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喪われた記憶と①
しおりを挟む「……これで少しは目立たないかな……」
私は、病院の洗面所で顔を洗った。特に泣き腫らした目の回りは特に念入りに。
涙の痕は消えたように見えたが、やはり瞼が厚ぼったい。
鏡に映った自分の顔を見て私は愕然とする。
「うわ……なんか……酷いかも」
軽く凹むが、いつまでも落ち込んだ顔をしている訳にもいかなかった。
病室には悟志と真歩が居る。心配をかけてはいけない。
悟志は、長い昏睡状態から目覚めたのだが、何か異常が顕れていないか、明日から検査が始まる。
倒れて入院した時、もし意識を取り戻しても、一部記憶の消失があるかも知れない、という事を医師から聞かされてはいたがまさか本当になるとは思っていなかった。
悟志は剛の事以外は全部分かっているし、覚えていた。
剛に関する全ての事だけを、そっくりそのまま忘れてしまったのだ。
悟志は、剛の名前を出されてもキョトンとするだけで、彼が居なくなってしまい、皆が血相を変えて騒いでいる時にも反応が鈍かった。
まるで他人事の様に。
――本当に、本当に覚えていないの?
剛さんとの事を疑って、私に詰めよって、烈しく抱いた事も?
私が彼を引き取る為に、祐樹と一緒に何度も施設に足を運んで、その度に悟志に話していたのに。遊園地での事も忘れてしまった……?
悟志さんは……忘れた振りをして、私を試そうとしているのではないの?
正直、こんな風に疑心暗鬼だった私なのだが、悟志のそんな様子を見て、本当に剛の事が分からないのだ――と悟った。
それは、剛にとってはとても残酷な事実なのではないだろうか?とも思った。
私たちと血の繋がりのない剛は、いくら皆に暖かく分け隔てなく接して貰っていても、その事実を忘れる事はなかっただろう。
悟志が、剛だけの事を忘れてしまった。
それは、剛にはショッキングな事実だろう。
祐樹は悟志の膝の上に乗り、悟志の耳を引っ張り必死に剛の事を思い出させようとしていた。
真歩も祐樹と一緒になって悟志の耳やら腕を引っ張ったり、脇を擽ったり、スマホに撮ってある剛の写真を見せたり一生懸命だった。
『パパ――!物忘れが酷くなるお年頃にはまだ早いでしょ――!
そっか、ずっと寝てたから、脳みそも寝てるんだね?』
『いや祐樹、パパはこうして起きてるし、呆けてもないぞ?』
『い――や、起きてる様に見えても、脳の中の……何かわかんないけど……まだグーグー爆睡してる部分があるんだよ!
今、俺が起こしてあげるよ――!
パパ――っ起きろ――!朝だよ――っ』
祐樹は、悟志の耳を掴むと思いきり叫んだ。
そのよく通る声は病棟に響き渡り、悟志は勿論、そこにいた皆が耳を塞いだ。
『祐樹――!あんたってやることが極端過ぎるのよ!
ここはね、大人――な真歩先生にまかせなさい!!』
真歩は鼻息荒くそう言うと、悟志の頬を掴んで左右に思いきり引っ張った。
目を白黒させる悟志は、あまりの痛さと驚きで悲鳴も上げれず、彼女を呆然と見詰める。
『せんせ――!何してんのさ――!』
祐樹が目を剥くが、真歩は悟志の頬を更ににゅん、と伸ばしながら、肩を震わせて泣き始めたのだ。
『……悟志しゃんの……あほんだら――っ!
私のっ……結婚相手を……職場の部下に……いい奴がいるからって……紹介するよって言ってた話はど――なったのよ!
悟志しゃんはぶっ倒れちゃうし……わたじ……心配だし……しゃとしさんも心配だぇど……ぞの話がっ……
どどど……どうなるのかしらっで……すっごく気をもんでだんだから――!
あーほ!!あほ――――!!』
わっと声を上げ、悟志の胸に何度も頭突きしながら泣く真歩に、悟志は息も絶え絶えに謝った。
『そ……そうだったのかい……言われて……みればそんな……話をした……ようなしてないような……
ご、ごめん…ね…つまり、覚えてないね……はは』
『はは、じゃ――ない――っ』
『祐樹――!あんたってやることが極端過ぎるのよ!
ここはね、大人――な真歩先生にまかせなさい!!』
真歩は鼻息荒くそう言うと、悟志の頬を掴んで左右に思いきり引っ張った。
目を白黒させる悟志は、あまりの痛さと驚きで悲鳴も上げれず、彼女を呆然と見詰める。
『せんせ――!何してんのさ――!』
祐樹が目を剥くが、真歩は悟志の頬を更ににゅん、と伸ばしながら、肩を震わせて泣き始めたのだ。
『……悟志しゃんの……あほんだら――っ!
私のっ……結婚相手を……職場の部下に……いい奴がいるからって……紹介するよって言ってた話はど――なったのよ!
悟志しゃんはぶっ倒れちゃうし……わたじ……心配だし……しゃとしさんも心配だぇど……ぞの話がっ……
どどど……どうなるのかしらっで……すっごく気をもんでだんだから――!
あーほ!!あほ――――!!』
わっと声を上げ、悟志の胸に何度も頭突きしながら泣く真歩に、悟志は息も絶え絶えに謝った。
『そ……そうだったのかい……言われて……みればそんな……話をした……ようなしてないような……
ご、ごめん…ね…つまり、覚えてないね……はは』
『はは、じゃ――ない――っ』
『あっ!!そうだよ、そう言えば、僕とハイキングに行くって約束してたの、あれってどうなってるの――!』
祐樹が手を叩き、悟志の隣に飛び乗って腕を引っ張る。
『ああ……そう言えば、そういう約束を、したかなあ……?
……うう――ん……』
『わ――忘れてるじゃんか――!』
『悟志の忘れんぼ――!!』
『パパの忘れんぼ――』
『悟志のあほんだら――っ』
『パパのあほんだら――っ』
真歩と祐樹に交互に責め立てられて悟志は苦笑してひたすら謝っていたが、看護士がやって来て
『西本さん、静かにして下さいねっ』
と叱られて、皆小さくなった。
※※
「ふう……」
私は、あまりにも目まぐるしかった今日の出来事を反芻し、思わず声に出して溜め息を吐いた。
昼間、病院に来た時には花野に厳しく諭されて……
あの時には、悟志が目覚める予兆はなかった。
病院の後、森本と遊園地へ行く羽目になって、そこで彼に指と唇の愛撫で絶頂に連れていかれて……
そして、私がそういう事をしている間に、悟志は意識を取り戻したのだ。
病院で、何日か振りに剛の姿を見て、胸が踊るのを止められなかった。
ずっと見ていたらまた恋しい気持ちが言葉となって、そして頬を染めてしまって彼に伝わってしまう――
そう思い、私は剛を見ないよう、顔を逸らしてしまった。
剛は、あの時どう思ったのだろうか?傷付いた?私をもう嫌いになった……?
――剛さんが一緒に居る女の子って……誰なんだろう……
中学の頃にも、女の子からは人気があったようだが、特定のガールフレンドは清崎晴香しか知らない。
他はもう見当も付かなかった。
――無事でいれくれたら……また戻ってきてくれたなら……
と、祈る思いだったが、彼が戻ってきたとして、どんな風に接したら良いのか分からない。
つくづく自分は愚かで浅はかだと何度も思う。
『剛さん、チャリの後ろに女の子乗っけてさあ、競輪選手みたいに速いスピードで行っちゃったわよ。
チラッと見たけど、なかなか可愛かったわよ。
あの子もやるわよね――全く……』
真歩の言葉に、そんな場合ではないのに彼への嫉妬が胸の中を駆け巡った。
「本当に、私ってどうしようもないバカっ……」
私は、鏡の中の自分に向かって毒を吐きながら、顔色を良くする為に唇にリップを塗るが、浮かない表情はどうにも隠しようがなかった。
無理矢理笑顔を作ってみせても頬が引きつって、奇妙にしか見えない。
「ううう……この顔っ……言うこと聞いてくれないっ……
悟志さんにこんな顔をみせる訳には……」
やっと夫が目覚めたと言うのに、浮かない表情をしていては不味い。
嬉しくない訳ではない。悟志が目覚めて安心したし、良かったと思う。
だが、彼が家庭にまた戻ることによって、剛との関係がどういう風に変わるのかが怖かった。
悟志は疑っていた。剛との間に恋愛の感情があるのではないかと、ずいぶん前から。
彼を引き取る前は疑いだったのが、やがて確信に変わっていたに違いない。
倒れる直前の悟志の言葉を思い出すと未だにゾッとする。
そうだ、あの夜、彼は剛に向けて明らかに牽制を通り越した様な言葉を放っていたではないか。
『剛……良く聞いておけ……
菊野は僕の物だ――!』
「……っ」
あの夜の悟志の叫びが、まるで今放たれたかの様な衝撃を受け、私は震えて自分を抱き締めた。
悟志は剛の事を何も覚えていない。
倒れた夜の記憶も、剛に関する事だけが抜け落ちているらしかった。
真歩と祐樹との会話を聞く限りでは、どうやら他にも細かい事を忘れているようだったが、家族の事、自分の仕事の事、趣味の事などは以前と同じくらいに把握している様に見える。
今日のところは彼も目覚めたばかりだから、あまり質問攻めにするのも疲れさせてしまうので、皆ももう彼には剛の事を話そうとはしなかった。
「こら――菊野っ!
そんなメソメソした顔をいつまでもしてるんじゃないわよ――!」
「ひいっ!!ごめんなさっ……て、真歩……ビックリするじゃない!」
鏡の前で鬱々としていたら、後ろから真歩に怒鳴られて、私は胸をバクバクさせる。
真歩はコロコロ笑って私の背中を叩く。
「剛君が女の子と家出しちゃったショックはわかるけどさ、彼もお年頃だし、反抗期だと思ってバーンと構えてなよ!
今にフラッと自分から帰ってくるって。
それに悟志パパが起きたんだから、そっちを喜ばないと!!でしょ」
「う……うん……本当にそうだね」
真歩の口調には何処か含みが感じられて、私は内心ドキリとする。
彼女は、一見いつもと変わらない様に見えるけど、その胸中はどうなのだろう。
悟志は、以前から剛と私を疑っていた。
真歩にもその相談をしていた筈だ。
遊園地の一件の時、真歩はそんな彼の事を笑い飛ばしていたが……
今はどうなのだろうか。
悟志と同じ様に、私の気持ちに気づいているのではないだろうか?
真歩は、背伸びをしながら欠伸した。
「あああ……なんだか、安心したりビックリしたり……疲れたわ……
私、明日早いから帰るね……また来るから」
「うん、ありがとう真歩……」
「剛さんのこと、あんまり思い詰めるんじゃないわよ?
あと、もし帰ってきたら絶対に怒ったらダメだからね!」
「うん、そうだね……」
「ほら――またそう言うグジュグジュした顔をしないの!
笑って!笑って、悟志さんとラブラブしてきなさい!
じゃあねっ」
真歩は、そう言うと元気な足取りで廊下を歩いて行く。
私は後ろ姿に手を振り、歯を食い縛る。
「うん……そうね……森本君も当たってくれてるし……
今グジュグジュ泣いてても仕方がないわ……」
「うしっ!」と小さく叫び、ガッツポーズをすると他の見舞い客が洗面所に入ってきて、私は恥ずかしくなり逃げるようにその場を去った。
悟志の居る個室の扉をそっとノックしてから中へ入ると、彼は身体を起こしてベッドの背に凭れたままで眠そうに目をしばたかせている。
その様子が、遊び疲れて眠気と闘うこどもみたいでもあり、思わずクスリと笑ってしまった。
真歩と祐樹にずっと側に張り付かれていて、相手に疲れたのだろう。
『まだ帰りたくない』と膨れる祐樹だったが、花野と貴史に宥められ、渋々一緒に帰ったのだった。
私は今夜は特別に病室に泊まる許可を貰った。
悟志の隣に小さな簡易ベッドを置いてもらい、そこで眠る事になる。
一晩二人きりになるのが不安でもあったが、真歩がやたらと
『悟志さん、久々に愛しい妻とゆっくり話したいでしょ――?
私と祐樹がずっと悟志さんを離さなかったから、菊野もダーリンを独り占めしたいわよね――?
ね、今夜は、ここに泊まりなさいよ!私も一緒に看護士さんに頼み込むから!ねっ』
と言って、私が反対の意見をできる雰囲気ではなかった。
「ちゃんと布団を掛けないと、風邪引くわ……」
悟志の身体に毛布を掛けようとすると、彼の腕が私を捕まえて、抱きすくめてきた。
「悟志さん……眠った方が……いいんじゃ」
私は、震える声を隠せなかった。
皆が居る時には怖いとは思わなかったのに、こうして実際に二人になると、あの夜を思い出してしまう。
悟志が、あのおぞましい形をした玩具で私を責めて果てさせ、更に彼自身で私を烈しく犯して……
あれは、「営み」ではなく、欲を晴らす為の「交わり」だった。
私は、あの時凄まじいまでの快感に狂いそうな程だったが、反面、悟志が怖くて仕方がなかった。
――あの夜の事、覚えているの?
聞きたいけれど、聞けない。
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