欲を呼び覚まされた桃子は、先程までの恥ずかしさやときめきをすっかり忘れてしまったかのように目の前のピザに心を奪われていた。



「美味しそう~!」

「だね」



 あとひと押し、桃子を追い詰めて陥落させたかったが、目を輝かせて喜んでいる彼女の様子に苦笑し、今は意地悪をするのは止めてあげよう、と思う由清だった。

 由清は器用にカッターでピザをカットして、食べるように桃子に視線で促す。





「はい、どうぞ」

「ありがと!」


 桃子は小皿に取り分けられたピザを早速頬張り、目を細めてブンブン頭を振り、手を胸の前で組んで幸せな表情を浮かべている。由清もつられて笑い、ピザを一口かじると、納得したように頷いた。


「うん、本当に美味しいね、この店は当たりだったね」

「ふんふん!ほんろにほいしい――!」



 頬を膨らませて咀嚼しながら言う桃子を見ていた由清は、プリキーの長野の合宿での事を思い出した。あの合宿に向かう道中には、これほどまでに彼女に心を奪われてしまう事になるとは想像もしていなかった。そして、美名がマネージャーの綾波と結婚を決めてバンドが休業となることも――


 

 元々ホスト稼業の傍らでバンド活動は趣味の延長だったのだが、プリキーは、今まで流される様に生きてきた彼の総てを大きく変えた。

 美名と真理という優れたプレーヤーと音楽を作り上げ、一から楽曲を組み立てていく作業は本当に楽しかった。順風満帆とは言えないスタートだったが、得たものも大きかった。ドラマーとしての自信に、かけがえのない仲間に、生まれて初めて夢中になれた恋――

 由清は桃子の赤みの差す頬が膨らんだりすぼんだりするのを眺めながらハイネケンをすすり、彼女が空腹を満たした頃にまた口説いてやろうか、と考えていた。一度は諦めかけた思いだったが、こうしてまた会えたのは何かの運命なのかも知れない。




「ねえ、桃ちゃん」

「ふん?」

「……いや、何でもない。ゆっくり食べて」

「ふん?……へんなアンソニー……」



(また呼び方が戻ってるし)由清は無心にピザを食べる桃子に笑いかけ、チラリと壁の時計を見る。

 ――クレッシェンド――いや、三広は、明日フェスに出る筈だ。つまり、奴は少なくとも明日じゅうは戻ってこられない。

 休業中の身としてはステージでドラムを鳴らす事の出来る彼が羨ましくもあるが、彼が愛する桃子は今、自分の手の内にある。

 

「おいひ~!アンソニーももっと食べなよ!」



 桃子は何気なくピザの切れ端を彼に差し出すが、由清は妖しい光を瞳に宿らせ、形の良い唇を開いた。


 


 
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