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最初で最期の……①
しおりを挟む身体中が鉛のように重い。
泣き過ぎたせいで目は赤いままで、瞼も少し腫れぼったい。
指先を動かすのさえ億劫に感じるが、私は彼の元へと向かう。
訪れるのが二度目の、森本のマンションのエレベーターの中の、鏡に映る自分から思わず顔を逸らす。
――私は一体何をしているのだろう。
本当は、今すぐにでも剛の元へと飛んで行きたい。
彼を力一杯抱き締めて、謝りたい。
そして心から『愛している』と言ってあげたい。
だが、それは許されない事だ。
それに、今となってはもう遅いのだろう。
彼は昨夜、パニックを起こして倒れたらしい。
原因は分からないが、どうやら小さな頃の記憶が蘇って悪夢を見ているのではないか、と花野が言った。
悟志の病室に花野が訪れて、私に昨夜の出来事を聞かせたのだ。
『剛さんね……うわ言みたいに、菊野さん、どうして……って繰り返してたわ』
花野の言葉に、心臓を鋭利な刃物で切られたかのような痛みをおぼえ、呼吸が一瞬出来なくなった。
――ああ、やっぱり彼は傷付いている、私の仕打ちに。
彼に何もかもを許しておいて、いきなり突き放して――
でも、私はどうすれば良かったの……?
彼に恋を告げられ抱き締められ、堕ちてしまう前に、彼を全力で拒み、いっそのこと死んでしまえば良かったのだろうか。
二人の恋人の時間は、この上なく幸せで、嬉しかった。
でも彼を突き放してしまった今、彼は深く傷付いて、私も堪らなく苦しい。
彼はまだ若い。
たとえ傷付いても、時間が、これから彼に訪れるであろう出会いが、彼を癒してくれるだろう――
そう考えていた私はなんて思い遣りのない、浅はかな女だろう。
彼は私の事が引き金となって、不幸な過去の悪夢を思いだして苦しみ始めてしまった……
『私の……せいだわ』
涙が手の甲に落ちた。
花野は黙って私が泣くのを見ていたが、眠る悟志の方を向き、やるせない表情で言う。
『悟志さん、貴方が居ないと、菊野も祐樹も……色んな物を抱えきれないわ』
『……』
『菊野』
花野に呼ばれるが、私はしゃくりあげてしまい返事もできない。
すると、厳しい声色で呼ばれ、ビクリと震えてしまう。
『――菊野っ!
しっかりなさい!
貴女よりも、剛さんの方が今ずっと辛いのよ!』
『――っ』
『子供の頃とは違うの。泣いたって何にも解決しないわ……
泣いてる暇があったら、これからどうすれば良いのか考えてみなさい』
『……っお母さん』
滅多に見せない険しい顔を向ける花野に、私は絶句する。
泣き止もうとしても、次から次へと溢れる涙と嗚咽は、呼吸が困難になるほどに私を苦しめる。
子供のように身体中を震わせて泣く私を見て、花野はやがて諦めたように溜め息を吐いた。
『全くの他人の子供を育てるっていうのは……やっぱり難しいわね』
『――』
『ましてや剛さんは普通の家庭に生まれた子ではないし……』
『お母さん……っ』
『勿論、分かってるわ。剛さんは素晴らしい子よ、思い遣りも持っているし、ピアノの才能だって素晴らしいわ』
花野は、そこで息継ぎをして、私を真っ直ぐに見た。
『けれど……だからって……何故わざわざ、彼を引き取ろうと思ったの?』
『――!』
『祐樹の兄弟が欲しかったのは分かるわ。貴女が流産して悲しい思いをしたことも分かってる』
『……っ』
胸が大きくバクバクと鳴り始めて、外に聞こえてしまうのではと思う程だ。
花野は私から目を離さない。
私は震える指でスカートをぎゅっと握り締めた。
『貴女たちは、平穏に、仲良く上手くいっていたじゃないの……
悟志さんも真面目に働いて、貴女の事も祐樹も大事にして……
それでも、貴女は足りなかったの?』
『……』
私は、何かを言い掛けて言葉を呑み込む。
そうだ、私は傲慢だったのだ。
自分が平穏に、無事に暮らせていたのは、悟志や父、母が守ってくれていたからなのだ。
それなのに、私はその事を全く分かっていなかった。
剛を、幸せに、笑顔にしたいと思って彼を引き取ったけれど、私は彼を不幸に突き落としただけではないのか?
何もわかっていない愚かな私が、人を幸せにするなど、無理な事だったのかも知れない。
『まあ……今そんな事を言ってもそれこそはじまらないわ。
一度養子縁組をしたら、離縁は出来ない決まりだし、途中で放り出すだなんてもっての他ですからね……
ちゃんと……彼が大人になるまで責任を持って見てあげないと』
花野は帰り支度をしながら私に背を向けて言う。
『お母さん……』
『剛さん自身の気持ちを一番に考えましょう。
もう少し体調が落ちいたら、これからどうするのか考えて決めましょうね』
『……あ……あの……』
ドアに手を掛けて、花野は振り返る。
『あ……色々ありがとう……ご……ごめんなさい……』
また泣きそうになるのを唇を噛み堪え、やっとの思いで言ったが声が震えていた。
ふわり、と暖かい感触が頭に触れた。
花野は、小さな子供を見るような目で私を見て、頭を撫でていた。
『いいのよ。剛さんの為に……皆の為にどうすればいいか、私もできる事はするから……
貴女も頑張りなさい』
『う……うん……っ……うう……っ』
『ほらほら、泣いてばかりじゃ悟志さんも流石に呆れるわよ?』
『う……うん、ありがとう……お母さ……』
花野は、苦笑しながら病室を出ていった。
※※
「うっ……」
森本のマンションのエレベーターの中で、思い出し泣きをしそうになってハンカチで鼻を押さえた。
すると扉が開いて、彼の部屋への到着をチャイムが知らせる。
――ああ、着いてしまった。
大きく溜め息を吐いてドアの前に立つと同時にドアが開いて、仰天して声をあげそうになるが、彼の手で口を塞がれる。
彼は、ニット帽を目深に被り、赤と黒のギンガムチェックのシャツを羽織りGパンというラフなスタイルで、制服の時よりも子供に見えた。
いや、まだ15歳の子供なのだが、超然として大人びた彼の印象しかない私は、少し意外に思った。
「菊野さん、夕方まで時間大丈夫?」
彼は、私の手を握ったまま自分も外に出てきて鍵を掛けて、いきなりそう言ってきた。
「う……うん、大丈夫です」
「予定変更してさ、出掛けようよ」
「えええっ?」
「今日、すごくいい天気だしさ」
「あ、あの……森本くん、体調は」
彼は私の手を引っ張ってエレベーターに乗り込むと、悪戯に目を輝かせて舌を出す。
「さっき、治りました」
「なっ……」
彼は、唖然とする私を壁に押し付けて首を傾げた。
「だめ?」
「――っ……だ、だって……
もしも誰かに見られたらっ」
「あはは、ちょっとだけ離れた所に行くから、大丈夫だよ」
「……っ」
「なあに?それとも……部屋の中で俺と居る方がよかった?」
妙に色っぽい目で誘う様に言われて、頬がボッと熱くなった。
彼に指で頬をゆっくりと触れられる。
「可愛いなあ」
「か……可愛いだとか、言わないの!私はこう見えても」
「こう見えても大人ですからって?ふふふ」
「っ……」
「いいじゃん、本当に可愛いんだから」
「へ、変な事いわないでっ……」
「……もっ……」
彼を思いきり怒鳴り付けたい衝動に駆られるが、言葉が出てこずに絶句し、俯くと涙が溢れた。
彼が目を見開いているが、溢れた涙を止める事が出来ずに私はしゃくりあげる。
腹が立って、情けなくて仕方がなかった。
私のやることなすこと全てが裏目に出て、皆を不幸にしているような気がする。
何とかしたいのに、剛の事も、悟志の事も、悲しませたい訳ではないのに、何をしたら良いのかもわからない。
私は戦慄(わなな)きながら、彼の靴の先を睨み言った。
「何よっ……そうして、私をからかって……
脅してみたり、おかしな事を言って混乱させたり……
わ……私がどんなに悩んでるか、知りもしないくせに!」
最後のほうは感情が昂ってしまい言葉にならなかった。
言い終える前に、目の前が彼のシャツの赤色で覆われる。
私は、彼に強く抱き締められていた。
「……私だって……こんなの……いやっ…」
「菊野さん……っ」
「剛さんが……好き……好きなだけ……なのにっ……」
「……」
私は、彼の胸を滅茶苦茶に叩いて暴れしゃくりあげながら言葉をぶつける。
彼は、私の拳が頬に当たっても僅かに眉を寄せただけで何も言わず、尚も私を包むように抱き締める。
「バカっ……バカあ……っ!
あなたなんて……大嫌いっ……」
「菊野――」
両手を捕まれて、彼に唇を塞がれ私は叫べなくなる。
もう抵抗する力も残っていない私は、唇を塞がれたままで彼のシャツを掴んだ。
それは、情欲からではなく、私を落ち着かせる為だったようだ。
エレベーターが到着してドアが開くと、彼は顔を離して小さく
「ごめんね」
と呟いた。
「……っ」
素直な彼の表情に何も言えなくなり、そして、仮にも大人の私が15歳の子供の前で取り乱してしまった事や、彼にキスされた恥ずかしさに身体中が熱くなった。
彼は私の手を引き、いつの間に呼んで居たのか、マンションの前に付けてあるタクシーの運転手に手を挙げる。
後部席が開き、彼は私に乗る様に促した。
「警戒しなくても大丈夫だよ。変な所に連れ込んだりしないから」
彼に軽く背中を押される様にして身を屈めて乗り込んだが、後ろで咳払いが聞こえて怪訝に思っていると、彼の手がいきなりスカートの裾を掴んだ。
「な……何をっ」
「も――、乗り降りには気を付けないと!思いきり捲れてたよ!」
「――う、うそっ」
彼はスカートを直すと隣に身軽な仕草で腰掛けた。
ふんわりと優しい香りが鼻腔を擽った。
彼に以前乱暴されそうになった時には気付かなかった香りだった。
「菊野さん」
森本が、当然のように私の肩を抱きよせる。
ドキリとして、彼から離れようと身を捩るが脇を擽られ力が抜けてしまう。
「も……っりもとく……何を」
「凄く疲れてない?菊野さん……
顔色が良くない」
彼は顔を覗き込んできてサラリと言うが、私は思わず手で顔を隠した。
一目で見て言われてしまう程に酷い状態なのだろうか。
彼は、そんな私の気持ちを汲み取ったかのように優しい笑みを浮かべて首を振った。
「いや、それでもとっても綺麗ですよ……」
「……っ」
思わずどぎまぎしていると大きな掌が頭を掴み、彼の肩に強制的にもたせかけられた。
「着くまでの間、眠ってなよ。僕が枕になってあげるから」
「ね……眠くない」
「いや、ひと休みして下さい。沢山泣いたから疲れたでしょう」
「……それは……森本くんが……」
反論しようとしたが、窓から差し込む柔らかい陽射しと彼の優しい香りで微睡んでしまい瞼が重くなる。
髪を柔らかい手付きで撫でられたような気がするが、既に私は心地よい眠りの中へと沈んでいた。
どれくらい眠ったのだろう。
ひんやりとした感触が頬に降れて、瞼がピクリと動く。
「――菊野さん……着きましたよ」
森本の声が耳元で聞こえて、起きなくてはと思うのだが、心地よい眠りはまだ私を離してくれない。
「うう……ん……眠……」
「う――、そんなに可愛く言われちゃうと寝かせてあげたくなるけど……
健康と美容には昼寝は適度な時間がいいんですよ?」
「んん……でも眠……」
「も――、起きないと、このままホテルへ直行しちゃうけど、それでもいいの?」
「――やっ……何もしないって言ったじゃない!」
彼の言葉にぎょっとして、目を覚ました私は身体をガバッと起こした。
すると彼の軽やかな笑い声と共に、私は手を強く引かれて車から降ろされた。
タクシーは走り去り、午後の陽射しを直に浴びて眩しさに手を翳すが、着いた場所の意外さに私は口をポカンと開けた。
そこは遊園地だった。
しかも、いわゆるテーマパークではなく昔からあるようなローカルな遊園地。
「ま……待って、森本くんっ」
「菊野さん、こういう場所嫌い?」
「嫌いじゃなくて……絶叫系とか怖いの以外なら好き……だけど……」
「はは、やっぱりそうなんだ。か――わいいなあ」
彼は手際よくGパンのお尻のポケットから財布を出して切符を買い、一枚を私に握らせると素早く肩を抱いて歩き始めた。
可愛らしい動物の親子のイラストが描かれているゲートを通り、彼は園内を見渡して
「さて、何に乗りましょうか」
と、声を弾ませた。
太陽の下で笑顔ではしゃぎ気味の彼は、いつか目を妖しくぎらつかせて私を組み敷いた時とは全く違う人に見えた。
寧ろ年齢よりも少し幼く見える。
思わずじっと見詰めていたら、彼は身を屈めて額にチュッとキスしてきた。
「……もっ……ん……にも……て……ったじゃない!」
触れられた額が、頬が、抱かれた肩が堪らなく熱かった。
――何もしないって言ったじゃない、と怒鳴りたいのだが憤慨しすぎて、呆れて、そして恥ずかしくて口が上手く回らない。
拳を振り上げて彼の頭を叩くと、彼は舌を出しておどけて笑った。
だが、決して肩を抱く手を離そうとしない。
森本は、目を細めて笑うと私の手を引き歩き始めた。
「さあ、時間が勿体無いから遊びましょう~」
「あ、あの……」
「そうだなあ……手始めはあれ、やりますか」
「?」
彼が指差したのは、丸い柵の中に何体かあるパンダの乗り物だった。
小さな子供が父親と一緒になって遊んでいるが、そのパンダの顔は間が抜けていて、スピードは非常にのろい。
私は思わずプッと吹き出してしまうが、彼は大真面目だった。
「さあ、行きますよ!」
「森本くん……私、恥ずかしいんだけど」
周りは小さな子供逹ばかりで、大人が跨がるには躊躇ってしまう。
だが彼は有無を言わさずに私を抱きかかえてパンダに乗せると柵の外へ出てしまった。
「ちょっと……森本くん!」
慌てる私を彼はスマホのカメラで撮り始めた。
「か――わいいなあ、似合いますよ」
「森本くんってば――もうっ」
エレクトーンの音色の調子外れのメロデイーが流れ始めて周りのパンダも動き出し、ぶつかってきそうな子供の運転するパンダを私は慌てて避けた。
「おお――いいですよ、上手上手」
森本が、柵に腕を掛けて写真を撮りながら歓声を送ってくるが、私は恥ずかしくて仕方がない。
だが周りとぶつからないようにハンドルをきるので精一杯で、しまいには夢中になっていた。
音楽が止み、パンダも動かなくなると私はある種の達成感と疲労で何秒か放心していたが、スタッフのおじさんに
「あのう、次の回の人が乗りますので……」
と声を掛けられて我に返った。
「菊野さん――大丈夫?自分で降りれますか?」
「……っ……」
大きな声で彼が呼ぶと、周囲の人達の視線が刺さる。
華やかな顔立ちで、人形のように手足が長い彼はやはり何処に居ても目立ってしまう。
私はスカートに注意しながら降りるが、彼に拍手されながら盛大に出迎えられ、顔から火が出そうだった。
「自分で降りれましたか、えらい!」
彼に頭を撫でられて、頬が真っ赤に染まるのがわかった。
でも振り払う事が出来ず、俯いて唇を噛む。
「もうっ……私、そんなに危なっかしいの?」
「まあ、そうですね」
「うっ」
「ちゃんと僕と手を繋いで下さい。はぐれると困るから」
そう言いながら指をしっかりと絡めてきて私の目を真っ直ぐに見詰めてくる。
未だにこの状況が理解出来ない私はドキドキしどもってしまう。
「……ななな、なんだか、び、ビックリしたな……」
「うん?」
「森本君がこういう所に行こうって言うなんて……」
彼は面白そうに眉を上げた。
「ふうん、じゃあ、僕ってどんな所に行きそうな男なの?」
「う――ん……すっごく上品な白い壁に白い屋根の海辺のカフェテラスでロイヤルミルクテイー飲んだりとか……
あとは……美術館とか……アトリエとかで横に年上の愛人さんとか連れてそう……
それとか……超高級ブテイックでお金持ちのマダムに全身着せ替えコーデイネートしてもらってたりとか……」
大真面目に答えたつもりなのだが、横で彼は爆笑している。
「あははっ……菊野さん、面白いなあ……
何なんだよその妄想……僕って何者なのさ!」
「……だって……なんかそんなイメージなんだもの」
「まあ、確かに女の子とこういう場所って来たことないなあ」
「そうなの……?」
「うん……菊野さんが初めてだよ」
色っぽい流し目――彼は無意識なのかも知れないが――
そんな目を向けられて、またどぎまぎする。
「……お、女の子って……やだあ、こんなおばさんを捕まえて」
なんだか、お世辞の上手いイケメンセールスマンに何かを売り付けられそうな雰囲気を感じてしまう。
おだてるだけおだてて気持ちよくさせて、何か搾り取られそうな……
彼は指で私のおでこを軽く弾いた。
「もうっ!そんな風に言ったらダメ!
てか、菊野さんは俺に取っては可愛い女の子なの!」
「かっ」
またボッと頬が熱くなるが、自分が馬鹿みたいに思える。
こんなに年下の子に、いいように翻弄されてしまうなんて。
彼はそんな私を見てクスリと笑い、ふと空を仰いで言った。
「自分の親とも、来たことがないんだよな……」
「……え」
「父親は仕事ばっかりだし、母親は小さな頃に出ていっちゃったから」
「――」
彼は、小さな男の子を真ん中に挟み手を繋いで歩く親子連れを見て小さく笑った。
その時、風が吹き栗色の前髪が揺れ、彼の憂いを含んだ瞳が顕になり、私の胸が詰まった。
「自分の家が普通なんだって思ってましたからね、小さな頃は。他を知らないし……
まあ、不便なんかは感じた事はないですし、寂しいと思った事もないですけど……て、菊野さん?」
「……うう……っ」
私は涙を堪えていたが、とうとう目から溢れてしまう。
昨日から泣いてばかりだ。
涙腺が決壊してしまったままなのかも知れない。
彼が呟いた、おかあさんと言う言葉は、やはり寂しさから来ているのだろうか。
彼は平気そうにしているけれど、人の心の中は窺いしれない。
深い傷と空洞を彼は持っているのかも知れない。
大きな溜め息が頭上で聞こえて、背中が暖かくなる。
彼は泣く私を抱き締めて、頭をポンポンと叩き、呆れた声を出した。
「……もう……だから菊野さんは危なっかしいんです」
「う……うう……らっれ……」
「こう言う手の昔話をしておいて、同情をひいて身体を狙ってるだけかも知れませんよ?」
「うっ……そ、れは……困るから……っ」
「な――んて……
やっぱり、菊野さんは何処か似てる」
「……?」
森本は、初めて愛した人の事を思い出し、ほんの一瞬彼女と菊野を重ねて見た。
だが彼女の面影は直ぐに消え去り、彼がそれを認めると同時に、ある想いを確信する。
「森本くん……あ、あの……」
――そう言えば、彼が言った『取引』はどうなっているのだろうか?
私が言いにくそうに切り出すと、彼の瞳が揺れた。
「なあに?……気になる事でも?
まあ、そうだよね、気になる事ばっかりだよね……
俺、あの写真を餌に菊野さんをデートに連れ出したかっただけなんだ。少なくとも今日はね……
菊野さん、俺が……怖い?」
「――」
彼の儚げな瞳の色に、私は言葉を失う。
家の玄関で襲われた時も、この間のマンションでの事も勿論怖かったし、触れられるのが嫌だった。
でも、彼の中にある複雑な感情を見てしまった今は――
彼は、抱き締める力を少し弱め、頬に触れて来た。
私はまだ泣き止めずにいたが、彼が指で涙を拭って苦笑した。
「ああ……旦那さんや剛は菊野さんの事が本当に心配なんだろうね……」
「う……どういう意味……」
「可愛くて仕方がないから、心配になるんじゃないのかな?
僕がもし菊野さんの旦那とか息子だったら……心配を通り越して閉じ込めたくなるかも」
「ええっ」
「な――んちゃって」
舌を出してチャーミングに笑う彼を、憎めなくなっている自分に私は気付く。
森本は私の髪を大事そうな手付きで取り弄び、歌うように言った。
「ああ……き~く~のさんがほ~しいな~」
「――っ?」
「……でも、菊野さんは剛の恋人だものね……」
彼はふと視線を逸らし溜め息を吐くが、私はその言葉が胸にぐさり、と突き刺さった。
私は、剛の何なのだろうか。
恋人になどなれる筈もない。
でも、母として彼を守る事も出来ない。
彼は私と居たら――あの家に居たら――壊れてしまうかも知れない。
涙がポトリ、と彼の手の甲を濡らし、彼は顔を歪めて私を見詰めた。
「そんなに、泣かないで…
僕が泣かせてるんだよね……」
「ち……ちが……わ、私が悪い……の」
「何で?……」
「何でって……そんなの、上手く説明出来ない……」
肩を震わせて声を詰まらせると、彼は大きく目を見開いて強く強く抱き締めてきた。
「よくわかんないけど……もう泣かないで……
もう、菊野さんを苛めたりしないから」
剛の低く透き通る声とはまた違う、彼の甘くて優しい囁きは耳に心地好かった。
私はその声に聞き惚れながら、軽く彼の手の甲をつねった。
「……やっぱり、私……苛められてた……の?」
「う――ん……まあ、そういう事だね」
「もうっ……酷い子……っ」
「ふふ……どう致しまして」
「……誉めてなんかない」
憮然として唸る私を、彼はクスクス笑ってそっと離した。
「菊野さん、見てて」
森本は、ポケットからスマホを出して画像フォルダを開き、例の写真をゴミ箱に入れて、ゴミ箱も空にした。
彼の指が確かに写真を削除する操作をするのを私はこの目で確認して、信じられない思いで彼を見詰める。
「森本君……」
「あ――あ、消しちゃった」
彼は背伸びをして、スマホをまたポケットにしまいこむ。
私はまだ心配で、彼の顔を覗き込んでその行動の意図を確かめるように聞いた。
「……どうして?」
「どうしてって……」
彼は、悲しそうに瞳を潤ませるが、口を開き掛けてまたつぐんだ。
私はもう一度訊ねる。
「どうして、消してくれたの?
わ……私を……抱いてない……のに」
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