僕《わたし》は誰でしょう

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第三章

ある雨の日

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          ◯


 その日は朝から雨が降っていた。
 分厚い雲に覆われた空には太陽も見えず、今が夏であることを忘れるくらいに風も冷んやりとしていた。

(なんか、嫌な雨だな……)

 雨足はどんどん強くなり、昼頃にはまるで夜のように外が暗くなった。

 俺は自室でひたすら受験勉強に打ち込んでいた。壁にかけられた時計の秒針が一定のリズムを刻む中、屋根やシャッターを叩く雨の音が聞こえる。

 そんな雑音混じりの静寂の中で、机の上のスマホが振動したのは夕方の四時を過ぎた頃のことだった。
 画面を見ると、そこには『美波・母』の文字が表示されていた。美波の母親からの電話だった。

 美波本人ならともかく、彼女の母親から直接俺にかかってくるのは珍しい。過去に学校行事関連で一度だけ連絡を取ったことがあったけれど、それきりだった。

「もしもし。井澤ですけど」

 もしかしたら間違い電話かもしれない、と思いつつ応答すると、

「凪くん。急にごめんなさいね。いま、美波とは一緒にいる?」

 挨拶もそこそこに、スピーカーの向こうからはどこか焦った様子の母親の声が聞こえてきた。

「え? いや。今日は会ってないですけど——」

「美波と連絡がつかないの。どこに行ったか知らない?」

 こちらの声に被せるようにして、母親は一刻を争うような声で言う。

 胸騒ぎがした。
 美波の居場所がわからない。こんな大雨の中で、彼女は一体どこへ行ってしまったというのか。

 俺は早々に通話を切ると、着の身着のまま、傘も差さずに外へ飛び出した。通学用の自転車を駆り、雨の中をひた走る。

 嫌な予感がした。虫の知らせのような、ざわざわとした不快な感じが胸に広がる。

 脳裏で、いつか美波が口にしていた言葉が甦る。

 ——この橋ってさ、雨がたくさん降った日には川の中に沈んじゃうよね。

 学校からの帰り道。氷張川に架かる沈み橋の上に寝転がって、彼女はそんなことを言っていた。

 ——ここでずっと僕が何日も寝転がっていたら、そのうち僕は川に流されて死んじゃうのかな。

 あんな場所にずっと寝転がっていたら、いつかは川に流されるに決まっている。あの橋は、少しでも増水すればたちまち川の中に沈んでしまうように設計されているのだから。

 まさかとは思うが、彼女はあの言葉通り、川に流されて死ぬつもりなのではないか——そんな予感がした。

 彼女は常日頃から、男になることを望んでいた。自分の体が女であることに悩んでいた。
 そして、いつか自分が死んだ時には、臓器移植によって男に生まれ変わることができるのではないかと夢見ていた。

 彼女は、自ら死んで生まれ変わることを望んでいたのではないだろうか。

「美波……。美波……!」

 不安で胸が押し潰されそうになる。心臓がばくばくと脈打ち、呼吸が上手くできなくなる。
 俺は雨の中を一心不乱に自転車を漕ぎ、ずぶ濡れになりながら山を下りて、やがて氷張川の沿道に立った。

 案の定、川は増水している。いつもは透明で穏やかな水面は、今は土砂を含んだ茶色になって荒れている。
 沈み橋の姿はもはや見えない。暴れる川の底に沈んで、まるで最初からそこに何も存在していなかったかのようだ。

「美波。どこだ。いるなら返事をしてくれ!」

 必死に張り上げたその声は、雨と川の音に掻き消される。どこを見ても、美波の姿はない。

 そのうち、ポケットに突っ込んでいたスマホが震えて、俺はすぐにそれを手に取った。

 父からの着信だった。
 今は病院で仕事中のはずだが、そんな父から電話がかかってくるのは珍しい。
 俺は恐る恐る応答ボタンを押して、それを耳に当てた。

「……もしもし?」

「凪。確認したいことがあるんだが、今から病院に来られるか?」

 スピーカー越しに届いた父の声は、やけに低かった。
 俺は心臓の早鐘を聞きながら、半ば現実味のない心持ちで父の言葉を受け止めていた。

 父の勤務する病院に、急患が運ばれてきたらしい。助かる見込みは薄く、身元もまだわからないというその患者は、おそらく俺の知り合いではないか、ということだった。
 
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