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さよなら、愛しい獣
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凶暴な位に眩しい白い光で目が覚める。
屋根裏の天窓に広がるのは、昨夜美名と眺めた星空ではなく、真夏の真っ青な色と入道雲の白との鮮やかなコントラストだった。
いつの間に自分は眠っていたのか……
綾波は陽射しを避けるようにベッドから降りて両手を額の前で組み目を閉じた。
嫉妬に狂って、美名を滅茶苦茶に抱いた……
美名が奴に例え何をされていようが、美名を愛している事には変わらない。
奴を憎んでも美名を憎む事は無い、と思っていた……
ほなみに恋していた時には、ここまでのどす黒い気持ちを抱いた事はなかった。
そうか俺は……
初めて人を愛したのかも知れない……
本気で愛しているから、許せないと思ってしまった。
東京から長野へやって来たのは、こんな風にする為では無かった。
とにかく美名に会いたかった。
本気で、愛していると伝えに来たのだ。
だが、翔大が美名を今にも突き刺そうとしているのを目の当たりにした俺は、強烈な殺意に支配されて、奴を殺すまで殴る事しか考えていなかった。
奴に身体を掴まれて涙を浮かべる美名の表情は痛ましく、そしてゾクリとする位に美しかった。
あの顔を奴に見せた事だけでも許せないと思ってしまった……
『綾波さんなんて大嫌い!』
涙混じりの悲しい叫びが耳に残り、それは幾度も胸の中でこだまし、キリキリと身体中を抉り痛みを与える。
何故、追い掛ける事が出来なかった?
美名が、今まで囁かれた愛は総て嘘だと思い込んで居るのが分かっていたからか?
――女は思い込みが激しい。
一度こうと決めたら、思ったら猪突猛進にそれしか見ようとしない。
少なくとも今は俺が何を言おうと……
『誤解だ。ほなみの事はもう終わっている。
今愛しているのは美名だけだ』
何度もそう叫んだ所で、美名には響かない。
「……口に出すと、何て陳腐なんだろうな」
綾波は美名への言い訳を一晩考えていた。だがどれもこれも言葉にすると総て嘘の様に薄く見えてしまう。
だが、ついこの間までは、その陳腐な愛の言葉で二人は甘く幸せな時の中に居たのだ。
なのに、ほんの些細な綻びから、大きな溝が出来上がってしまう。
何て脆いのだろうか。
綾波は溜め息を付いて、どうしたものか、と考える。
このまま一緒に住むのは今は無理だ……
美名も、俺を憎んで居るだろうし、俺も近くで美名を見ているのは辛い……
だが、とびきりの歌姫にする。
それは美名との約束だ。
それだけは、叶えてみせる。
「俺の、俺だけの歌姫……」
綾波はある決意をして、挑みかかるような獣の目を外に向ける。
この広い世界で名を馳せる位のDIVA(歌姫)にしてみせる……
――――――
美名は、シャワーを浴びて髪を乾かし、ピンクと白の可憐なワンピースに着替えて、泣いて疲れた顔に化粧をした。
これで、見た目は元気に見えるだろうか?
心の中がどんなにうちひしがれていても、皆の前でそれをさらけ出したくなかった。
(私は、恋を一つ失っただけ……
他は、なにも変わらない……)
呪文の様に、鏡の中の自分に言い聞かせ、唇にそっと触れる。
(真理君の前で沢山泣いたのだから、もう、泣くのはおしまいにしよう……
私には、歌がある……
支えてくれる、優しい真理が居る。
しょう君や綾波さんを愛した様に、真理君も愛せるかは分からないけれど、総てを包み込んで丸ごと受け止めてくれるおおらかな真理君を、好きになりたい……)
綾波に会ったら、平静でいられるだろうか?
心に蓋をして、頑丈な鎧を纏って誤魔化そうとしても、柔らかい部分に触れられたら、たちまちそんな努力は虚しく崩れ、心が壊れてしまう。
ずるくても、卑怯でも、そんな自分を守ってくれる愛にすがりたい。
美名は、真理に心を渡す事を決めた。
バスルームから出ると、キッチンからいい匂いが漂い、弾むような桃子と三広のお喋りが聞こえてきた。
強く気持ちを持つと決めたのに、幸せそうな恋人達の声が、傷ついた心を深く抉る。
美名はキッチンから背を向け、真理の居る部屋に向かった。
真理の屈託ない日溜まりの様な腕に包まれて総てを忘れたい。
自分の爪先を見つめて歩いて居ると、部屋の前に見覚えのある靴が揃えてある。
胸が一気に騒ぎ出した。
「綾波……さん」
「美名?」
真理が向かいの部屋のドアを開けて顔を出した。
ビクリとして振り向くと、真理は美名に見惚れてポカンと口を開けている。
「……?真理君?」
掌を目の前でヒラヒラすると、真理はハッと我に返り、頬を赤くして笑う。
「いや……すっげえ可愛くて、びっくらこいた」
「あ、ありがとう」
「男物のスウェットも可愛かったけどな……
う――ん……俺さ、夢があるんだけど」
真理は真剣な目をして腕を組む。
「な、なに?」
「ほら、アレだよアレ!男のワイシャツ一枚だけ裸にスッポリ着るの!……あれ、美名、やってくれよ!」
真理は美名に拝む仕草をする。
「な……何よそれっ!恥ずかしいからやだ!」
「いいじゃんか!減らねーだろ?」
「そういう問題じゃなくて!」
「俺も美名のコスプレリクに答えるから!だから、なっ?ねっ?いいだろ?」
「何が、だからで、何がいいだろ、なのよ――!エッチ!」
二人で言い合っていたら、いつの間にか目の前のドアが開いていて、綾波の鋭い瞳が睨むようにこちらを見つめていた。
「……!」
美名が息を呑んだのに真理が気づき、庇う様に肩を抱いた。
今日の綾波は、グレーのシャツに紺のネクタイがとても様になっていた。
優雅な足取りで二人に近付くと、切れ長の目元が少しつり上がる。
真理の肩を抱く指に力が籠った。
もう、忘れよう、諦めようと決めたのに、美名は綾波の姿と仕草に目と心を奪われてしまっていた。
心臓は高鳴り、心が騒ぐ。
(……けれど、彼は私を愛していない……)
唇を噛み、下を向くと、綾波の指が顎に触れて上を向かされた。
目の前に鋭い瞳があって、苦しい程ドキドキする。
「美名に触るな!」
真理が美名をギュッと抱き締めて綾波から離す。
(……綾波さん……)
美名は、真理に抱き締められながら、さっきまで触れられていた感触をいとおしく思った。
獣の様な瞳が、二人をなめ回す様に眺めると、形の良い唇から残酷な言葉が放たれた。
「そうか……お前ら、そういう事か。
もうその女には飽きた所だ。
丁度いいタイミングだったな」
身体中から熱が引いていく。
(綾波さん……
一体、何を言っているの?)
「てめえ……」
真理が凄むが、綾波は優雅な笑みでかわす。
「まあ、俺もそれなりに楽しませて貰った……
だがもうお前にくれてやる。
俺のお下がりだがな」
「――!」
切り裂かれる様な衝撃に、美名は震えた。
「この野郎っ」
真理が美名離し、綾波に素早く殴りかかるが、ひらりと避けて真理の拳を片手で受け止め、二人は暫し睨み合う。
いや、睨んでいるのは真理だけだった。
綾波は薄く笑っている。
その冷たい瞳が、昨日の夜を思い出させて美名は堪えられなくなり、真理にしがみついた。
「美……美名?」
「真理君……もう、いいから……
私は……真理君が居れば、いいの……っ」
「美名……」
真理は綾波をキッと睨み、乱暴な仕草で手を振り払い、美名を抱き締めた。
美名は広く暖かい真理の胸に顔を埋めて、綾波を見ない様にした。
綾波は鼻を鳴らす。
「美名……
お前の荷物はアパートへ送って置く」
「!」
事務的な話し方に、体の芯が冷たくなっていく。
「お前の身体にはもう用はないが……その声は欲しい。
マネージャーは今まで通り俺だ……
俺の言うことは聞いてもらうからな……」
グサグサと身体と心に言葉が突き刺さる。
真理のシャツを掴む指に力を籠めた。
「俺は一足先に東京へ帰る。お前はこいつらに送って貰え」
「とっとと行け!
お前には……二度と美名に触らせないからな!この冷血ヤロー!か――っ!」
真理の怒号が響き渡る中、綾波の遠ざかる靴音が耳に纏わりつく。
それを振り払うかの様に、真理に強くしがみついた美名は言った。
「真理君…………
抱いて……
今すぐに……」
屋根裏の天窓に広がるのは、昨夜美名と眺めた星空ではなく、真夏の真っ青な色と入道雲の白との鮮やかなコントラストだった。
いつの間に自分は眠っていたのか……
綾波は陽射しを避けるようにベッドから降りて両手を額の前で組み目を閉じた。
嫉妬に狂って、美名を滅茶苦茶に抱いた……
美名が奴に例え何をされていようが、美名を愛している事には変わらない。
奴を憎んでも美名を憎む事は無い、と思っていた……
ほなみに恋していた時には、ここまでのどす黒い気持ちを抱いた事はなかった。
そうか俺は……
初めて人を愛したのかも知れない……
本気で愛しているから、許せないと思ってしまった。
東京から長野へやって来たのは、こんな風にする為では無かった。
とにかく美名に会いたかった。
本気で、愛していると伝えに来たのだ。
だが、翔大が美名を今にも突き刺そうとしているのを目の当たりにした俺は、強烈な殺意に支配されて、奴を殺すまで殴る事しか考えていなかった。
奴に身体を掴まれて涙を浮かべる美名の表情は痛ましく、そしてゾクリとする位に美しかった。
あの顔を奴に見せた事だけでも許せないと思ってしまった……
『綾波さんなんて大嫌い!』
涙混じりの悲しい叫びが耳に残り、それは幾度も胸の中でこだまし、キリキリと身体中を抉り痛みを与える。
何故、追い掛ける事が出来なかった?
美名が、今まで囁かれた愛は総て嘘だと思い込んで居るのが分かっていたからか?
――女は思い込みが激しい。
一度こうと決めたら、思ったら猪突猛進にそれしか見ようとしない。
少なくとも今は俺が何を言おうと……
『誤解だ。ほなみの事はもう終わっている。
今愛しているのは美名だけだ』
何度もそう叫んだ所で、美名には響かない。
「……口に出すと、何て陳腐なんだろうな」
綾波は美名への言い訳を一晩考えていた。だがどれもこれも言葉にすると総て嘘の様に薄く見えてしまう。
だが、ついこの間までは、その陳腐な愛の言葉で二人は甘く幸せな時の中に居たのだ。
なのに、ほんの些細な綻びから、大きな溝が出来上がってしまう。
何て脆いのだろうか。
綾波は溜め息を付いて、どうしたものか、と考える。
このまま一緒に住むのは今は無理だ……
美名も、俺を憎んで居るだろうし、俺も近くで美名を見ているのは辛い……
だが、とびきりの歌姫にする。
それは美名との約束だ。
それだけは、叶えてみせる。
「俺の、俺だけの歌姫……」
綾波はある決意をして、挑みかかるような獣の目を外に向ける。
この広い世界で名を馳せる位のDIVA(歌姫)にしてみせる……
――――――
美名は、シャワーを浴びて髪を乾かし、ピンクと白の可憐なワンピースに着替えて、泣いて疲れた顔に化粧をした。
これで、見た目は元気に見えるだろうか?
心の中がどんなにうちひしがれていても、皆の前でそれをさらけ出したくなかった。
(私は、恋を一つ失っただけ……
他は、なにも変わらない……)
呪文の様に、鏡の中の自分に言い聞かせ、唇にそっと触れる。
(真理君の前で沢山泣いたのだから、もう、泣くのはおしまいにしよう……
私には、歌がある……
支えてくれる、優しい真理が居る。
しょう君や綾波さんを愛した様に、真理君も愛せるかは分からないけれど、総てを包み込んで丸ごと受け止めてくれるおおらかな真理君を、好きになりたい……)
綾波に会ったら、平静でいられるだろうか?
心に蓋をして、頑丈な鎧を纏って誤魔化そうとしても、柔らかい部分に触れられたら、たちまちそんな努力は虚しく崩れ、心が壊れてしまう。
ずるくても、卑怯でも、そんな自分を守ってくれる愛にすがりたい。
美名は、真理に心を渡す事を決めた。
バスルームから出ると、キッチンからいい匂いが漂い、弾むような桃子と三広のお喋りが聞こえてきた。
強く気持ちを持つと決めたのに、幸せそうな恋人達の声が、傷ついた心を深く抉る。
美名はキッチンから背を向け、真理の居る部屋に向かった。
真理の屈託ない日溜まりの様な腕に包まれて総てを忘れたい。
自分の爪先を見つめて歩いて居ると、部屋の前に見覚えのある靴が揃えてある。
胸が一気に騒ぎ出した。
「綾波……さん」
「美名?」
真理が向かいの部屋のドアを開けて顔を出した。
ビクリとして振り向くと、真理は美名に見惚れてポカンと口を開けている。
「……?真理君?」
掌を目の前でヒラヒラすると、真理はハッと我に返り、頬を赤くして笑う。
「いや……すっげえ可愛くて、びっくらこいた」
「あ、ありがとう」
「男物のスウェットも可愛かったけどな……
う――ん……俺さ、夢があるんだけど」
真理は真剣な目をして腕を組む。
「な、なに?」
「ほら、アレだよアレ!男のワイシャツ一枚だけ裸にスッポリ着るの!……あれ、美名、やってくれよ!」
真理は美名に拝む仕草をする。
「な……何よそれっ!恥ずかしいからやだ!」
「いいじゃんか!減らねーだろ?」
「そういう問題じゃなくて!」
「俺も美名のコスプレリクに答えるから!だから、なっ?ねっ?いいだろ?」
「何が、だからで、何がいいだろ、なのよ――!エッチ!」
二人で言い合っていたら、いつの間にか目の前のドアが開いていて、綾波の鋭い瞳が睨むようにこちらを見つめていた。
「……!」
美名が息を呑んだのに真理が気づき、庇う様に肩を抱いた。
今日の綾波は、グレーのシャツに紺のネクタイがとても様になっていた。
優雅な足取りで二人に近付くと、切れ長の目元が少しつり上がる。
真理の肩を抱く指に力が籠った。
もう、忘れよう、諦めようと決めたのに、美名は綾波の姿と仕草に目と心を奪われてしまっていた。
心臓は高鳴り、心が騒ぐ。
(……けれど、彼は私を愛していない……)
唇を噛み、下を向くと、綾波の指が顎に触れて上を向かされた。
目の前に鋭い瞳があって、苦しい程ドキドキする。
「美名に触るな!」
真理が美名をギュッと抱き締めて綾波から離す。
(……綾波さん……)
美名は、真理に抱き締められながら、さっきまで触れられていた感触をいとおしく思った。
獣の様な瞳が、二人をなめ回す様に眺めると、形の良い唇から残酷な言葉が放たれた。
「そうか……お前ら、そういう事か。
もうその女には飽きた所だ。
丁度いいタイミングだったな」
身体中から熱が引いていく。
(綾波さん……
一体、何を言っているの?)
「てめえ……」
真理が凄むが、綾波は優雅な笑みでかわす。
「まあ、俺もそれなりに楽しませて貰った……
だがもうお前にくれてやる。
俺のお下がりだがな」
「――!」
切り裂かれる様な衝撃に、美名は震えた。
「この野郎っ」
真理が美名離し、綾波に素早く殴りかかるが、ひらりと避けて真理の拳を片手で受け止め、二人は暫し睨み合う。
いや、睨んでいるのは真理だけだった。
綾波は薄く笑っている。
その冷たい瞳が、昨日の夜を思い出させて美名は堪えられなくなり、真理にしがみついた。
「美……美名?」
「真理君……もう、いいから……
私は……真理君が居れば、いいの……っ」
「美名……」
真理は綾波をキッと睨み、乱暴な仕草で手を振り払い、美名を抱き締めた。
美名は広く暖かい真理の胸に顔を埋めて、綾波を見ない様にした。
綾波は鼻を鳴らす。
「美名……
お前の荷物はアパートへ送って置く」
「!」
事務的な話し方に、体の芯が冷たくなっていく。
「お前の身体にはもう用はないが……その声は欲しい。
マネージャーは今まで通り俺だ……
俺の言うことは聞いてもらうからな……」
グサグサと身体と心に言葉が突き刺さる。
真理のシャツを掴む指に力を籠めた。
「俺は一足先に東京へ帰る。お前はこいつらに送って貰え」
「とっとと行け!
お前には……二度と美名に触らせないからな!この冷血ヤロー!か――っ!」
真理の怒号が響き渡る中、綾波の遠ざかる靴音が耳に纏わりつく。
それを振り払うかの様に、真理に強くしがみついた美名は言った。
「真理君…………
抱いて……
今すぐに……」
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