手の届かない元恋人

深夜

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心臓の音がうるさい。
セミのうるさい鳴き声だって今は聞こえない。
ただドクンドクンと早い鼓動が身体全てを支配する。
撮影セット、テレビでしか見た事がない大きなカメラ、撮影スタッフ、メイクさん、監督、見慣れない人ばかりでもっと拳を握る手が強くなる。
ついにこの日が来てしまったのかと実感が湧く。
昨日はあまり眠れなくて日付が変わるまで台本を確認して、妥協は一切しない、これを描いた張本人である自分が納得するまでやるという決心を付けた。
行ってもいいのかここで止まっておいた方がいいのか迷っていると、俺の存在に気付いたスタッフさんがこちらに駆け寄って笑顔で挨拶をしてくれた。

「あっ!もしかしてぽてもちた先生の代理さんですか?お待ちしておりました!」
「...ッはい。篠原です。今日一日宜しくお願いします」

とても明るくて、優しそうな女性の方だ。
腰回りには色々な機械やらコードやらが何個も付いていて、口元には黒点のマイクが付けられていた。
息が上がっているから相当走って来てくれたのだろう。キラキラした目をこちらに向けるスタッフさんに釣られて、緊張していて強張っていた身体は緩り、表情筋が思うように動いてきた。

「私は田中です!ぽてもちた先生の作品が大好きで今回撮影グループとして入らせて貰ったんです!」
「それはそれは、先生が聞いたら嬉しがると思います。
先生にお伝えしておきます。」

そう言うと田中さんは恥ずかしそうな顔をして嬉しいですと笑った。場所を案内してもらいながら周りを見渡すとスタッフみんなが楽しそうに準備をしていて、田中さんもスタッフの方々全員に明るい挨拶をしながら歩いていた。こちらも笑顔になりそうだ。きっとこの仕事が大好きだから雰囲気の良さが出るのだろう。
紗希の言っていた解釈一致というのはここにも含まれているのだろうと思った。

「まさかぽてもちた先生のサポーターがハンサムな男性の方だとは思わなかったです!篠原さんは何のサポートをしてらっしゃったんですか?」
「ハンサムなんて...恐れ多いです。俺は主に背景をしていました。人を描く時のバランスや複雑な工程が苦手であまり得意じゃなかったんです、その代わりに風景画は得意だったのでその成り行きで。」
「私素材集めとしてよく写真や絵を見たりするんですけど、風景画って中々難しいやつですよね?!
凄いです!カッコいいですね~」
「ありがとうございます。」

紗希のファンだからか全て肯定される。
悪い気はしない。
たが、褒められて良い気になってる分、度々我に返り冷静になってしまうのはいつキャストが来るのだろうかという事だ。心の準備をしないと俺は気持ちの切り替えができない。田中さんに聞こうとし、声を出そうとした瞬間、スタッフの誰かがここにいる人全員に知らるように大きな声で言う。

「和泉尚樹さん、小岩井遙さんINです!」

一瞬にして顔が強張り、冷や汗が出る。
こんな早いなんて聞いていない。会ったらまた好きになってしまうという甘々な感情では無い。どうして呆気なく関係を終わらせたのか、どうして別れた後すぐにBLドラマの出演なんてしたのか、どうして何も言わずに俺を捨てて有名俳優になってしまったのか。 そんなドロドロしてグチャグチャな感情をどう処理してアイツと仮でもアイツと恋愛する奴に会えばいいのか俺にはさっぱり何も分からない。
やっぱ俺にはアイツとは会えない。
怖いんだ、他人に扱いをされてしまうのが。
何もなかったかのようにされるのが。
心臓の音がどんどんと早くなり、息が苦しくなる。
足が震える。怖い。

「.....すいません、撮影ってまだやりませんよね?」
「はい!キャストさんのメイク直し、撮影の説明があるので後、1時間はあるかと思います。」
「1時間で必ず帰るので少し出ても良いですか?」
「全然大丈夫ですよ!」
「ありがとうございます。ではまた後で。」

そう言って、逃げるように離れた。
どこかで落ち着かせよう。心と身体を。
撮影場所を抜けると、そこは特別感もないただの田舎の風景だった。今はそれがとてもつもなく落ち着いて、ゆっくりも息が吸えた。原作者の代理という重いプレッシャーから逃れられた。そして、これから立ち向かないといけない問題からも。
その場でしゃがみ込み、頭を抱える。
どうしたら俺は普通の顔をして撮影を見れるのだろうか、怖い、苦しい、アイツが。
和泉尚樹という存在が怖いという、今までに無い感情が和弥を支配する。

森の端っこで丸くなっていると、大丈夫かいと小さなしゃがれた声が聞こえた。
上を向くと、ここの住んでいる人らしき人が俺の前に立っていた。畑仕事を終わらせた後なのか、農作業着を着ていて、持っていたザルの中には大きなスイカが入っている。

「大丈夫かい?」
「...はい、大丈夫です。」
「熱中症になっちゃうと困るよ。そこが私の家だから入っていきな。」

その優しさに涙が出そうになる。
お言葉に甘えて俺は仲里さんのお家に入ることにした。

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